12. 彼のいない店
九月に入り、夕方は涼しい時間帯も増えてきた。
けれどここ最近、怜さんはたまに咳をしていて苦しそうなのが心配だ。季節の変わり目で体調が不安定なのだろうか。
そんなある日の昼間。
準備をしていると、怜さんが頭を押さえて椅子に腰掛けた。
「怜さん、やっぱり調子良くないんじゃ……」
「いや、そんなことは……」
私が彼のおでこに手をやると、明らかに熱い。
体温計を持ってきて熱を計ると、三十八度だった。
「大変……怜さん、今すぐ休まなきゃ」
私は彼を二階に連れて行った。
怜さんはふらつきながらも、ベッドに横になってくれた。
「今日は店、閉めるか……」
「でも……私が」
「……君を一人にはできない」
前に一度、一人で立った夜のことが、頭をよぎる。それ以来、怜さんの視線は少しだけ増えた。
それ自体は悪くない……むしろ、嬉しい。
でも、お店を休むのはもったいないような気がする。
かといって、またあんな目に合うのは避けたいし。
「とにかく、怜さんはしっかり休んで。お薬買ってくるね」
そう言って怜さんの部屋を出て、私は近くのドラッグストアへ向かった。歩きながらも、今日のBARの営業をどうすればいいのかを一生懸命考えていたが、何も思いつかなかった。
お店に到着して、お薬やゼリーを買い物かごに入れる。すると、前の方に見慣れた後ろ姿があった。
「綾小路先生……?」
「おや、せなじゃないか」
「こんにちは」
先生は相変わらず渋い笑顔だ。
つい見惚れてしまうけれど、私には怜さんがいることを忘れてはならない。
「お薬……体調でも悪いのか?」
「あ、怜さんが熱出しちゃって」
「それは心配だな」
「だから今日はお店……閉めないといけなさそうで」
「それは残念だな」
「私一人でもカクテルは作れますが、お店回せないですし、それに……怜さんが心配しちゃうし」
私がBARを営業させたいことを、綾小路先生はわかっていたようだ。うつむく私に、先生は少し考えてからこう言った。
「それなら、俺が手伝おう」
「え……?」
綾小路先生が……BARの手伝いを?
申し訳ない気持ちはあるけれど、どこか期待もしてしまう。
「それは悪いですよ」
「気にすることはない。いつも怜さんにはお世話になってるからな。それにあそこがあるから、松永先生や薫とも出会えたんだ」
そうだったんだ。
あの三人は昔からの知り合いに見えたけれど、出会いはBARだったのか。
「じゃあ……怜さんにも確認しますね」
そう言って、私は急いで会計を済ませた。
袋を抱えたまま店へ戻る途中でも、気持ちはまだ定まっていなかった。
誰かに頼ることに、まだ少し慣れていない。
でも今日は――一人で背負うべきじゃない気がした。
二階の部屋に戻ると、怜さんは浅い呼吸で辛そうだった。額に汗が滲んでいる。
「怜さん……」
「……せな」
目を開けて、私の顔を見る。
それだけで、少し安心したように眉が緩むのがわかった。
「綾小路先生が……今日、店を手伝ってくれるって」
「……え?」
一瞬、驚いたような顔をしてから、怜さんは小さく笑った。
「……綾小路先生らしいな」
「いい、かな……?」
「無理にとは言わないが……俺としては、助かる」
そう言われて、胸が少し軽くなった。
怜さんにはゆっくり休んでもらって、その間にお店のほうを頑張らないと。
「じゃあ、先生にお願いするね」
「……ありがとう。せな」
その声はいつもより弱々しかったけれど、確かに信頼の色を帯びていた。大変そうだが、強い絆が生まれた気がして、やる気が湧いてくる。
私はそっとドアを閉め、一階へ降りた。
◇◇◇
店内はまだ静かで、夕方の薄い光がカウンターに落ちている。
「さて……」
綾小路先生は店の奥を見回してから、ふっと笑った。
「怜さんがいないBARは、不思議だな」
「……ですよね」
「さぁ……怜さんの代役が務まるか分からないが、君と俺でこのBARを始めようか」
その言い方が、まるで新しい物語の世界にいざなうようだった。
先生は壁際に掛けてあったエプロンに手を伸ばした。慣れた手つきで紐を結ぶ仕草が、妙に様になっていて思わず見入ってしまう。
「似合います……」
「フフ。家では毎日この姿になる」
綾小路先生も料理ができるんだ……
私はこっそり思い浮かべて、笑みをこぼしていた。
開店時間。
最初のお客さんが入ってくる。
「いらっしゃいませ」
私の声に、先生が一歩後ろで静かに立つ。
注文を受け、カクテルを作る。
先生がいるとはいえ、怜さんのいる安心感とは若干違う。グラスを差し出すとき、少し手が震えてしまった。
――怜さんなら、今どうしていただろう。
「大丈夫」
私の様子に気づいたように小さな声で先生が言った――それだけで、指先の力が戻る。
お客さんとの会話が途切れそうになると、先生が自然に言葉を添える。
「そのカクテル、今日のあなたに合ってますよ」
「物語で言えば……一区切りの味ですね」
「今日のあなたには、極上の一杯を」
場が和らぎ、笑いが生まれる。
それを見て、先生に来てもらえて良かったと感じた。
私は驚くほど、スムーズに動けている。
――怜さん。
今夜、ちゃんと回ってます。
その思いが、胸の奥で静かに灯る。
忙しさが一段落した頃、先生が小声で言った。
「……君、いい顔してる」
「え?」
「守られてるというより、ここに立ってる人の顔だ」
ドキリとした。
もうそれは、ここがはっきりと私の居場所になったことを意味するようだった。
「怜さんが聞いたら、何ていうでしょうか」
「そうだな、きっと喜んでくれる。だが……君を守りたいとは思うだろうな」
そして閉店時間。
最後のお客さんを見送り、鍵をかける。
「今日は、ありがとうございました」
「フフ……いいんだよ」
エプロンを外しながら、先生は穏やかに言った。
「彼が君を信じた。君はそれに応えた。それだけの夜だ」
それだけの夜でも、私にとっては大きな一歩となった夜だった。
二階を見上げる。
怜さんは、きっとまだ眠っている。
「……彼の様子を見てきます」
そう言って、私は階段に向かった。
背中で、綾小路先生が小さく呟く。
「この店はな……人を育てる場所だ。酒よりも、ずっと」




