14. 彼が戻った店
朝の光は、思っていたよりも柔らかい。
カーテン越しに差し込む淡い光が、ベッドのそばに細長く伸びていた。
目を覚ましてから、しばらくその光を眺めていた。
最近の店のこと、綾小路先生の言葉、松永先生の声、薫さんの背中。
そして――怜さんの、熱に浮かされた声。
綾小路先生たちのおかげで、私はあのBARに立つことができた。感謝しているし、私自身も成長できたと思う。
けれど――やっぱり怜さんがいないと。
私は、静かにベッドを抜け出して支度をした。
キッチンで野菜を切って、和風だしを準備する。調子が良くない時でも食べられる、優しい味付けの煮物だ。
「よし、行こう」
階段を降りる足音が、やけに大きく聞こえる。
二階の廊下は、まだ朝の気配に満ちていなかった。
……大丈夫かな。
インターホンを押そうとする手が、一瞬止まる。
けれど、今日は――会いたい。
「……怜さん」
インターホンを押したあと、少し間があって彼が出てきてくれた。
「……せな?」
怜さんの顔色はかなり良くなっていて、笑顔も見える。
「……起こしちゃいました?」
「いや……ちょうど目が覚めたところだ」
その声に、少しだけ安心する。
中に入って、荷物を下ろす。
私は、マグカップを準備して差し出した。
「お白湯だよ。あと……煮物を作ってきたの」
「……ありがとう、あとでいただくよ」
指先が触れるだけで、鼓動が速くなる。
彼がマグカップを持ち上げる手は、もう震えていなかった。
私は、ソファに腰を下ろす。
「昨日は薫さんが来てくれて。おかげで私、ちゃんと回せた」
「そうか。もう大丈夫だ、今日は立てる」
「本当?」
「ああ」
良かった。
私はほっと胸を撫で下ろした。
「あのね、怜さんがいなくても……どうにかなってはいたんだけど」
私は、彼の方を見た。
今日はずっとこうして見ていたかった。
「でも、怜さんがいない夜は……落ち着かない」
怜さんは、ゆっくりと息を吐いてから、私の手に触れる。確かめるような指先。
「……無理をさせたな」
「ううん。けど、怜さんが立つカウンターに、戻りたい」
その言葉に、彼はほんの少しだけ――困ったように笑う。私の手を、握ったまま。
「そんなふうに言われたら……離せなくなる。今日は特に」
そう言って抱き寄せる腕は、どこか余裕がなくて。いつもより、少しだけ熱を帯びていた。
私だけの特等席。この場所が一番、落ち着く――
◇◇◇
夜になった。
すっかり元気になった怜さんは、カウンターの奥でおつまみを準備している。
その姿を見ていると、彼と目が合った。
「そんなに見られると、落ち着かないな」
「怜さんだって……いつも私のこと見てるでしょ」
「……そうだったな」
「……煮物、どうでした?」
「めちゃくちゃ美味かった。全部食べたよ」
「良かった」
「毎日でも食べたい」
「え、本当?」
二人で笑い合っていると、チリン、と音が鳴ってお客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ……あ、皆さんお揃いで」
そこには、綾小路先生、松永先生、薫さんの三人が立っていた。
「やぁ、せな」
「今日も手伝いに来たぞ」
「エプロン、奥だったな」
三人はそう言っていたが、カウンターにいる怜さんを見て嬉しそうに声をあげた。
「怜さん、もう大丈夫か?」と松永先生。
「ご心配おかけしました。せなを見てくれてありがとう」と怜さんが笑う。
「じゃあ、今日はパーっといきますか!」と、薫さんの腕の筋肉がぴくりと動く。
「フフ……今夜は盛り上がるね。せな」と綾小路先生。
怜さんがいなくてもお店は回せたけれど、みんなが揃うともっと嬉しい。
私は早速グラスを準備した。すると、怜さんが私の手元をちらりと見る。
「……君に任せてもいいか」
「え?」
「“せなの店”も見てみたい」
怜さんはそう言って、少しだけ後ろに下がる。
その距離が、もう寂しくない。
むしろ――背中を預けられている感覚に近かった。
「じゃあ……皆さん、今日は“ありがとうございます”の一杯を」
「いいね」
「任せた」
「楽しみにしてるよ」
三人分のグラスを出す。
それぞれ違うけれど、今夜は共通点がある。
――怜さんや私のために、お店を手伝ってくれた人たち。
綾小路先生には、心がほどけるような軽めのスピリッツを。
松永先生には、芯の通った苦味のある一杯を。
薫さんには、いつもの静かな強さを。
全員にグラスを渡し終えると、カウンターで一息つく。
皆が一口飲んで、笑顔になった。
「……こうして揃うの、久しぶりだな」
「店が生きてる感じがする」
「だな。人が集まる場所だ」
いつものカウンターの雰囲気に、私も怜さんも一安心だ。
そう思っていると綾小路先生に呼ばれた。
「せな。また困ったことがあればいつでも駆けつける」
ウインクをする綾小路先生に、胸のあたりがドクンと音を立てた。何という破壊力だろう。怜さん以外の人にドキドキしてしまった。もちろん“恋”じゃない。
「桜野さん、俺はいつでも君の味方だ」
こう言うのは松永先生だ。
穏やかな言い方なのに、彼の低い声が頭の中でずっと響いていて頬が熱い。怜さん以外の人の声で、こんなことを思うなんて。もちろん“好き”とは違う。
「また君の隣でエプロンをつけたいな」
薫さんがニッと笑う。
シャツの上からでもわかる筋肉のたくましさは、何度でも見てしまう。いや、怜さん以外の人の身体ばかり見るなんて私ったら……もちろん“そういう気持ち”はない。
「せな、どうした?」
「れ……怜さん」
「顔が真っ赤だぞ?」
「え……だって……それは……」
「どれどれ」
怜さんがそう言いながら、私の額に自分の額をくっつけてきた。
顔が……近い……
「れ……怜さんっ……」
「ん? 熱はなさそうだな」
もう鼓動がおさまらない。
あの三人よりも、怜さんが近づくだけでこんなにも……
「……怜さんが戻ってきてくれて、嬉しい」
「せな……」
営業中であることも忘れて、見つめ合う私たち。
綾小路先生が、グラスを傾けながらぽつりと言う。
「いい顔だね。二人とも」
怜さんが一瞬、照れたように咳払いをする。
「……仕事中だな」
「は……はーい」
店内には、いつものジャズと少し賑やかな空気が流れていた。
チリン、と鈴が鳴ってまたお客さんがやってくる。
「いらっしゃいませ」
私は思う。
この場所は、誰かの居場所でもあり、私たちの場所でもあると。
夜は、まだ始まったばかりだった。




