11. 愛おしい人
数日後。
店の仕込みをしていると、松永先生がふらりと入ってきた。
「まだ開店前だったかな」
「大丈夫ですよ。少しなら」
簡単なドリンクを出すと、先生は一口含んでからこちらを見た。
「……雰囲気が変わったな」
「え?」
「店じゃない。君だ」
そう言って、カウンター越しに視線をやる。
怜さんは奥でグラスを磨いている。
……雰囲気が変わったと言われて真っ先に思いつくのは、やっぱり彼のことだ。
「前は、常に周囲を見ていた。どこか不安げに。だが今は、相手を信頼している顔だ」
心臓が跳ねた。
もう私と怜さんの間には、妙な距離感はない。彼のことは心から信頼している。
綾小路先生といい、松永先生といい、私はそんなにわかりやすいのだろうか。
「そんな……」
「フフ……否定はしないのか。噂になり始めているぞ」
「……噂?」
「“あの店主は、あの子を見ると声が変わる”と。常連だけじゃない。近所の店でも、もう話題だ」
私は思わず息を呑んだ……いくらなんでも早すぎる。
でも、前も私たちの不自然さがわかったぐらいだ。今回も、すぐ気づかれたのだろう。
怜さんもこちらを見たので、お互いを見つめ合うこととなった。
「……視線と声は、隠しきれないものだ」
「そうなんですね。松永先生も……声が変わるのですか」
そう言うと、先生は吹き出しそうになっていた。
「……変わるかもな」
「へぇ……気になる」
「フフ……言葉にしなくても伝わる関係というのはな」
「はい……」
「先に輪郭が浮かび上がるものだ。ふたりの輪郭、だな」
先生はグラスを置く。
言葉じゃなくて、先に輪郭。
少し意味がわからなかったけれど、私と怜さんの関係は出来上がっている……ということだと思う。たぶん。
怜さんの方を見るけれど、特に何も言わない。
でも、私が動くと自然と視線が追ってくる。
私も、彼の気配を探さなくなった。
これが“輪郭”ということだろうか。
そのまま開店時間となり、今度は薫さんが入って来た。
少し日焼けしていて、筋肉の色が濃くなっている。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ、薫さん」
「いつもの、お願い」
「はい」
薫さんの“いつもの”は、シェイカーを使わない静かなカクテルだ。
ロックグラスに大きめの氷をひとつ。
まず注ぐのは、スモーキーなウイスキー。そこにほんの少しだけ、苦味のあるリキュールを落とす。甘さはほとんど感じない程度。
最後に、オレンジピールを軽くひねって香りづけ。
バースプーンで、二回だけ混ぜる。それ以上は触らない。
「……どうぞ」
差し出すと、薫さんは一言も言わずに受け取った。
一口含んで、ゆっくりと喉を鳴らす。
「……今日も、これが一番だな」
強いお酒なのに、後味は不思議と静かで、身体の奥に熱だけを残して消えていく。
――余計な言葉はいらない一杯。
薫さん自身みたいな、カクテルだった。
隣にいる松永先生に「焼けたな」と言われている。
旅行にでも行って来たのだろうか。
「海に行ってきた。ついはしゃいでしまってな」
「……素敵です」
「ある程度色がついた方が、筋肉が綺麗に見えるからな」
そう言って自慢の胸筋をちらちら見せてくるので、私は目のやり場に困りながらも「そうですね」と言った。水着もよく似合うに違いない。
「君たちもバカンスには一緒に行くのか?」
君たち……一緒に。
私と怜さんのことだと気づく前に、顔が赤く染まっていく。
「そ……それは……ね、怜さん」
「あ……まぁ仕事もあるからな」
ふたり一緒ということは否定しないまま、薫さんに答えた。明らかに照れが混じった声だった。
「君と怜さん、筋肉が似てきたな」
「え?」
筋肉って、似るの?
「いや……私はそこまでの筋肉は。怜さんはけっこう……その……胸板も厚くて、腕もしっかりしてて」
「……せな、恥ずかしい」
薫さんがニヤリと笑いを浮かべる。
「……よく観察してるんだな」
「はい……触れると安心する身体だなって」
「……せな。それ以上は」
薫さんも松永さんも、ほのかに笑みを浮かべている。
……しまった。筋肉と言われただけなのに、喋りすぎたかも。
「……君たちが仲良いってことが、よくわかったよ」
「そうだな。怜さん、桜野さんを大事にするんだぞ」
怜さんが、嬉しそうに小さく笑う。
そんな彼を見て、私はますます怜さんのことを愛おしく思うのだった。
◇◇◇
閉店後。
先ほどまでの賑やかさが嘘だったかように、静かになった。ジャズのBGMが耳に心地よく響く。
グラスを片付けていると、背後から静かな声が落ちる。
「せな」
振り向く前に、気配が近づく。
店内に他の足音がないことを確かめた、その瞬間。
「怜さ――」
言い終える前に、そっと腕が回された。
背中に触れる体温は確かで、けれど決して乱暴ではない。強さよりも、逃がさないという意志のようなものが伝わる。
「……片付け、まだ」
「少しだけ」
耳元に落ちる低い声。
指先が、私の手からグラスを静かに外した。
「……せなが、あんなことを言うから」
「私?」
振り返ると、近すぎる視線。
思い出しただけで、頬が熱を帯びる。
「……俺は、案外余裕がない」
そう言って、彼の唇が私のこめかみにそっと触れた。
一瞬で終わるほどの距離なのに、鼓動だけが確かに重なる。
照明を一つ落とすと、店内は柔らかな影に包まれる。
カウンターの向こうにいたはずの時間が、静かにほどけていく。
その夜――
二階はまるで全てから遮断されたように、私たちのぬくもりで満ち溢れていた。




