思慕(2)
星と月の明かりの下、キアナはひたすらに先を急いだ。
今まで通った道を戻る── それだけなのに、夜の闇の中ではともすれば方角もわからなくなる。何とか周辺に見覚えがある内に行ける所までは行きたかった。
緩やかな丘は、旅団の一員として歩いている時はさほど辛くもなかったが、重い荷物と焦燥がキアナに負担をかけ、そして疲労させる。
日中休みなく歩き、ろくに休まずに引き返しているのだ、当然足取りは次第に重いものになる。
それでもキアナは足早に先へと進む。
(どうか…無事でいてくれ……)
祈るように思う。
夜行性の動物には、獰猛なものだって存在する。まったく身一つの無防備な状態で置き去りにされたリーウは、そうでなくても身を守る術を持たないのだ。
真っ直ぐに進んでいるつもりだったが、次第に方角が怪しくなってくる。
草は生えても木々が根付く事のない丘陵地帯では、目印と言う目印がないからだ。日中ならば太陽の位置で判断できるが、日が暮れればそれも出来ない。
(…星読みをちゃんと習っておくんだったな……)
軽く舌打ちする。
夜でも星の位置で大体の時刻や方角を読める。古くから伝わる知恵だ。
だが、普段の生活では特に必要のないものである為、キアナもそれがどういうものかろくに知らなかった。
二つある月の内、一の月と呼ばれるものが天頂に昇ったら真夜中だ、とか、太陽が沈むとその沈んだ方角から、もう一つの月であるニの月が昇る事、ニの月は二日に一度しか昇らないというくらいの知識しかない。
そうした知識もないよりはマシだろうが、一般知識の程度を超えるものでもない事も確かだった。
…そして今、飲み込まれそうなほど大きな月が、キアナの頭上へ昇ろうとしていた。
今日はニの月が昇らない日だ。これで一の月が沈みかけない限り、方角を知る標は失われた。
(《聖地》は太陽が昇る方向にあった。このまま進めばいい。迷うな!)
自分を叱咤し、キアナは立ち止まりかけた足を再び先へと進める。
あの《聖地》にあった巨大な岩── あれさえ見えれば。
それだけを思って、キアナは進む。幸か不幸か、草原にいる獣は現れる気配はなかった。
旅団が通る時期は獣も警戒して出なくなる、と話には聞いていたものの、その事実はキアナを少なからず安心させるものだった。
足を動かす度に、腰に下げたナイフがカチャカチャと音を立てる。何処か神経に障る、耳障りな音だ。
男勝りで気が強いキアナだが、ナイフの扱い方など── しかも何かを傷つける事を目的とした使い方など、知りたいとも思わなかったし、知る必要もなかった。優しいリーウに至っては言わずもがなだ。
出来る事ならこれから先も、使わずに済めばそれに越した事はない。もっとも、野生の獣に何処まで歯が立つのかわかったものではなかったが。
息が上がり、喉が渇きを訴え始める。それを堪えて、ただ進む。もはや戻る道もわからない。だから進むしか道はなかった。
── 頭上の月だけが、静かにキアナの行く先を照らし出していた。
+ + +
どの位歩いた頃だろう。
月が大地の際まで移動し、白々と視界の先から夜が明け始める。
疲労で霞むその目に、それはまさに希望の光に映った。
少なくとも── 進んでいる方角は間違ってはいなかったのだ。安堵と共に、鬱陶しさから跳ね除けていたフードを被り直す。
ここでうっかり太陽の光などを浴びたら元も子もない。
──…陽光は嫌いではない。
陽の光の下の世界は何もかもがはっきりと見えて、キアナは夜よりも好きなくらいだ。
だが、リーウを奪おうとしたのはこの陽光。その光を生み出す、太陽の化身。
── 陽光に対して憎しみを抱いたのも、そして安堵感を抱いたのも、これが生まれて初めての経験だった。
そう…本当はわかっているのだ。太陽には何の非もない事を。
問題があるのはむしろ、この光を受け入れて生きてゆく事の出来ない人間の方なのだ。
生きてゆけないから太陽に供物を捧げ、生きてゆけないからリーウのような罪もない者が犠牲になる。
供物など捧げた所で、この陽光が無害になる訳でもないのに。
人は── 本来、この大地に生きるはずのなかった存在であるのに。
もはや疲労から足を引き摺るようにして歩きながら、キアナは取りとめもなくそんな事を考えた。
何かを考える事で、ともすれば遠くなりそうな意識を、現実に引き止めようとしていたのかもしれない。
だから視界にあの巨石が目に入った時、キアナは思わずそこに座り込んでしまった。
暁の薄紫を帯びた光を背に、その岩は何事もなかったかのようにそこにあった。緊張の糸が切れる。
あともう少し頑張って、岩の所に辿り着かなければならないのに、足から完全に力が抜けた。
「…リーウ……」
聞こえる訳がないとは思いながら、キアナは呟く。まだ周囲は暗く、岩の所にリーウがいるのかもわからない。
急に背負っている荷物が重く感じられてそれを下ろした。そして皮袋を取り出し、そこに入っている水を一口だけ飲む。
乾ききった喉はその水を喜び、それだけでほんの少し元気が戻る。
もう少し。
陽があと少し昇れば旅団の人々も起き出し、キアナがいない事に気付くだろう。
しかし、気付いてすぐにここへ引き返したとしても、まだ当分は追い着かないはずだ。
だから慌てなくてもいい、と自分に言い聞かせて、そろそろと立ち上がった。がくがくと膝が笑う。結構な強行軍だったのだからそれも当然だと言えた。
また荷物を背負うのは躊躇われて、引き摺って先に進む事にする。当然歩みはそれまでとは比較にならない遅いものになった。
それでも、進まなければ辿り着けはしないのだ。
次第に明るくなってゆく中、キアナは時折よろめきながら《聖地》へと近付いてゆく。
今はリーウの無事な姿を見る事、ただそれだけしか考える事が出来なかった。