17. ハロウィン、そして
十月に入った。
BARにはハロウィンのガーランドが飾られ、お客さんに少しでも雰囲気を味わってもらえるようにしている。
「どれどれ、ハロウィンカクテルはと」
綾小路先生がメニューを眺めている。
“ブラッド”はクランベリーがベースとなった血液のようなカクテル、“ブラック”はブドウがベースとなった黒猫をイメージしたカクテルだ。
「俺はこれがいいかな」
「松永先生、もう決めたのか? じゃあ俺は筋肉に良さそうなものを……ってないか」
松永先生はふわふわのお化けが乗った、白っぽいカクテルを注文していた。意外と可愛いものが好きなんだ……
「このお化けのカクテルは……せな考案だ」
怜さんがカクテルを準備しながら言う。
“ブラック”と“ブラッド”もいいけれど、色が濃くてクールに見える。淡い色のキュートなものもあった方がいいと思い、私が考えた。
「嬉しいです、松永先生に注文してもらえて」
「……じゃあ俺も君のメニューにするよ、せな」
「え? 綾小路先生も? それじゃあ俺も!」
結局、三人とも同じものを注文していた。
それを見た怜さんが「まいったな」という顔をするので、私はクスッと笑ってしまう。
「ハロウィンなんて、もうこの歳じゃやらないからな」と松永先生。
「それでも、人が集まるのはいいな」と薫さん。
「イベントがあるってだけで、人生の余白は簡単に埋まるものだな」と綾小路先生。
三人は今日も仲良くカウンターに並んでいる。
いつもの風景、いつもの会話。
それだけなのに、特別感がある。
ハロウィンだから、だけではない。
「はい、こちらの目玉クッキーもどうぞ」
丸いクッキーに目玉をデコレーションしたもの。
これもハロウィン限定メニューで、私が考えた。少しの工夫で、簡単にハロウィンらしくなる。
「……すごいな。去年はこんなクッキーなかったぞ」と綾小路先生に褒められた。
松永先生と薫さんも「美味い」と満足そう。
「せなのおかげで、メニューに幅ができて女性客にも好評なんだ」
怜さんがそう言って、優しい視線を向ける。
私は恋人としてだけでなく、ひとりの従業員としても必要とされている……彼の目を見てそう思えた。
◇◇◇
慌ただしい時間は過ぎてゆき、BARはすっかり静かになる。
今は常連が二人、カウンターの向こうで低い声で話しているだけだった。
その時、チリン、と鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ……」
言いかけて、声が止まった。
視線を上げなくても、分かってしまった。
足音の間合い、立ち止まる位置、空気の重さ。
「……久しぶりだな」
その声に背中がひやりと冷え、指先から力が抜けた。
懐かしさの形をして、もう受け取れない声。
そこに立っていたのは――元夫の啓一だった。
少し痩せたようにも見えるし、前より疲れているようにも見える。
けれど、私を見る目だけは変わっていなかった。
まだ、自分の知っている私だと思っている目。
「……いらっしゃいませ」
それでも、私は店の声で言った。
名前は呼ばない。
“個人的な関係”を、ここに持ち込まないために。
「知り合いから聞いた、ここにいるって。せなはこういう店、好きだったよな」
この言い方……彼にとっては懐かしんでいるだけなのかもしれないが、私にとっては忘れそうなぐらいに遠い話だった。勝手に“共有の過去”を引き寄せようとしている。
私は、グラスを拭く手を止めなかった。
「ご注文は?」
「話だけでいい」
そう言って、彼はカウンターに腰を下ろす。
「元気そうで安心したよ」
「……ありがとうございます」
礼儀としての言葉。
本当は何も言いたくないけれど、今の彼はお客さん。仕方ない。
「連絡、ずっと返してくれなかったな」
「お客様との私的なお話は……控えさせてください」
言葉にして、線を引いたつもり。
声は、思っていたより震えなかった。
彼は一瞬だけ黙り込んでから、苦笑した。
「変わったな」
「そうかもしれません」
それは否定しなかった。
変わったのは、悪いことじゃない。
怜さんの足音が、奥から近づいてくる。
気づいた彼が、ちらりと視線を向けた。
「……店主?」
「そうです」
怜さんは、何も聞かずに私の隣に立った。
近すぎない距離。
でも、はっきりと“こちら側”だと分かる位置。
「……ああ、そうか」
元夫は、ようやく状況を理解したようだった。
「君、幸せそうだな」
「……今は、穏やかです」
説明も、言い訳も、もういらない。
この姿が、今の私なの。
「やり直せると思ってたんだ」
「……それは」
カウンターに手を置く。
ここは、私の大切な場所。
「私はもう――やり直すつもりはありません」
怜さんが、何も言わずに頷いた。
それが、背中を支えてくれる。
啓一はしばらく私を見てから、静かに立ち上がった。
「……そうか」
「ご来店、ありがとうございました」
扉が閉まり、鈴の音が消える。
胸の奥に残っていた重たいものが、ゆっくりとほどけていく。
「……大丈夫か」
「うん」
私は、小さく息を吐いた。
「ちゃんと、言えたよ」
「ああ」
怜さんはそれ以上のことは聞かず、ただ隣に立ってくれた。
夜は、まだ続いている。
でももう、過去に引き戻されることはない。
私は、ここにいる。
今を選んで――このカウンターの内側に。
◇◇◇
BARの営業時間が終わり、扉の鍵を閉める。
その瞬間、急に眩暈がしてきた。張り詰めていたものが、ほどけた反動みたいに。
「せな……!」
怜さんに支えられる。
そのまま、彼の腕の中でゆっくり深呼吸をした。
「……本当は、大丈夫じゃなかったの」
「……」
「でも……お店だから。頑張った」
彼は、私の背中をそっと撫でた。
じんわりと、あたたかいものが染み渡ってくる。
「……せな、今は無理しなくていい」
「……」
「……俺がついてる」
「……っ」
私は怜さんにしがみつきながら、静かに涙を流した。
悲しかったからじゃない。
この人なら、いつだって私の味方でいてくれる――そう感じたから。
その日の夜は、いつもより彼に触れながら……溶けるように眠った。




