聖地Ⅱ
巨石の元へ辿り着いた時には、太陽は完全に地上を離れていた。
陽光を避けるようにフードを被り直しつつ、キアナは辺りを見回した。
静かだった。
風もなく、特に音を立てるものもない。それ所か──生き物の気配すらも感じられなかった。
「…リーウ?」
── 何だか得体の知れない、不安が胸に湧き上がる。
《聖地》の岩は実際巨大なものだ。しかし、それでも少し小さめの家程度でしかない。呼びかけた声が聞こえない距離はないはずだった。
…けれど。
「…リーウ…寝ているのか?」
姿を求めて岩の裏側へ回ってみる。しかし、そこに求める姿はなかった。
その代わりに──。
「……!?」
反射的に駆け寄っていた。
天から差し込む陽光が、辺りの風景も何もかもはっきりと照らし出す。見間違えようがなかった。
…草の汁で染めた、幾分くすんだ緑── その色は確かに見覚えのあるもの。
「…どうして……」
直接手で触れる事も出来ずに、呆然と呟く。それは── 昨日別れた時にリーウが身に着けていた物だった。
キアナの母が寝る間も惜しんで織って仕立てたそれが、散らばるでもなく剥き出しの大地に蟠っている。
まるで、自分から脱いだというよりは、中身だけ消えてしまったかのような有様だ。キアナでなくとも、おそらく困惑しただろう。
(何が…あった──?)
そのまま座り込み、そろそろと衣服に手を伸ばす。
掴んだそれに、血痕のようなものも、破れたり引き裂かれたような跡もない事を確かめる。
── ない。
思わず、安堵のため息が零れる。ならば、少なくとも獣に襲われたりした訳ではないという事だ。
(じゃあ…どうして服だけがここに?)
訳がわからない。
途方に暮れ、何も考える事の出来ない頭にふと思い浮かんだのは、旅に出た初日に聞いたあの言葉だった。
曰く──。
『供物を捧げるのは二年に一度だ。五つある集落を順番に──つまり、一つの集落には十年に一度回ってくる訳だが── 同じ場所に奉納するのに、不思議とそこに骨が残っている事がないんだよ。…まるで本当に神に饗されたかのようにな』
…いくら子供や赤ん坊でも、二年かそこらで骨まで完全に土に還るはずがない。だからこそキアナも思ったのだ。
── 逃げたか、もしくは獣にでも襲われて、骨まで食われてしまったのだろう、と。
しかし、年端もゆかない子供ならばともかく、今年十六の年を迎えるリーウが消えたとなれば── しかも衣服だけ残して── 話は違う。
…何かが起こったのだ。リーウが姿を消す、何らかの出来事が。
(── まさか)
思い至った考えに、キアナは目を見開く。
やがてその目は、傍らで沈黙を守る巨岩に向けられた。…おそらく、この世で唯一、確かにリーウの行方を知る物へ。
どれ程の年月、そこにあったのかわからない。
少なくとも百年以上はここにあるはずなのに、まったく周囲に馴染まない異質なモノ。かつて太陽の方向から飛来し、太陽の化身として扱われるモノ。
そして、リーウが奉じられる何代も前から、《供物》を捧げられてきたモノ──。
「…《供物》とは…本当にこれに捧げられた生き贄だったというのか……?」
思わず口にし、その恐ろしさにキアナは身を震わせた。
そんなばかなと思う。しかし、与えられた事柄から導き出される、納得の出来る答えはそれ位しかなかった。
…最も突飛だが、ある意味真実であろう、その答えだけしか。
「── リーウ」
ふらりと立ち上がったキアナの口から零れ落ちたのは、悲鳴のような── 呼び声。
「リーウ! リーウ、隠れているんだろう? わ、わたしを…驚かせようと…からかっているだけなんだろう!? …リーウ、返事をしろ!! そうなんだろう!?」
叫ぶ。
そうでもしなければ、頭がどうにかなってしまいそうだった。
そう── やがて何処かからリーウが顔を見せて、困ったような表情で『ごめんね、ちょっと驚かせようと思ったんだ』…そんな風に言ってくれる。そうでも、思わなければ。
リーウの残した服を手に立ち上がり、岩の周辺をぐるぐると回りながら名を呼んだ。
先程一口水を含んだだけの喉はすぐに乾き、呼ぶ声は次第に掠れて力のないものになる。それでもやめる事が出来なかった。
── 太陽は、そんなキアナを嘲笑うかのように天頂近くまで駆け昇ってゆく。それと同時に気温も上がり、不眠不休だったキアナから更に体力を奪い取る。
「…んで…ど、うして…応え…ない……?」
わざわざ服だけを残して逃げる事はないだろう。ならば、すぐ近くにいるはずなのだ。
キアナの、すぐ側に。
── でも、待ち望む応えの声は返らない。
「何処へ行った…リーウ……!!」
やはりあの最後に別れを告げた時、無理にでも連れて逃げれば良かったのだ。
もしくは…後で迎えに行くから待っていろと、説得していれば。…後悔だけが、心を重く支配する。
こんなはずではなかった。こんな風に終わるはずではなかったのに。
…こんな風に、あの笑顔をもう二度と見れなくなるなんて──。
「…── え?」
そこでキアナは愕然となる。
…思い出せない。
こんなにも切実に求めている、リーウの顔、表情その全てが、まったく思い出せなくなっていたのだ。
リーウはどんな風に笑っただろう?
どんな仕草をして、どんな癖があっただろうか?
── それらがごっそりとキアナの中から抜け落ちている。
昨日の今日だ。ましては危険を承知で助けに来た、その相手の顔を忘れるなんてあろうはずがない。
なのに── 何度思い返しても、浮かび上がるのは印象や言葉ばかりで、表情や声といった直接本人を示すものではなかった。
「そんな……」
寒くもないのに、がたがたと身体が震える。がくり、と膝から力が抜けた。
眼前の岩がリーウを取り込んでしまったのではないか、そんな事を思った時に感じたものよりも、その感覚はずっとずっと恐ろしいものだった。
やがて力なく見上げたのは── 太陽。
(太陽…あなたは、思い出すらも…何もかも奪い去ってしまうのか……!?)
太陽はキアナの心の叫びなど知らないまま、いつもと変わらぬ光を地上へと降り注いでいた。