13. 彼のいない店②
翌日。
怜さんはまだ二階で休んでいた。
熱は下がりつつあるけれど、咳が残っているし身体も怠そうにしている。
無理をさせたくなくて、今日も休んでもらうことにした。
何もしなければ彼のことばかり考えてしまうので、片付けをしようと思い、私は一階に降りてきた。
その時、チリン、と扉の鈴が鳴る。
「……え?」
今日はまだ開店していないはず。
顔を上げると、そこに立っていたのは――
「こんばんは」
「……松永先生?」
ジャケット姿の松永先生だった。
仕事帰りらしく、鞄を肩にかけている。
「綾小路先生から連絡があってな」
「え……?」
「俺も協力しようかと」
先生はそう言って、静かに店内を見回した。
一瞬、心のどこかがざわついた。
――今日は、本当に誰かに頼っていい日なのだろうか。
「君はもう一人で立てる。だが――“一人で立たせない”という選択も、必要な時がある。怜さんの代わりに、今日は俺が」
その言葉に、胸がじんとする。
綾小路先生も、松永先生も、私やこの店のことを考えてくれているんだ。
「……いいんですか」
「ああ。エプロンはどこだ」
迷いのない口調だった。
私は壁際のフックを示す。
松永先生は、そこに掛かっていたエプロンを手に取り、静かに身につけた。
「……似合います」
「そうか。こっちの方が性に合っているかもしれん」
小さく笑うその横顔は、いつもより柔らかかった。
松永先生もキッチンに立つことがあるのだろうか。
スイーツを作る松永先生の姿を勝手に思い浮かべて、ほんのりと頬が熱くなってしまった。
そして、開店時間になった。
「いらっしゃいませ」
私の声に、先生がテーブル席の方に向かう。
昨夜の綾小路先生とはまた違う、静かな背中。
最初のお客さんが入り、注文を受ける。
「君の腕の見せ所だな」
「……はい」
私はカクテルを作る。
グラスを差し出すときも、隣で見守ってくれる気配があった。
けれどそれは、いつもの“あの人の気配”とは少し違っていて――
それでも、私は迷わなかった。
「少し涼しくなりましたね」
「秋の始まりにふさわしい一杯になるかと」
「いつもありがとうございます」
彼の穏やかな声で、場が整う。
忙しさが一段落した頃、先生がぽつりと言った。
「怜さんは、今いちばん弱っている」
「……はい」
「君は、いちばん強くなり始めているのかもな」
そう言われて、自信がついた。
もう、手順に迷うことはない。
先生が向こうに立ち、私はカウンターの内側で、自然に次の動きを考えていた。
「本当に、助かります」
「フフ……隣にいる人が倒れたとき、代わりに立つ者がいる。それだけのことだ」
――それだけ。
でも、その“それだけ”が、どれほど心強いか。
閉店時間。
最後のお客さんを見送り、鍵をかける。
今回は松永先生のおかげで、普段どおりにお店を営業できた。
「今日は……ありがとうございました」
「いえいえ」
先生はエプロンを外しながら言った。
「桜野さん」
「はい」
「恋をしても、無理するんじゃないぞ」
私はしっかりと頷く。
恋はするけれど、自分らしく頑張りたい。
先生はジャケットを羽織り、扉に手をかけた。
「今夜は、良い店だった」
鈴の音がして、扉が閉まる。
私は一人、カウンターに戻る。
グラスを拭きながら、二階を見上げた。
――怜さん。
あなたが休んでいる間も、私はここにいます。
独りじゃない形で。
――そう思えた夜だった。
◇◇◇
その翌日も、怜さんはまだ本調子ではなく、店には降りてこなかった。
無理をすれば立てるかもしれないけれど――させたくなかった。
夕方、私は一階で一人、グラスを磨いていた。
……今日は、閉めるしかないのかな。
そう思いかけた、そのとき。
チリン、と鈴が鳴った。
「いらっしゃいま――」
言いかけて、言葉が止まる。
立っていたのは、薫さんだった。
シャツ越しでも分かる胸板の厚みに、思わず視線が止まってしまう。
「こんばんは」
「薫さん……?」
「松永先生から聞いた」
それだけで、状況を全部理解した顔をしている。
「今日は俺が立つ」
「え……?」
「怜さんが倒れて、君一人で回せないなら――理由はそれで十分だろ」
彼もまた、迷いのない声だった。
今日は薫さんが一緒に立ってくれるなんて。
「でも……」
「心配するな。客の扱いなら慣れてる」
そう言って、カウンターの中に入る。
その動きが自然すぎて、ここが薫さんの居場所だったみたいに見えた。
「エプロン、あるか」
「あ、はい……」
渡すと、薫さんは無言で身につける。
その姿は、妙に様になっていた。
「……似合います」
「そうか?」
きっと薫さんがフライパンを持てば、腕の筋肉が盛り上がって、ますます逞しいのだろうな。
私は一人で想像して恥ずかしくなった。
「今日は“店主代理”だ」
「代理……」
「ああ。でも、君の店だ。俺は横に立つだけ」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
開店時間となり、常連が一人、また一人と入ってきた。
「……あれ、今日は怜さんは?」
「体調崩してるんです」
「そうか……」
空気が少し沈みかけたところで、薫さんが口を開いた。
「安心しろ。味は落ちてない」
「それは期待していいのかな」
「ああ。俺が保証する」
低く落ち着いた声に、場が和む。
味を保証してもらえる喜びと、少しだけ緊張があった。
それでも私は、いつも通りにカクテルを作る。
薫さんは客の視線を受け止め、自然に会話を回す。
「今日は君の一杯が主役だ、見てれば分かる」
その言葉通りだった。
私は焦らなかった。怜さんの視線がなくても、背後に“立ってくれる人”がいる。
それが、こんなにも心強いなんて。
「……いい夜だな」
薫さんが、グラスを拭きながらぽつりと言った。
その言葉で、私はこれまで以上に安心感を覚えた。
怜さんがいなくても、どうにか店を回せたんだ。
そして閉店後。
最後のお客さんを見送り、鍵をかける。
「今日は……本当にありがとうございました」
「いいんだ、俺は、“来ただけ”だからな」
二階を見上げながら、薫さんが言う。
「怜さんはな」
「……」
「君を失うほうが、体調崩す」
それだけ言って、扉を開ける。
「またな、店主」
「……お疲れさまでした」
静かになった店内で、私は深く息を吐いた。
綾小路先生、松永先生に続き、薫さんも来てくれた。
三人のおかげで気づけた。
怜さんに守られて立つ場所と、怜さんがいなくても守ろうとした場所は、同じカウンターでもまったく違う。
私は、私の足でカウンターの内側に立っていた。
グラスを持つ手も、声も、視線も――逃げなかった。
――私は、この場所に立つ人間だ。
誰かの背中に隠れるのではなく。
そう、胸を張って言える夜だった。




