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第一章:〈知〉の構造――想定された知の主体、あるいは大文字の他者の代用品

 私の部屋のローテーブルの上には、コンビニで買ってきたペットボトルの緑茶と、黒川さんが持参した、どこのものとも知れない高級そうなチョコレートが置かれている。彼女は部屋に入るなり、私の本棚を一瞥して、「趣味の悪い本棚。統一性がない」と一言で切り捨てた。私は無視した。


「さて、どこから始める?」黒川さんは、まるで手術の執刀医のような口調で言った。「まずは、あの主人公、佐藤健太の〈知〉の構造から分析するのが妥当でしょうね」


「ええ、そうね」私はノートパソコンを開き、問題の小説のテキストファイルを表示させた。「彼の〈知〉は、まさに彼岸から持ち込まれた絶対的な権威。異世界という、科学的合理性という『大文字の他者』が不在の空間において、彼の現代薬学の知識は、神の言葉(ロゴス)に等しい価値を持つ。彼は、歩く『大文字の他者』なのよ」


「その『大文字の他者』という言葉、便利だからって使いすぎよ」黒川さんは早速、眉をひそめた。「ラカンにとって、大文字の他者(A)は、まず第一に言語の体系、象徴界の宝庫(トレゾール)でしょう。そして、主体がそこで承認を求める審級でもある。でも、その他者は常に不完全で、穴が開いている。『大他者には大他者はいない』し、その他者自身も自らの欠如を抱えている。s(A)(大他者のシニフィアンの欠如)よ。あなたの言う『歩く大文字の他者』なんてものは、ラカン的な意味では存在し得ない。それは、むしろ精神病的な構造における、完全に一貫した他者の幻影に近いわ」


「もちろん、理論的にはそうよ。でも、イデオロギーはまさに、その『大他者の欠如』を隠蔽するために機能するんじゃない。あの物語の中で、佐藤健太の知識は、一度として間違ったり、限界に直面したりすることがない。それは常に完璧で、常に問題を解決する。つまり、物語の構造そのものが、s(A)を隠蔽し、『欠けのない他者』というファンタジーを構築しているのよ。主人公は、そのファンタジーの人格化された担い手なの」


 私は、小説の一節を読み上げた。


「すごい……! こんなに即効性のあるポーション、見たことがありません! まるで神の奇跡だ!」

 王国の筆頭魔術師が驚愕の声を上げる。俺は内心でため息をついた。

(いや、これはただの吸収促進剤と、いくつかの安定剤を配合しただけなんだが……。こっちの世界、薬草の有効成分を抽出するって発想すらないのかよ)

「い、いえ、大したことじゃありません。俺のいた世界では、ごく初歩的な知識ですから」

 俺が謙遜すると、周りの人々はさらに感嘆の声を漏らし、「なんと謙虚な方だ!」と瞳を輝かせるのだった。


「ほら、見て。この典型的な場面」私は続けた。「主人公の『謙遜』。これこそが、最も巧妙なイデオロギー的操作よ。ジジェクが言うところの、イデオロギーの『逆説的』な機能。もし主人公が『そうだ、俺はすごいだろう!』と尊大に振る舞えば、読者は反発を覚えるかもしれない。しかし、彼は『大したことない』と言う。この謙遜は、彼の知識の絶対性を、より一層強化するの。なぜなら、彼の知識が『個人的な才能』ではなく、『向こうの世界の客観的な真理』であるということを示唆するからよ。彼は、真理の代弁者にすぎない、と。これによって、彼の知識が持つ、この世界の既存の秩序や価値観を根底から覆すほどの『暴力性』が、完全に不可視化される。読者は、何の罪悪感も感じることなく、この破壊的な力を、安全なファンタジーとして享受できるわけ」


「なるほどね。イデオロギー批判としては、まあ、及第点かしら」黒川さんはチョコレートを一粒、優雅に口に放り込んだ。「でも、あなたは肝心なことを見落としている。それは、主体の精神構造のレベルで、何が起きているかよ。あなたの分析は、社会的な機能の話に終始していて、個々の登場人物の欲望の力学(ダイナミクス)を捉えきれていない」


 彼女は、自分のタブレットを取り出し、いくつかの図を描き始めた。ラカンのシェーマLや、RSIの結び目のようなものだ。


「問題は、彼が『大文字の他者』そのものだ、ということじゃない。問題は、彼が異世界の人々にとって、『想定された知の主体(le sujet supposé savoir)』として立ち現れる、という点にあるのよ」


「想定された知の主体…」


「そう。精神分析における『転移』が、どのようにして生じるか。分析主体が、分析家に対して『この人は私の苦しみの真実を知っているはずだ』と想定するところから始まる。愛とは、この『知っていると想定された相手』に向けられるもの。あの物語で、王女様も、エルフの美少女も、猫耳の奴隷も、みーんな彼に惹かれていくでしょう? あれは、佐藤健太という空っぽの個人に向けられた愛じゃない。彼の背後にあると『想定された』、完璧で、揺るぎない薬学の知の体系に向けられた、純粋な転移なのよ」


