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16. 特別なことはなくても

 夜のBARは、落ち着いた静けさに包まれていた。

 常連が数人、ゆっくりとグラスを傾けている。


 チリン、と鈴が鳴る。


「いらっしゃいませ……」


 声を出して、すぐに分かった。

 北条里佳子さんだった。

 昼間よりも控えめな装いだが、上品さは変わらない。

 私とは、歩いてきた道が違う人だと感じた。

 

 彼女は軽く会釈をして、カウンターの端に座った。


「……こんばんは」

「こんばんは」


 怜さんは、奥でおつまみを準備している。

 こちらを見ない――見ないでいてくれる。


「……あなたも店にいるのね」

「はい」

「……じゃあ一杯、いただける?」

「かしこまりました」


 私は、強すぎないお酒を選んだ。

 昼間の彼女ではなく、夜の彼女に合う味。


「……どうぞ」


 里佳子さんは一口含んでから、ふっと息を吐いた。


「……相変わらず、いい店ね」

「ありがとうございます」


 少しの沈黙。

 けれど、彼女は何かを話したそうに見えた。

 こういう時は待つ――向こうが話したくなる時まで。

 怜さんから教わったことを思い出しながら、私はグラスを拭いていた。


 やがて、彼女がゆっくりと口を開いた。


「……私、結婚しているの」

「……はい」


 知っている。

 でも、彼女は自分の口で言いたかったのだと思う。


「家の事情でね。“北条”の娘として、選ぶべき相手がいたの。だから、怜とは別れた」


 その声は静かで、後悔も誇りも混ざっていた。

 立派な家柄の人なのだと、今さらのように思う。

 その立場に立つということが、どれほど重いのか――彼女の声の奥から伝わってきた。


「相手は、社長よ。尊敬してる」


 グラスを置く。

 そのあとに続く言葉が明るいものではないと、私はすぐにわかった。


「でも……子どもは、できなかった」


 淡々とした言い方だが、胸の奥で長い時間、沈殿していたものがある。


「……そうだったんですね」

「ええ、私はそういうのは“向いていない”って思ったの」


 私は、何も言わずに聞いていた。


「……あなたはきっと、これからよね」

「そうですかね……私も結婚とか“向いてないかも”って思ったことがあって」

「そうなの……?」


 そう。離婚してからは、自分の居場所が分からなくなっていた。自分の良いところさえ、分からなくて。

 でも。


「向いてるかどうかじゃなくて……心を楽にして、流れに身を任せるのも……悪くないかなって思えるようになりました」

「……確かにそうかも。なんだかんだで私、今でも夫のそばにいるからね」

「素敵なことだと思います。良い意味で気を遣わなくていい関係って憧れます」


 里佳子さんは照れたように笑った。

 それは今日初めて見た、自然な表情だった。


「……あなたに言えて良かったわ。怜だと適当に流されそうだし」

「ふふ……」

「子どもができなくても、何かを残せるのかな」


 その言葉に、私は何も返せなかった。

 けれど、心の中では静かに彼女を応援していた。


「……怜と仲良くね」

「はい」


 しばらくしてから、彼女はお会計を済ませて帰って行った。

 扉が閉まったあと、BARの音が少し遅れて戻ってくる。

 氷の音、グラスの底が触れる音。

 それらが、やけに現実的だった。


 私は拭いていたグラスを置き、カウンターの奥に視線を落とした。

 里佳子さんの背中が残した空気は、重たくもあり、どこか静かでもあった。


 ――子どもができなくても、何かを残せるのかな。


 彼女の言葉が、耳の奥で反芻される。

 それは問いというより、長い時間をかけて自分に言い聞かせてきた言葉のようだった。


 私自身はどうだろう。

 結婚、家族、子ども――そういう未来を、考え続ける力が残っていなかった。

 望まなかったわけじゃない。

 ただ、一度失ってしまったあとで、もう一度未来を形にしようとすることが怖かっただけだ。


 でも、今は。

 このカウンターに立ち、誰かの話を聞き、グラスを差し出し、夜を少しだけ軽くする。

 

 それだけのことなのに。

 それが、確かに私の手の中にある。


 里佳子さんは、別の場所で、別の役割を選んだ。

 私は、ここを選んだ。

 それだけの違いなのかもしれない。


 カウンターの奥で、怜さんが小さく息を吐く気配がした。

 彼は何も言わず、ただこちらを見ていた。


 ――過去を知っていても、今を選んでくれる人。


 私は、その視線に小さく頷く。

 大丈夫だと伝えるみたいに。


 この店は、誰かの後悔も、誰かの選択も、全てを静かに受け止めてくれる……そんな気がした。


「……ありがとう、せな」


 彼の声がする。

 一拍置いてから、私は答えた。

 

「……怜さんのおかげ」

「そうか?」

「そうだよ」


 怜さんが、グラスを一つ棚に戻す。


「……昔、あの人と別れてから」

「……」

「恋より、この店の方が向いてると思ってた」


 その目は少し遠くを見ていた。


「今は?」

「今は……そうでもない」


 彼は少しだけ笑った。

 その笑顔が、私の心を和らげる。

 

 あなたがいたから、今の私でいられる――

 これからも、隣にいさせてね。


 

 ◇◇◇



 BARの営業時間も終わり、片付けの音が消えたあと、私は怜さんの部屋に来ていた。

 ベッドで怜さんの腕に包まれながら、私は彼に尋ねてみた。


「怜さんは……この先どうしたいとか、ある?」

「……そうだな」


 少し考えるような横顔。

 ほのかに香る、いつもの彼の匂い。


「君となら、いつかは」

「怜さん……」

「せなは、どう思ってる?」


 私は、彼の胸元に頬を寄せる。


「……結婚はもういいって思ってた。でも、怜さんとなら。けど、まだ怖いの」

「そうだったんだな」

 

 離婚して少しは経ったけれど、彼とは急ぎたくなかった。ただ近くにいられるなら、それで良かった。


「ずっと今日みたいに、あの店で怜さんとお客さんを迎えて……特別なことがなくても、あなたと笑っていたい」

「せな……」

 

 彼の腕の力が強くなる。

 胸の高鳴りはおさえられない。

 そっと……おでこに触れるだけのキスが降ってくる。


「……俺も、そう思ってる」


 怜さんが微笑みながら、私を抱き寄せる。

 あったかい……このぬくもりがずっと続いてほしい。

 

 そう思いながら、私たちは静かな夜に身を委ねていった。


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