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序章:代理=主体たちの邂逅

その日の大学のカフェテリアは、昼の講義を終えた学生たちの解放感と、午後のそれに向けた気怠さが奇妙に混ざり合った、澱んだ空気で満たされていた。プラスチックのトレイが擦れる音、意味もなく響く高笑い、遠くで聞こえる食器の洗浄音。そのすべてが、思考の邪魔をするノイズの壁となって、私、水無月(みなづき)沙耶(さや)の周囲にまとわりついていた。私の手元には、読みかけの『否定的なもののもとへの滞留』。スラヴォイ・ジジェク。その分厚い背表紙だけが、この喧騒の中で唯一、確固たる実在性を保っているように思えた。


「――水無月さん、だよね?」


声は唐突に、私の思考の膜を破って侵入してきた。顔を上げると、同じゼミに所属しているはずの、しかし名前も覚束ない女子学生が立っていた。確か、黒川…さん。黒川美玲(みれい)。彼女はいつも、ジャック=アラン・ミレールのセミナーの邦訳版か、あるいは『Lacan Quotidien』をプリントアウトしたとおぼしき膨大な紙の束を抱えている、いわば「もう一方の」変人として、私の意識の片隅に存在していた。


「ええ、そうだけど」


私は努めて無関心に、しかし最小限の社会性は保って応じた。彼女は私の向かいの席に座ってもいいか、と目で問いかけてくる。空いている席は他にいくらでもあるというのに。私は小さく頷き、再びジジェクのテクストに視線を落とした。関わるな、という無言のサイン。しかし、彼女はそのサインを意図的にか、あるいは天然でか、無視した。


「それ、ジジェク? 相変わらずね」


その声には、軽蔑と、ほんの少しの好奇心が混じっているように聞こえた。私は本から顔を上げず、しかし意識の半分は彼女に向けて答えた。


「あなたこそ。今日もミレールの辻説法?」


「辻説法とは心外ね。厳密性の追求、と言ってほしいわ。あなたみたいに、哲学とポップカルチャーと社会時評を煮詰めただけの、得体の知れないスライムを振り回しているわけじゃない」


初手から、これだ。だからこの手の人間は好かない。彼女たちの言う「厳密性」とは、結局のところ、自らが拠って立つ教義の純粋性を守るための排他的な壁に過ぎない。ラカンという城に立てこもり、ミレールという名の衛兵を配置して、外部からの侵入者を撃退する。その城の中で、どれだけ精緻な議論を積み重ねようと、それは現実の、汚濁に満ちた社会に対して何の意味も持ち得ない。


「スライムで結構。そのスライムは、少なくとも現実のイデオロギーの粘液に触れようとはしているわ。あなたの言う『厳密性』は、無菌室の中で培養された美しい結晶かもしれないけど、外に出た瞬間に崩れ落ちるんじゃないかしら」


「現実、ね。あなたの言う『現実』こそが、最もイデオロギー的な構成物だって、ジジェクも言っているんじゃないの?」黒川さんは、こともなげにそう言って、自分のトレイに乗っていたアイスコーヒーのストローをかき混ぜた。「そもそも、そんな話をしに来たわけじゃないのよ」


彼女は一息ついて、まるで爆弾を投下するかのように、その名前を口にした。


「最近読んだ? 『異世界転生したら、俺の薬学知識が神レベルだった件』」


その瞬間、カフェテリアのノイズが遠のいた。きた。これだ。現代日本の無意識が凝縮された、完璧な症例。私はゆっくりと本を閉じ、初めて黒川さんの顔をまともに見た。彼女の目は、獲物を見つけた肉食動物のように、しかし同時に、極めて難解な数式を前にした数学者のように、冷たく輝いていた。


「ええ、読んだわ。吐き気を催すほどの、完璧なイデオロギー装置ね。あれこそ、現代における『大文字の他者』の不在を埋め合わせるための、最も安価で、最も効果的な精神安定剤(トランキライザー)よ」


私の言葉に、黒川さんは満足げに頷くかと思いきや、呆れたようにため息をついた。


「またそれ? 大文字の他者、イデオロギー。あなたの分析はいつもそこに行き着く。あまりに大雑把よ。もっと構造的に、臨床的に見るべきだわ。あの主人公、佐藤健太の〈知〉のあり方、ヒロインたちの彼に対する欲望の転移構造、そして何より、あの物語から完全に欠落している『享楽(ジュイサンス)』の次元。それを分析せずして、何を語るというの?」


「享楽の欠落? 馬鹿言わないで。あれは享楽に満ち溢れているじゃない。ただ、その享楽が、資本主義の論理に完全に回収された、去勢済みの安全な享楽だというだけで。読者は主人公に自己同一化することで、何のリスクも負わずに成功という名の代理=享楽インタラクティヴ・パッシヴィティを享受する。それこそが、あの作品のイデオロギー的機能の核じゃない」


「違う。それは享楽じゃない。欲望の満足よ」黒川さんは、きっぱりと言い切った。「ラカンが区別したでしょう。欲望は決して満たされることのない欠如をそのエンジンとする。そして享楽は、その欠如を埋めるのではなく、むしろその欠如の周りを周回する、苦痛を伴う過剰な満足。あの物語には、その『過剰さ』がない。すべてが、ポーションを作って病気や怪我という『穴』を埋めるという、単純な欲求充足のサイクルに回収されてしまう。あれは、ファルス的享楽の、最も退屈で、最もグロテスクなパロディよ」


火花が散った。私たちの間に、見えない闘技場(アリーナ)が形成される。周囲の学生たちの声は、もはや意味をなさない環境音に過ぎない。これは、ただの雑談ではない。これは、私たちの存在を賭けた代理戦争だ。ジジェク対ミレール。ヘーゲル的弁証法対構造主義的厳密性。


「面白いわね」私は、自分でも驚くほど好戦的な声が出たことに気づいた。「あなたの言う『厳密性』とやらで、あの安手のファンタジーをどう料理するのか、見せてもらおうじゃない」


「望むところよ。でも、こんな騒がしい場所じゃ話にならないわね」黒川さんは立ち上がり、私を見下ろした。「私の部屋に来る? それとも、あなたの汚いアパートでもいいけど」


「私の部屋でいいわ。資料なら揃ってる」


こうして、私たちの異常な共同研究は始まった。舞台は、西陽が差し込む私のワンルームのアパート。壁一面を埋め尽くす本棚と、床に散乱する資料の山。その中心に置かれたローテーブルを挟んで、私たちはこれから、一人の哀れな転生者、佐藤健太を、そして彼が生み出され、消費されるこの社会そのものを、徹底的に解剖していくことになる。コーヒーの香りと、紙の匂い、そして私たちの間に漂う緊張だけが、そこには存在していた。

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