光の子(2)
「一体これは……?」
目前にある現実をいまいち認識出来ずに、キアナは旅団長に尋ねかける。
元より明確な答えが返ってくるとは思ってはいない。それでも自分以外の誰かに説明を求めずにはいられなかったのだ。
「私にも実際の所、何が起こったのかわからんよ。あの岩が砕け散った瞬間、意識を失ってしまっていたようだ。目が覚めたら《聖地》だったはずの所から巨大な木が生えていて、周囲にお前達がばらばらに倒れていたんだからな」
「……」
では実際、その時何が起こったのか誰もわからないという事だろう。
納得出来るはずもなかったが、それ以上追及しても仕方がない。キアナはため息をつくと、ゆっくりと立ち上がった。
視点が移動しても、目の前の木はほとんど印象を変える事はなかった。天高く聳え、さながら天を支えるように枝葉を伸ばしている。
それがこの地上に生えるどんな木とも違うのは確かだった。少なくとも、いきなりこんなに育つ木があるとは思えない。
もしかするとこの《聖地》にあった巨石は、この木の種か何かだったのだろうか。
そんな事をふと思いつき、キアナは一人苦笑を浮かべた。いくらなんでもそれはあまりに突拍子もない事のように思われたからだ。
そんな事を考えている間に、キアナ以外の人々は全員大きな怪我もなく無事に目を覚ましたようだった。
彼等は一様に突如現れた巨木に茫然自失となったが、だからと言って何が出来るという訳でもない。それぞれの無事を確かめ合うのが済むと、誰が言うまでもなくその場を後にする準備を始めた。
「他の奴等も心配だ。急いで合流しなくてはな」
そんな旅団長の声に反対する声はない。
まず旅団長が歩き始め、ついで数人の青年達が歩き── 最後にキアナもその後に続く。
ざわざわ、と葉が上で音を立てていた。ふと見上げて、キアナはある重大な事に気づいた。
「……あ!」
思わず声を上げ、その声で先行していた人々も立ち止まり、何事かとキアナに目を向けたくる。
彼等も気付いていない── その事実に気付くと、キアナは声を大にして気付いた事実を指摘した。
「フード! フードを被らなくては!」
そう、彼等の誰もが日差しを遮る為のフードを被るのを忘れていたのだ。
場合によっては命にも関わるというのに、どうしてこんなに大事な事を皆が忘れていられたのか、キアナは困惑した。
自分で脱ぎ去った自分だけならともかく、そんな無茶な行為を先程は大慌てで止めた彼等とは思えない悠長さだ。
しかし── 返ってきた視線といえば、何故そんなにキアナが慌てるのかわからないといった様子のものだった。
「…みんな?」
何故彼等がそんな目をするのかわからずに混乱するキアナに、一番最後に歩いていた青年が少し呆れた口調で言った。
「キアナ、いきなり何を言い出すんだ。そんなものを被る必要はもうなくなったはずじゃないか」
「…え?」
「この木が陽差しを遮ってくれているから、この木の下にいる限りは地上にまで有害な光は届かないって、昔話で聞かなかったのか?」
「── 昔話?」
キアナは首を傾げた。そんな話など今まで聞いた覚えがない。
けれど、彼等が嘘を言っているようにも見えなかった。まるでそれが当たり前のような── 普段、集落にいる時のような屈託のない笑顔を向けてくる。
「キアナ、いくらなんでもボケるには早いんじゃないか?」
その言葉に、キアナ以外の全ての人間が笑ったが、キアナとても笑える心境ではなかった。
何かがおかしい。
自分以外の人間の中身がすっかり入れ替わってしまったかのような不気味さを感じ、キアナはひやりとしたものを感じた── が。
その瞬間、彼女は目を見開いた。
まるで光が閃いたように脳裏に甦った一つの映像。上か下かもわからない場所── そこに立つ、一人の青年。
そう言えば目が覚める瞬間まで、夢を見ていた。
その中にこの青年が出てこなかっただろうか。そして…──。
キアナは、全てを思い出した。この《聖地》にまつわる秘密── そこに隠されていた真実を。
「いくら《聖地》参りが次期・長になる者の必須行事だからって、一人で先に突っ走ってこんな所にまで来るからだ。疲れているんじゃないのか?」
