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12/20

12. 彼のいない店

 九月に入り、夕方は涼しい時間帯も増えてきた。

 けれどここ最近、怜さんはたまに咳をしていて苦しそうなのが心配だ。季節の変わり目で体調が不安定なのだろうか。


 そんなある日の昼間。

 準備をしていると、怜さんが頭を押さえて椅子に腰掛けた。


「怜さん、やっぱり調子良くないんじゃ……」

「いや、そんなことは……」


 私が彼のおでこに手をやると、明らかに熱い。

 体温計を持ってきて熱を計ると、三十八度だった。


「大変……怜さん、今すぐ休まなきゃ」


 私は彼を二階に連れて行った。

 怜さんはふらつきながらも、ベッドに横になってくれた。


「今日は店、閉めるか……」

「でも……私が」

「……君を一人にはできない」


 前に一度、一人で立った夜のことが、頭をよぎる。それ以来、怜さんの視線は少しだけ増えた。

 それ自体は悪くない……むしろ、嬉しい。


 でも、お店を休むのはもったいないような気がする。

 かといって、またあんな目に合うのは避けたいし。


「とにかく、怜さんはしっかり休んで。お薬買ってくるね」


 そう言って怜さんの部屋を出て、私は近くのドラッグストアへ向かった。歩きながらも、今日のBARの営業をどうすればいいのかを一生懸命考えていたが、何も思いつかなかった。


 お店に到着して、お薬やゼリーを買い物かごに入れる。すると、前の方に見慣れた後ろ姿があった。


「綾小路先生……?」

「おや、せなじゃないか」

「こんにちは」


 先生は相変わらず渋い笑顔だ。

 つい見惚れてしまうけれど、私には怜さんがいることを忘れてはならない。


「お薬……体調でも悪いのか?」

「あ、怜さんが熱出しちゃって」

「それは心配だな」

「だから今日はお店……閉めないといけなさそうで」


「それは残念だな」

「私一人でもカクテルは作れますが、お店回せないですし、それに……怜さんが心配しちゃうし」


 私がBARを営業させたいことを、綾小路先生はわかっていたようだ。うつむく私に、先生は少し考えてからこう言った。

 

「それなら、俺が手伝おう」

「え……?」

 

 綾小路先生が……BARの手伝いを?

 申し訳ない気持ちはあるけれど、どこか期待もしてしまう。


「それは悪いですよ」

「気にすることはない。いつも怜さんにはお世話になってるからな。それにあそこがあるから、松永先生や薫とも出会えたんだ」

 

 そうだったんだ。

 あの三人は昔からの知り合いに見えたけれど、出会いはBARだったのか。


「じゃあ……怜さんにも確認しますね」


 そう言って、私は急いで会計を済ませた。

 袋を抱えたまま店へ戻る途中でも、気持ちはまだ定まっていなかった。

 誰かに頼ることに、まだ少し慣れていない。

 でも今日は――一人で背負うべきじゃない気がした。


 二階の部屋に戻ると、怜さんは浅い呼吸で辛そうだった。額に汗が滲んでいる。


「怜さん……」

「……せな」


 目を開けて、私の顔を見る。

 それだけで、少し安心したように眉が緩むのがわかった。


「綾小路先生が……今日、店を手伝ってくれるって」

「……え?」


 一瞬、驚いたような顔をしてから、怜さんは小さく笑った。


「……綾小路先生らしいな」

「いい、かな……?」

「無理にとは言わないが……俺としては、助かる」


 そう言われて、胸が少し軽くなった。

 怜さんにはゆっくり休んでもらって、その間にお店のほうを頑張らないと。


「じゃあ、先生にお願いするね」

「……ありがとう。せな」


 その声はいつもより弱々しかったけれど、確かに信頼の色を帯びていた。大変そうだが、強い絆が生まれた気がして、やる気が湧いてくる。

 私はそっとドアを閉め、一階へ降りた。



 ◇◇◇

 

 

 店内はまだ静かで、夕方の薄い光がカウンターに落ちている。


「さて……」


 綾小路先生は店の奥を見回してから、ふっと笑った。


「怜さんがいないBARは、不思議だな」

「……ですよね」

「さぁ……怜さんの代役が務まるか分からないが、君と俺でこのBARを始めようか」


 その言い方が、まるで新しい物語の世界にいざなうようだった。

 先生は壁際に掛けてあったエプロンに手を伸ばした。慣れた手つきで紐を結ぶ仕草が、妙に様になっていて思わず見入ってしまう。


「似合います……」

「フフ。家では毎日この姿になる」


 綾小路先生も料理ができるんだ……

 私はこっそり思い浮かべて、笑みをこぼしていた。


 開店時間。

 最初のお客さんが入ってくる。


「いらっしゃいませ」


 私の声に、先生が一歩後ろで静かに立つ。

 注文を受け、カクテルを作る。

 先生がいるとはいえ、怜さんのいる安心感とは若干違う。グラスを差し出すとき、少し手が震えてしまった。

 ――怜さんなら、今どうしていただろう。


「大丈夫」


 私の様子に気づいたように小さな声で先生が言った――それだけで、指先の力が戻る。

 お客さんとの会話が途切れそうになると、先生が自然に言葉を添える。


「そのカクテル、今日のあなたに合ってますよ」

「物語で言えば……一区切りの味ですね」

「今日のあなたには、極上の一杯を」


 場が和らぎ、笑いが生まれる。

 それを見て、先生に来てもらえて良かったと感じた。

 私は驚くほど、スムーズに動けている。


 ――怜さん。

 今夜、ちゃんと回ってます。

 その思いが、胸の奥で静かに灯る。

 忙しさが一段落した頃、先生が小声で言った。


「……君、いい顔してる」

「え?」

「守られてるというより、ここに立ってる人の顔だ」


 ドキリとした。

 もうそれは、ここがはっきりと私の居場所になったことを意味するようだった。


「怜さんが聞いたら、何ていうでしょうか」

「そうだな、きっと喜んでくれる。だが……君を守りたいとは思うだろうな」


 

 そして閉店時間。

 最後のお客さんを見送り、鍵をかける。


「今日は、ありがとうございました」

「フフ……いいんだよ」


 エプロンを外しながら、先生は穏やかに言った。


「彼が君を信じた。君はそれに応えた。それだけの夜だ」


 それだけの夜でも、私にとっては大きな一歩となった夜だった。

 二階を見上げる。

 怜さんは、きっとまだ眠っている。


「……彼の様子を見てきます」


 そう言って、私は階段に向かった。

 背中で、綾小路先生が小さく呟く。


「この店はな……人を育てる場所だ。酒よりも、ずっと」


 

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