 黒川さんは、再びテキストを指し示した。


「ケンタ様……どうして、あなたはそんなにもお詳しいのですか? あなたの言葉を聞いていると、世界の(ことわり)そのものに触れているような気がします」

 エルフの姫、シルフィアは潤んだ瞳で俺を見つめる。

(いや、だから大学の教養レベルの有機化学だって……)

 俺は言葉を濁すことしかできない。彼女の純粋な尊敬の念が、少しだけ、重かった。


「ここよ、ここ」黒川さんの声が熱を帯びる。「『世界の理そのものに触れているような気がします』。これこそ、分析主体が分析家に見出す『想定された知』そのものでしょう。そして、主人公が感じる『重さ』。これは、彼がその『想定された知の主体』という立場を、本当の意味では引き受けられていないことの証拠なの。なぜなら、彼は自分が『知の主体』ではないことを、誰よりもよく知っているから」


「どういうこと? 彼は知っているじゃない。薬学の知識を」


「違うわ。彼は知識を『持っている』だけ。知の『主体』ではない。彼は、現代日本の大学教育システムが生み出した知識の断片を、記憶し、再生しているにすぎない。その知識がどのような歴史的文脈で形成され、どのような限界を持ち、どのような倫理的問題を孕んでいるのか、彼は全く理解していない。彼は、知識の『運び屋』であって、創造者でも、真の理解者でもない。彼は、自分が暗唱している数式の、本当の意味を知らないのよ」


 黒川さんの指が、タブレットの上を滑る。「ラカンの言葉で言うなら、彼は『s(A)』、つまり『大他者の場におけるシニフィアンの欠如』を、まさに体現している存在なの。彼は、異世界という『大他者の場』に、現代薬学という膨大なシニフィアンの体系を持ち込む。しかし、その体系を最終的に保証するメタ言語的なシニフィアン、つまり『この知識がなぜ真理なのか』を説明するシニフィアンは、彼自身の中にも、そして異世界にも存在しない。だから彼は、自分の知識の根拠を問われると、いつも『向こうの世界では当たり前だから』としか言えない。これはトートロジーよ。根拠の欠如。彼の『謙遜』は、あなたが言うような巧妙なイデオロギー的操作であると同時に、この構造的な欠如、つまり彼自身が空虚な知の担い手でしかない、という事実を覆い隠すための、必死の防衛機制なのよ」


 私は反論しようとして、言葉に詰まった。黒川さんの分析は、私のそれよりも、一段階、深い層にまで達しているように思えた。私の分析が、物語を外部から眺める社会学的なものだとすれば、彼女の分析は、物語の内部に入り込み、登場人物たちの無意識の回路を直接、解剖しようとする試みだ。


「つまり、あなたはこう言うのね」私は思考を整理しながら言った。「主人公は、全知であると『想定』されているがゆえに愛される。しかし、彼自身はその想定に応える主体性を持っていない、空っぽの器にすぎない。彼の力は、彼自身の力ではなく、彼が代理しているにすぎない『現代知識』というシステムの力。だから、彼は常にどこか他人事で、無責任な立場でいられる、と」


「その通りよ」黒川さんは満足げに頷いた。「そして、この構造こそが、読者がこの物語に感じる魅力の核心なの。読者は、主人公と自己同一化することで、『自分は空っぽのままで、何も主体的な決断を下さなくても、ただ知識を持っているだけで、他者から愛され、承認される』という、究極の受動的なファンタジーを体験する。あなたの言う『イデオロギー』という言葉よりも、よほど正確に、この物語が提供する快楽の質を説明していると思わない?」


「……認めるわ」私はしぶしぶ言った。「あなたの分析には、一理ある。でも、その『想定された知の主体』という構造が、なぜこれほどまでに現代の読者に求められるのか。その社会的、歴史的な文脈を無視して、テクストの構造分析だけで完結するのは、それこそ現実から目を背けた、ただの知的遊戯じゃないかしら」


「あら、ようやく私の土俵に上がってくる気になった?」黒川さんは、挑戦的に笑った。「いいわ、その話、続けましょうか。なぜ、この空虚な『想定された知の主体』が、現代のファンタジーの王座に君臨しているのか。それは、欲望と、そして何よりも『享楽』の問題と分かちがたく結びついているのよ。そして、その点において、この物語は、驚くほどグロテスクな失敗作なの」


 彼女の言葉は、第二幕の始まりを告げるゴングのように、静かな部屋に響き渡った。私たちの目の前には、まだ解剖すべき広大な領域が、手付かずのまま横たわっている。佐藤健太という、あまりにも典型的で、あまりにも空虚な主人公の、その欲望の回路と、不在の享楽を巡る、私たちの長い夜は、まだ始まったばかりだった。



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