永遠に(3)
「…お母さんを知ってるの!?」
「うん、まあ…ね。白状してしまうと、本当は君の事も知ってた」
「え!? じゃあ…やっぱり会った事あるの!?」
反射的に詰め寄るのを軽く下がる事で避けて、彼は苦笑交じりに首を横に振る。
「残念ながら、会ったのはこれが初めてだよ」
「じゃあ…どうしてあたしの事?」
「会うのは初めてだけど、ずっと見てたからね。君が生まれた時から…ずっと。まさかこうしてこんな所にまでやって来るなんて思ってもみなかったけど。…これもキアナの血かなあ」
などと、訳のわからない事を彼は言う。
母親の事を知っているだけでなく、親しげにその名を呼び捨てている事と言い、少女は益々混乱した。
どう見ても彼は母親の友人にしては若過ぎるし、実際に友人なら母親から話くらい聞いていてもおかしくはない。
「会うのは初めてだけど、見てた? ど、何処から? あたし、全然気付かなかったよ?」
第一、少女は今までずっと集落の中で暮らしていて、外に出る事も滅多に無かった。
そうなると必然的に彼は自分の集落の人間である事になるが── 断言してもいい。彼は集落の人間ではない。
いくら幼くてもその奇妙さはわかる。少女は必死に問い詰めた。
「お兄さんは何者なの? 何であたしの事──」
「…それはこれから来る人に尋ねてみるといいよ。ほら、向こうから駆けてきている。君もよく知っている人だ」
はぐらかされるような気もしたが、彼の指が指し示す方角に確かに人影が見えた。
少女と同じ長い黒髪。こちらは結わずに流して、駆けてくる勢いで左右に動く。遠目でも誰かすぐにわかった。
「お母さんだ」
確認したと同時にどうしよう、と思う。黙ってこんな所に来たのを怒っていないといいけれど。
何しろ母親は女だてらに集落を束ねるだけあって、怒ると相当に怖い。反射的に後ずさりかける背を、彼の手が優しく押しとどめる。
「ほら、行って」
「で、でも……」
「相当心配しているはずだからね。無事な姿を見せて、先に謝ればお咎めもそんなにないよ。…キアナは昔から、先に下手に出られると、振り上げた手を振り下ろせなくなるんだよね」
くすくすと、小さく笑いながらも、何処か懐かしげに背後から囁かれる声に不思議な気持ちになる。
やっぱり、何処かで会った事がある気がする。
この顔には見覚えがないけれど、すごく身近にいたような──。
その時、母親も少女の姿を確認したのか、名を呼ぶ声が届いた。これはもう、逃げも隠れも出来ない。少女は覚悟をし、背後を振り返った。
彼はやっぱり見知らぬ顔で、それでも知っている気がする笑顔を浮かべて少女を見ている。視線で背中を押してくれる。
そしてもう一度繰り返した。
「行って。さっき言った事を忘れずにね」
「…うん」
ついに少女は頷き、再び視線を戻すと駆けてくる母親の姿は先程より大きくなっていた。
ぽん、と軽く背中を押されて。
少女はそれを切っ掛けに、母親に向かって駆け出した。その背に彼は別れを告げる。
「さよなら、リーウ。会えて嬉しかったよ」
小さな小さな囁きは、風の子供のように勢いよくかけてゆく少女の耳に届き、その足を一度だけ止めた。
名乗った覚えのない少女は驚いて振り返り── けれどもそこにはもう、誰の姿も見当たらなかった……。
+ + +
「リーウ! この、馬鹿娘!」
先程の忠告に従って、先に無茶をした事を謝ろうと思ったのに、それをさせない勢いでがばっと抱きかかえられた。
父親にならともかく、母親にそんな乱暴な事をされたのはずいぶん久し振りで、咄嗟にその身体にしがみ付く。
「心配、させて……っ」
ぜいぜいと荒い呼吸が耳に届く。
途端にすごく申し訳ない気持ちになって、少女── リーウはぎゅっと抱きつく腕に力を込めた。
「ごめんなさい…お母さん……」
「まったくだ。…一体、こんな所に何をしに来たんだ? 一人で行ってはならないと、言っておいただろう」
「うん…でも、会いに行きたかったんだもん」
「会いに?」
少しずつ息を整えながら、母親── キアナは娘を地面に降ろした。
流石にもうじき七つになる子供は重くて、背負うのならさておき、ずっと抱えているのは少々辛い。
「一体誰に会うと言うんだ」
嘘をついているとは思わないが、集落から《神殿》の間にある荒野に住んでいる人はない。疑問を隠せずに問いただすと、リーウはあっさりと答えてくれる。
