10. 味で語る
二階の怜さんの部屋。
物は少なく、黒い家具で統一された室内。
一人でいるのが怖くて、つい甘えてしまったけれど……まさか部屋に連れて来られるなんて。でも、ここからどうしたらいいのか、わからない。
「せな」
「……はい」
「……」
「……」
「……おいで」
今までで、一番優しい声。
怜さんと一緒にソファに腰掛けた。
肩が触れる距離に、胸が高鳴る。
「……俺は」
彼が、私を見つめて言う。
低くて、柔らかな言い方。
「……君とは距離を置かなければならないと、勝手に思ってた」
「そう……でしたか」
わかっていた。
明らかに目を合わせてくれなかったから。
「でも……今日、せなを見て気づいた」
「……」
「君を、誰にも取られたくないと」
頬が赤くなるのが、自分でもわかった。
胸の鼓動はおさまる気配がない。
「……すまない。俺としたことが、おかしなことを言ってるな」
「……おかしいのは、私だって同じです」
「え?」
もう、距離なんてどうでも良かった。
ただあなたに、伝えたかった。
「だって……怜さんのいない夜なんて、もう考えられないんだもの」
「せな……」
まるで二人の間だけ、世界が止まったみたいだった。
私たちは、目を合わさなかった時間を埋めるように、見つめ合う。どれだけ見ていても、まだ足りない。
やがて、怜さんの顔が近づいてきてゆっくりと――唇が触れた。確かめ合うみたいに。
彼が私の身体に触れるたび、じんわりと温もりが漂い、吐息を感じる。彼が纏うウッディーな香りに、カクテルよりも酔ってしまいそうで、思わず声が漏れる。
その香りは私だけが知ってしまった、怜さんの匂いだった。
「怜さん……私」
「ん?」
「……ずっと、寂しかったんだから」
そう告げると、彼の胸元に顔を埋めた。怜さんは微かに口元を緩め、自然な仕草で背中を抱き寄せる。
「……俺だって、寂しかったさ」
「本当?」
「ああ。だから今日は……君を離さない」
「……あっ……怜さん……」
ぎゅっと強く抱きしめられて、身体の芯から熱くなる。
でも――このままでいたい。
もっとあなたに近づきたい、あなたに触れたい。
オレンジ色の灯りが揺れている中で、ふたりの影がじっくりと重なってゆく。
甘い時間は、まだ始まったばかりだった。
◇◇◇
――朝。
窓から光が差し込み、瞼を白く照らす。
「せな」
「んっ……」
おでこに彼の唇がそっと触れた。
その瞬間、昨日のことが蘇ってきて私は顔が熱くなる。
「あ……怜さん」
「おはよう」
髪を撫でられて、ますます心臓がうるさくなる。
私は服を着て、ベッドから降りた。
すでに、怜さんが朝食を準備してくれていた。
焼き魚にだし巻き卵、お味噌汁とご飯。
「……こんなにきちんとした朝食、なんだか申し訳ないよ」
「そんなことない、俺が作りたかったんだ。君のために」
君のために、だなんて。
そんな言葉、これから先ずっと覚えてしまうに決まっている。
「……もし多かったら、残してくれても構わないが」
「ううん、食べる。怜さんの作ったものなら、全部」
二人でこうやって朝食を食べる日が来るなんて、夢じゃないだろうか。
私は彼の方をちらりと見る。
「……どうした」
「み、見てただけ。怜さんのこと」
「フフ……」
その微笑みだけで、身も心もとろけてしまいそうだ。
私たちはたった一晩で、距離の測り方が変わってしまった気がした。
◇◇◇
――夜。
今日は綾小路先生が来てくれた。
カウンターに通して、注文を確認する。
「今日は……せなに任せるよ」
「かしこまりました、綾小路先生」
そう答えながら、準備に取り掛かる。
もう、怜さんの視線を探さなくてもいい。
でも――見られていることは、ちゃんと分かっている。
恥ずかしいけれど、嬉しい。
私は棚に目を向けた。
綾小路先生は、言葉の人だ。
人の感情をすくい上げて、物語にしてしまう人。
だからこそ、今日は“余白”のある一杯がいい。
「今日は……少し、軽めでいかがでしょう」
「うん。今夜は、考えすぎない味がいい」
その言い方に、思わず微笑んでしまう。
やっぱり、この人には見抜かれている。
選んだのは、澄んだ色のスピリッツ。
そこに、ほんの少しだけ苦味を足すためのリキュール。
甘さは最小限。
氷を一つ落として、バースプーンでゆっくり混ぜる。
言葉を探す前の、沈黙みたいに。
「……今日は、物語の“あと”に飲む一杯です」
自分で言って、少し照れた。
でも、綾小路先生は楽しそうに目を細める。
「いいね。それはもう、続きを書かなくていい夜だ」
グラスに注ぎ、最後に柑橘の皮を軽くひねる。
香りは一瞬で消えるくらいがいい。
「どうぞ」
綾小路先生は、グラスを手に取って一口。
すぐには言葉を発さず、しばらく視線を落としたまま――やがて、息を吐いた。
「……なるほど」
「いかがですか」
「言葉が、静かになる味だ」
私はほっと胸を撫で下ろす。
「前はね、君の一杯は“始まり”だった」
「……」
「でも今夜は、“落ち着いたところに辿り着いた人”の味だ」
ドキリとする。
けれど、否定はしなかった。
カウンターの向こうで、怜さんがグラスを拭いている。
視線が合ってほんの一瞬だけ、微笑んでくれた。
「……そうか、越えたんだな」
「ん?」
「……カクテルよりも甘い夜を、ふたりで」
そう言われた途端、私も怜さんも顔を赤らめる。
どうしてわかってしまうのだろう。
綾小路先生はもう一口飲んでから、ぽつりと言う。
「恋をすると、人は饒舌になるか、静かになるかのどちらかだ」
「……私は?」
「君は、味で語るようになった」
その言葉を聞いて、私は怜さんの方を見た。
彼は静かに頷いてくれる。
味が変わるぐらい、怜さんと触れ合っていたことを思い出してしまい、また身体が熱くなりそうだ。
カクテルの中身が、ゆっくりと減っていく。
夜は深い。でももう、不安で満たす夜じゃない。
この一杯は、もう戻らない場所に辿り着いた人が、静かに頷くための味だった。