からかう口調で旅団長が言う言葉に、キアナは居心地の悪さを感じずにはいられなかった。けれどもう、そこに恐れは抱かない。
…何が彼等に起こったのか、すっかり理解したからだ。
「……」
キアナは立ち止まり、背後を見た。
そこに聳え立つ巨木は、まるでキアナの背を押すようにその枝を揺らしている。そこを軽く睨み付けて、彼女は苦笑を浮かべた。
「…そういう事に、したのか」
当然、その言葉に返る言葉はない。けれどキアナは確信を強めた。
これは《彼》が為した事。遠い昔に、人々に《供物》を捧げるよう仕向けたのと同じように、今度は別の記憶を刷り込んだのだ。…《供物》という悲しい因習にまつわる記憶と引き換えに。
人を何だと思っているんだ、と思うし、多分、全てを知っているキアナは怒ってもいいはずだ。
なのに── 何故か胸に湧き上がるのは『仕方ないなあ』という気持ちなのだった。
強かだと思う。
そして── 敵わないと思う。
これがもし、人間にとって不利な事ならいくらでも怒れるし、詰る事だって出来るのに。けれど《彼》が行った行為はある意味、人の為になる事なのだ。
…旅団長達のあの、晴れやかな顔。
《供物》を捧げる為にここへ旅してきた時は、笑っていても何処か心の底では笑ってない感じが付き纏っていたのに、今は心の何処にも後ろめたさのない顔をしている。
今までマイナスのイメージが強かった《聖地》の持つ意味が逆転した事で、今までにない前向きな明るさが人々の中にもたらされたのかもしれない。
《彼》は目覚めた。枝葉を広げ、地上を包み── そしてこれからも人々を陽差しから守る事だろう。
その恩寵がどんなに大きなものか、そしてそれがどんなに奇跡的な事なのか、キアナだけが知っている。
「…キアナ? どうした」
先行する人々が、一人立ち止まっているキアナに気付いて声をかけてくる。
「ほら、帰るぞ!」
「置いて行かれてもいいのか?」
口々に。
そこから伝わるのは、親愛の感情。
それを背で受け止めたキアナは、一度目を閉じ、心の中で呟く。
(…ばかだな、お前は。どうせなら、もっと恩を売ればいいのに)
記憶の改竄はどうかと思うが、《彼》の目覚めによって人々が死の恐怖から遠ざかったのは確かな事。もっと、その重要さを主張してもいいような気がした。
でもこういう変な所で控えめな辺りが、《彼》の生きる為の策略なのかもしれない。
(まあ、いい。わたしが…覚えているからな。少なくともわたしが生きている限り…真実は消えない)
たとえ、他の誰もが忘れ去ってしまっても。
《彼》がキアナからはその記憶を奪わなかったのは、もしかしたら忘れて欲しくないという意思表示なのかもしれない。そう思うと、キアナの顔に知らず微笑が浮んだ。
ゆっくりと目を開き、最後にもう一度目に焼き付けるように巨木を見つめる。次にいつ、ここに来れるかわかったものではないから──。
その最中、キアナはその目を大きく見開いた。
天高く聳える幹の途中、太い枝の付け根の辺りに人影が見えた。夢の中で出会った青年かと一瞬思ったが、それとはまた違う。もっと小柄な──。
「── リーウ…!?」
遠目でははっきりとした顔かたちまではわからない。それでもキアナがその名を口にした時、確かにその人影は小さく手を振ったように見えた。
それはほんの一瞬のこと。瞬きをした後にはもう何も見えなかったけれど──。
「ばか……」
最後の最後まで、憎たらしい事をやってくれる。
本当に── 敵わない。
「キアナ! 本当に置いてゆくぞ!?」
「── わかっている!」
反射的に浮かびかけた涙を振り切るように叫び、今度こそキアナは巨木に背を向けて少し先で彼女を待つ一団向かって駆け出した。
これは、別離であって本当の別離ではない。キアナはこれからも生きてゆくし、《彼》はおそらくキアナの何倍も何十倍も生き続ける事だろう。
生きているなら、また会える。
姿形が変わろうと、種族が違おうと── 会いたいと思う気持ちが変わらない限りは、きっと。
そしてキアナは二度と振り返る事もなく、迷いのない足取りでその地を後にした……。