1. 雨の夜
雨は、降り出すと決めたら容赦がなかった。
細かい霧雨ではなく、肩や髪を一気に濡らす重たい雨。
私は駅から少し離れた路地を、あてもなく歩いていた。
中身が少ないはずのスーツケースが、やけに重く感じてなかなか進めない。
離婚届を出したのは、三日前。
感情が落ち着いたわけでも、整理がついたわけでもない。
ただ、これ以上同じ場所にいると、呼吸ができなくなりそうだった。
――あんなことが起きるなんて。
啓一は、物腰柔らかな理想の夫だった。
そう信じていたから、私は毎日、彼のために家事をこなしていた。
なのに……浮気された。
「別れないなら離婚する」と言った途端、すぐに離婚に応じるなんて。浮気じゃなくて“本気”だったのだろう。
簡単に“離婚”だなんて言葉を口にするんじゃ……なかったのかな。それでもあの感じなら、いずれ破綻していた気もする。
もちろん少ないながら慰謝料はもらったが、胸の奥に空いた穴は埋まる気配がなかった。
――お金の問題じゃない。愛されなかったという事実が、ただ重い。
三十を過ぎてからの離婚は、声を上げることすらできないほど、静かに受け止めるしかなかった。
傘は持っていなかった。
濡れることに、もうあまり抵抗がなかった。
視界が滲み、足元の水たまりにネオンが揺れる。
見覚えのない街。知らない夜。
――このまま、どこへ行くんだろう。
急に、背筋が冷えてくる。
誰かに頭を揺らされるように視界が傾き、足元の感覚が遠のいた。
あぁ……このまま道端でびしょ濡れになりながら、倒れてしまうのだろうか。
もう……無理。
ふっと力が抜けた、その時だった。
誰かにふわりと抱き抱えられた感触。
同時に、傘に響く雨音が聞こえてくる。
「……大丈夫か」
低く、落ち着いた声がした。
声だけなのに、あたたかみがある。
顔を上げると、目の前に一人の男性が立っていた。
黒いシャツに身を包み、片手には傘。
年齢は四十代半ばだろうか。整えすぎていないオールバックの髪、穏やかな眼差し。
心配そうではあるけれど、踏み込みすぎない距離。
「雨、強くなってきたな」
そう言って、彼はそっと傘をこちらに傾けた。
問い詰めるような視線も、理由を求める言葉もない。
その優しさが、逆に胸に刺さる。
「……すみません」
出てきた声は、思ったよりも掠れていた。
「ここ、俺の店だ」
彼は、背後の建物を示した。
一階に、灯りの落ち着いた店が見える。
古いけれど、手入れの行き届いた佇まい。
「よければ、雨宿りだけでも」
無理強いしているわけでもない、言い方。
ほのかなウッディーな香りと、雨の匂いが混じる。
――この人なら。
理由はない。ただ、そう思った。
許されるなら、今だけは誰かに頼りたかった。
私は小さく頷き、彼の差し出した傘の下に入る。
扉を開けると、雨音が一段階遠のく。
ほのかに、ウイスキーと柑橘の香りが混じった空気。
「ようこそ、BAR LUPINE へ。俺は、店主の柊原怜。君は?」
「あ……桜野せなです」
「桜野せな……か。綺麗な名前だ」
そう言われるだけで、頬が熱くなってきた。
名前を褒められるなんて、初めてだった。
彼は私の様子を一瞬だけ確かめると、そのままカウンターの内側に入った。慣れた動きでタオルを取り出し、そっと差し出してくる。
「まず、これで」
「……ありがとうございます」
濡れた髪を押さえると、タオルがすぐに重くなった気がした。涙が滲んでいて指先が少し震えているのを、見ないふりをしてくれる。
彼は棚を見上げ、ボトルに手を伸ばしかけて―― 一度、止めた。
「酒、強い?」
「……あんまり。今日は……その、きついのは」
「無理に飲まなくていい」
それだけで、張りついていた緊張が少しだけ剥がれた。無理に飲まなくてもいいし、無理に笑わなくてもいいとも言われているみたいだった。
私はカウンター席について息を整える。
すると怜さんは氷をひとつ、グラスに落とした。カラン、と静かな音が店内に響く。
柑橘を手に取り、ナイフを入れる。皮を剥く手つきが丁寧で、無駄がない。香りがふわりと広がった。
「今日は、これにしよう」
そう言って注がれたのは、淡い琥珀色の液体だった。
強いアルコールの匂いはしない。
代わりにほんのりと甘く、温度のある香り。
「アルコールは弱め。身体、冷えてるから」
理由をきちんと添えてくれるのが、ありがたかった。
グラスを私の前に静かに置く。
「……いただきます」
小さく呟いて、口をつける。
あ……
――やさしい。
喉を焼くような刺激はなく、じんわりと身体に味が広がっていく。
柑橘の酸味と、ほんの少しの甘さ。冷え切っていた指先に、血が戻ってくる感覚がした。
ほっとした瞬間、また涙が溢れそうになる。
「……おいしい」
思わずこぼれた声に、彼は小さく頷いただけだった。
「これって何というお酒ですか」
「名前は、まだない」
「え?」
「今の君用だから」
その言葉が、身体の奥に静かに沈んでいった。グラスを持つ指先が、ほんの少しだけ緩む。
“離婚した女”でも、“行き場のない人”でもなく、ただの「今の私」として扱われた気がして。
気づけば、さっきまで止まらなかった雨音が遠くに感じられた。
この一杯が、私にとって――
ここが逃げ込む場所ではないことを、教えてくれる。
……そんな気がした。
「……離婚したんです」
思わず言ってしまった。
そのぐらい、私は彼の前でリラックスしていたのだろう。どんなことを話しても受け入れてくれそう。
「他に好きな人がいるって言われて」
「……」
「……信じていたものって、簡単に崩れるんですね」
怜さんはしばらく黙っていたが、やがて表情を緩めてそっと言った。
「頑張ったな」
その瞬間、さらに目頭が熱くなってきた。
大粒の涙が頬を濡らして、カウンターに滴がぽたりと落ちる。
恥ずかしい……自分から離婚を切り出したのに。自分で決めたことなのに。
「今日の君に必要なこと……それは」
「……」
「……ゆっくりと休むことだ」
休むこと……
そういえばここ数日、手続も多くてまともに眠れていなかった。気持ちが沈んで、布団に入ってもすぐに目が覚めていた。
「……ですよね」
「行くあてはあるのか?」
何も考えずに出てきてしまったから、今の私に行く場所なんてない。
「……これから探そうと思って」
「そうか……無理にとは言わないが、今日はここで休んだ方がいい」
「え……?」
ここって泊まる場所があるの……?
BARだけど。
「俺はこの建物のオーナーでもある。二階が俺の部屋だ。三階は元々、スタッフ用の部屋でな。ちょうど空いている、よければ今夜だけでも使うか?」
「……いいんですか?」
「もちろん」
なんて優しい人なのだろう。
ちょうど疲れ切っていたので、お言葉に甘えることにした。
私は「ありがとうございます」と頷き、示された階段へ向かった。
不思議ともう孤独ではなかった。
この夜が、私の人生を静かに変えていく始まりだったことを――そのときの私は、まだ知らない。