「神様」
「……」
確かにこの木には『神様』が住んでいると話して聞かせた。寂しがり屋であるような事も。でもまさか、それを頭から信じるばかりか、本当に会いに来るとは。
我が娘ながら、その素直さと実行力は正直末が恐ろしい。
「…それで、会えたのか?」
答えはわかりきっているものの、一応確認を取る。するとリーウは思った通りに首を横に振った。
「会えなかった。でも、変なお兄さんには会ったよ」
「…何だって?」
予想外の言葉が娘の口から飛び出すにいたって、キアナはぎょっと目を見開いた。
ここに住む人はいないはず── そして《神殿》の人間がここまで出て来る事も皆無のはずなのに、一体娘は何者に会ったと言うのか。
しかも──『変な』という形容までついては、心配するなと言われてもしない方がおかしい。
キアナは慌てて娘の視線の高さにまで屈みこみ、その目を見つめて確認を取った。
「その人は、どんな人物だった?」
「え?」
「どんな姿格好をしていたんだ?」
重ねて尋ねる。
大体の年恰好がわかれば、他の集落の人間であっても誰か判明すると思っての事だった。
…太陽の光による脅威がなくなってから、人口は多少以前より増えたが探すのに困難な程でもない。そう思ったのだが、リーウはしばらく考えた後、小首を傾げたのだった。
「…どうした」
「えとね…わかんなくなっちゃった」
「はあ?」
耳を疑う。
リーウは親の欲目なしでこの年にしては利発で、物覚えも悪くはない。なのに、先程まで一緒にいたはずの人間の事を忘れるなんて、とても信じられる事ではなかった。
「でも、お母さんも見たでしょ? あたしと一緒にいた人だよ。もういなくなっちゃったけど……」
「一緒にいた?」
思い返してみるが、娘の姿を荒野の真ん中で発見した時、そこに他の人影は見えなかった。障害物などない場所だ、もし本当に誰かいたのから気付かないはずもない。
そんな母親の困惑に、リーウは焦ったように言い募る。
「いたよ! ねえ、見たでしょ? …そうだ、あのお兄さん、お母さんの事知ってたよ。あたしの名前も、言わなくても知ってた。昔から知ってるって、言ってたよ?」
「わたしの事を…? 昔から……」
思い返すように呟いたその時、ふと閃くものがあった。
「まさか……」
思い浮かんだ想像は、あまりにも非現実的な事で、キアナはすぐに心の中で否定した。
そんなはずがない。…ずっと、会いたいと望んでいるのに、結局今まで《彼》はその姿を見せてくれないばかりか、声を聞かせてくれる事もなかった。
いつかのように忘れる事が怖くて、周囲を説き伏せて《神殿》を作りもした。生まれた娘に、『リーウ』の名をつけた。娘に…誰にも話せない真実の一部を語って聞かせもした。
この気持ちが今でもなんなのかわからない。
あれから数年後に結婚した夫の事は尊敬しているし、愛していると思う。その気持ちとはまた違う。
── 今でもやっぱり、キアナにとっては『家族』なのだ。
だから過去にも出来ないし、叶うのならまた会いたいと思う。幼い頃から側にいて、ある日いきなりいなくなってしまった大事な人に。
恋とか愛とかではないけれど、キアナにとって《彼》── リーウは特別な存在なのだ。今までも…そして、これからも。
その時だ。まるでふと思い出したように、娘が声を上げた。
「そうだ! すごく綺麗な、緑色の目をしてたよ! あの、葉っぱみたいな!!」
「──!!」
反射的に目は遥か先にある大樹に向かう。
大地に根付き、枝葉を広げているその姿はまるで何かを守るかのよう。
「そう、か……」
ずるい、と思う。自分には会ってくれないのに、娘には姿を見せるなんて。
でも心の何処かでほっとした。《彼》は── ちゃんとそこにいる。生きている。自分達の事を忘れた訳ではないのだ、と。
「お母さん? …やっぱり知ってる人?」
「うん? ああ…まあ、そうかな」
「本当!? ねえ、誰? あたしが知ってる人じゃないよね?」
何と説明していいものだか迷って曖昧に答えると、すごい勢いでリーウが詰め寄ってくる。…余程、謎を残して去ってくれたらしい。
後で説明する身にもなれ、と心の中で詰ってから、キアナは好奇心を顕にした娘ににっこりと笑いかけると告げた。
「…──『神様』だよ」