聖地Ⅰ
《聖地》に辿り着いたのは、それから二日後の事だった。
片道、およそ五日。長いようで短い旅程だ。
「…ここが、《聖地》?」
生まれて初めて見たそこは、彼らの予想を裏切って、到底聖地── 聖なる場所とは思えない所であった。
そこへ辿り着くまでの緑豊かな丘陵地帯と異なり、荒れた大地が露出し、成人男性が数人収まるくらいの巨大な岩が、ぽつんと一つだけ鎮座している。
── それが《聖地》の全てだった。
「本当にこんな所が……?」
疑問を隠せないキアナとリーウに、過去に何度もここに訪れている旅団の長は、頷いてで肯定する。
「そうだとも。ここが《聖地》。この岩は昔、太陽の方角からここへ降ってきたそうだ。それ以来、太陽の化身として扱われている」
こんな所── 周囲に何もない物寂しい場所に、リーウが一人取り残されるのかと思うと、キアナは益々心の内で決心を固めずにはいられなかった。
《供物》とは言えども、ここで殺される訳ではない。ただ置き去りにされるだけだ。
けれど不思議な事に、次の旅団が訪れた時、そこに骨が残っている事はないと言う。
(それって、やっぱり逃げたんじゃないのか?)
キアナにはそうとしか考えられない。
年端もゆかない子供が、何処まで行けたかわからないが── それならばリーウを連れて逃げても問題はなくなる。《供物》がなくても、災いは起こらないという証明になるのだから。
そんな事を考えている間に、バサリ、と布の立てる音が耳に入った。
音の方へと目を向ければ、案の定リーウがフードを脱いでいた。またか、と反射的に怒鳴りかけて── キアナは言葉を失った。
色素の薄い髪と色白の肌は、太陽の光の下で、リーウをまるで別の世界の住人のように見せていた。
村では軟弱な印象しかなかったのに、いっそ神々しいとしか表現できない雰囲気がそこにある。
「…リーウ?」
何故かひやりとしたものを感じとって、思わず名を呼ぶ。
「キアナ」
表情を硬くしたキアナに対して、リーウは何処かすっきりした顔で微笑んだ。
「元気でね」
「…何、言ってる……!」
そんな事、させる訳がないだろう!
思わず叫びかけて、危うい所で言葉を飲み込んだ。代わりに、ぎゅっと抱き締める。
成人してからそんな事をした事がなかったからか、リーウがぎょっと目を丸くした。
「キ、キアナ……」
「…フードを被れと言っただろうが」
ちょっとだけ勿体無く思ったが、再びリーウの頭にフードを被せる。
これから後の計画など、当然リーウは知りもしないが、それまでは無茶な行動はして欲しくなかった。
日光に晒されたからと言って、すぐに身体に影響が出る訳ではないと知っていても、そうせずにはいられなかったのだ。
「…頼むから、自分から死を招くような真似はしないでくれ」
「うん、…ごめん。キアナ」
祈るように告げると、リーウは素直に頷く。
そんな二人のやり取りを見計らったように旅団の長の声がかかった。
「── 引き上げるぞ、キアナ」
「……」
いよいよだ。
キアナは身を離し、何となくそうしなければならない気がして、リーウの顔をじっと見つめた。脳裏に焼き付けるように。
リーウも、何処か淋しげな目でキアナを見つめる。そんな顔を見ると、一層離れがたい気持ちが湧いた。
「…キアナ」
「わかっている……」
旅団長が急かすように声をかける。
彼とて、こんな事を進んでやりたい訳ではないだろう。出来るだけ速やかに事を終わらせてしまいたいと思う気持ちを、責める権利はキアナにはない。
言いたい事、伝えたい事がいくらでもある気がした。
けれど、それはまたリーウと逃げる時にでも話せばいい。そう自分を納得させ、キアナはリーウに背を向ける。
「キアナ」
その背に、リーウの言葉だけが追いかけてくる。
「今まで、ありがとう」
まるで今生の別れのような言葉に、胸が締め付けられた。いっそ、今この場で彼を連れて逃げる事まで考えてしまう程に。
── けれど、キアナは振り返らなかった。自分がリーウを諦めたのだと、念の為に周囲に思わせておく必要がある。
…今夜。
全ては、夜になってからだ。
+ + +
一人また一人と《聖地》を離れてゆく人々を見送り、リーウはただ一人その場に取り残された。
旅団の最後の一人の姿が丘の向こうへ消えるのを確認してから、リーウは再びばさりとフードを落とす。生身の身体に、有害であるはずの陽光があたる事もまったく頓着しない。
キアナが見れば、すぐさま叱責の声が飛んでくるのだろうが、もうここにキアナの姿はない。
リーウ自身、どうして今日はこんなにも陽光を直に感じたく思うのかわからないでいた。
わからないけれど── それが必要なのだと、心の内で何かが囁いている。
そのまま、彼は《聖地》に転がる巨大な岩に背をもたせて座り込んだ。…そして、呟く。
「…そうか…ぼくは…ここへ来なければならなかったんだ……」
零れ落ちた言葉は、口にした途端、確信へと変わった。
目を閉じて光を浴びていると、益々それが気のせいではないとわかる。
招かれたのではなく、呼ばれたのでもなく。
自分は最初からここへ『戻って』来るように決まっていたのだ、と。
背に触れる岩の感触が心地良かった。
有害であるはずの陽光が、切ない程に愛しかった。
…今、自分が存在するこの大地が、とても身近なものに感じる。世界の全てと一つになるような、そんな不思議な感覚に支配された。
── 五感が今までのものとは異なるものへと変化してゆくのを知覚する。
喜怒哀楽、その感情の意味も価値観も、人のそれとは隔たれてゆく。けれど、リーウはそれを恐れはしなかった。
何故ならそれは、彼にとってはすでに『識っている』感覚だったからだ。
自然に受け入れ、為すがままになる。意識が次第に遠のいていく。
…ただ、意識が途切れる最後の最後でキアナの顔が思い浮かんだ時、充足感で満ち足りていたその胸が、ちくりと針が刺さったように痛んだけれど──。