涙(1)
気がつくと、キアナは岩に背をもたせて座り込んでいた。
陽光で温まった岩肌が、まるで生きて体温を持っているかのようだ。その温もりだけを、キアナは感知している。
…リーウは結局、姿を見せない。
太陽は僅かに傾き、少しだけ光を和らげている。おそらくそう時を待たずに、追手が来るに違いなかった。
朝方、不在に気付いてすぐに動いているとしたら── キアナより歩みはきっと確かで速い。すぐにでも視線の先、なだらかな丘の向こうから姿を見せるはずだ。
── おそらく、こっぴどく怒られるに違いない。
そんな風に思ったら、何だかばからしくなって、キアナは自嘲のような笑みを口元に浮かべた。
(…それとも、彼等が来る前にわたしもリーウのように食われてしまったりしてな)
そう考えて、それでも良いような気がしてきた。
もはや、リーウの事は名前くらいしか思い出せなくなっている。完全に忘れてしまうくらいなら、そうなってしまった方が、いっそ幸せのような気がした。
(仮にここに捧げられた《供物》が全てこれに食われたとして── 今まで赤ん坊や、ろくに物心もついていない子供ばっかりだ。わたしも行けば…リーウも淋しくないよな)
この岩石がリーウを取り込んだ── 現実離れした答えだったが、だからこそ、それを信じるのは簡単だった。
そう思えたら楽だったから。
── まるでいつか覚める、悪い夢か何かのように。
+ + +
「…探したぞ、キアナ」
いつの間にか眠っていたらしい。
重い目蓋を持ち上げてみると、太陽を背に見覚えのある人物が数人立って、キアナを見下ろしていた。
「…旅団長」
「まさかと思ったが…ここまで辿り着くとはな。…この大ばか者が」
怒りを通り越してしまったのか、それとも呆れ果ててしまったのか── 無事にキアナを発見した事で安堵したからなのか。
旅団長は呆れたような、そして何処となく感心したような口調でそう言った。
「戻るぞ、キアナ」
座り込んでいるキアナを立たせようとするかのように、旅団長がその手を差し出す。キアナをそれをぼんやりと見つめはするが、動こうとはしなかった。
「キアナ?」
眉を顰めてキアナを見つめる旅団長に、キアナはゆるゆると首を横に振った。
「── 駄目だ、旅団長。わたしは、戻れない……」
やがて発せられた拒否の言葉に、旅団長はその目を見開く。
だが、その答えを半ば予測していたのだろう、それ以上の動揺は見せずに差し出した手を引っ込める。
「キアナ、我侭を言うんじゃない」
厳しい表情を浮かべ、旅団長はキアナに言い聞かせるように言う。しかし、キアナはその言葉に耳を貸そうとしなかった。
── その言葉が正しい事は、キアナ自身がよく知っている。
第一、リーウはキアナがここへ戻って来る事も、ここに残ろうとする事も望んでいなかったに違いないのだ。
それでも。
「わたしをここへ置いて行って下さい」
「キアナ!!」
「わかっています、それがどんな意味を持つのか。そして…そうした場合、あなたの咎になるという事も。でも、それでも…わたしはリーウをこんな所に一人にしたくないんだ……!!」
ぎゅっと、リーウが残した服を抱き締める。その必死な様子とキアナの言葉に、旅団長はようやく肝心な事を忘れていた事に気付いた。
そう── つい昨日この《聖地》へ捧げられ、一人残ったはずのリーウの姿が何処にもない事に。
「キアナ? それで…そのリーウは何処にいるんだ。姿が見えないようだが──」
旅団長の言葉で、同行していた男達も今気付いたかのように、周囲をきょろきょろと見回し始める。
よく考えれば、一番最初に気付いてもおかしくない事実だ。しかし、彼等はすっかりその事を失念していた。
…その姿に、キアナは先程までの自分の姿を重ねる。自分の中からリーウを形作っていたあらゆる物が抜け落ちた、あの衝撃を思い出す。
「…捜しても無駄です。もう、あなた方だってリーウがどんな顔をして、どんな声をしていたか覚えてないでしょう?」
「……!」
キアナの冷ややかにも聞こえる言葉に、彼等は揃って息を呑む。実際、その通りだったのだ。
集落はそれなりの人数の人間が暮らしていたが、全ての住人を把握出来ない程ではない。
第一、リーウとキアナの仲睦まじさは見ていて印象に残るものだった。まるで、本当に血を分けた姉弟のようだと。
…そう簡単に忘れられる類のものではないのだ。
言葉を失って立ち尽くす彼等に、キアナは小さく笑いを漏らす。
「そう…もう、この世の何処にもいない。リーウは、この太陽の化身に全て食われてしまったんだから……!」
「キアナ、それはどういう意味だ」
「言葉通りですよ。わたしがここへ辿り着いた時には、もうリーウは消えてしまっていた。この── 服だけをここに残して」
「…服?」
言われて、旅団長の目がキアナの抱える服に移った。それは確かに見覚えのあるもので、旅団長は表情を引き締める。
「── 獣に襲われた可能性は」
「見てください、この服。綺麗なものでしょう?」
「……」
広げて見せられた衣服には、確かに牙や爪で引き裂かれたような跡も、そして血の染みすらもない。
「…もう何処にもいないんです。リーウはもう、この地上の何処にもいない……!!」
口にしてしまうと、今まで胸の奥底で燻っていたあらゆる感情が、出口を見つけたかのように一気に噴き出してきた。
それは為す術もなく奪われてしまった理不尽さへの怒りであり、あまりに無力で意気地のなかった自分への憤りであり、そして── 大切な存在を永遠に喪った事への悲哀でもあった。
それ等全てが、キアナの中で混じり合い、明確な形となって表へと出て来ようとしている。
キアナの理性はその衝動に対して、咄嗟に待ったをかけた。それは告げる── そうする事は、恥ずべき事だ、と。
けれど、その勢いが止まる事はなかった。