第88話
私は異界を後にした。
右に曲がって直進した先には渓流があった。水のせせらぎをBGMにして土の地面にブーツの裏を刻む。
討伐対象のイノシシはよそから住み着いた個体だ。近々行われる作戦の妨げになるから排除するしかないらしい。
イノシシはただ居心地のいい場所を求めて行き着いただけ。
でもイノシシがいると作戦が推敲できない。その結果大勢の人が鬼に食べられちゃうかもしれないんだ。
「ヒナタ」
背後に着地音がして反射的に振り返る。
見知ったくノ一がそこにいた。
「小夜さん? どうしてここに」
「この辺りで寝泊まりしているんだ。川が近いし色々と便利なのでな」
「大きなイノシシが住み着いたって聞きましたけど大丈夫でしたか?」
「ああ。近づいたら足音が息づかいがするからな。何度か隠れてやり過ごした」
個人的には安全な場所で休んでほしい。
でも特別な任務があるって言ってたし戻るに戻れないのかも。
「ヒナタこそどうしてここに来た。イノシシが住み着いたことは知っているんだろう?」
口を開こうとして迷う。
妖怪のことを教えていいのかな。
小夜さんが討っているのはおそらく過激派の妖怪だ。穏便派は関係ない。
でも斎さんには小夜さんのことを伝えてない。下手に知らせて関係をごじらせたら大変だ。
小夜さんには悪いけど黙っておこう。
「この辺りにイノシシが住み着いて困っている人がいるんです。討伐できないかと思って見に来たんですよ」
「そうだったか。ちょうどいい、私も協力しよう」
「ありがとうございます」
小夜さんと肩を並べて奥へと足を進める。
「体調はよくなりました?」
「ああ。休んだからよくなった」
「それはよかったです。二人のプレ、鬼と戦ってる時の小夜さんすごかったですね。仮面を出した途端に動きが速くなって、目じゃ追い切れませんでした」
「目で追うな。鬼は人よりも身体能力が高い。見てから動いては首と胴体が泣き別れするぞ」
「難しいこと言いますね。今の私じゃよく分かりません」
「高く飛ぶにはひざを曲げる必要があるだろう。あれと同じだ」
「それなら少し分かります。予兆を読めってことですね」
陸上選手の現役だった頃に、わざと体を前に出してフライングを誘う選手を見たことがある。
当時は相手の重心に違和感を覚えたから無視して事なきを得た。原理はあれと同じはずだ。
「後は力の流れを読む手法もあるな。鬼の体は妖力で満ちている。視覚化できれば動きを読むのは容易だ」
「妖力の視覚化ですか」
ふと仮面が実体化する前の赤い霧を思い出す。
「視覚化って言えば、あの仮面も霊力で作ったんですか?」
「……あれは妖力の方だ」
「人の身でも妖力をあつかえるんですね。私もあの仮面出してみたいんですけど、やっぱり修行が必要なんでしょうか」
「修行では無理だな。私は少々特殊なんだ」
「というと?」
「いずれ話す」
「またそれですか? 意地悪しないで教えてくださいよー」
小夜さん全然笑わないんだもん。そろそろ苦笑いでもいいから笑った顔を見てみたい。
そう思って冗談混じりにじゃれついてみたものの、雰囲気の固さはくずれない。
「心配しなくてもヒナタには教える。だから今は強くなることだけを考えてくれ」
失敗。距離を詰めるにはまだ早すぎたかな。
でもこの口ぶり、強くなったら小夜さんの特殊な事情を教えてくれるってことだよね。
だったら焦らず待とう。
「分かりました。じゃあ修行がんばっちゃいます」
「その意気だ」
ズシンと音が響いた。
音が連続する。こっちに近づいてくる。
正面の樹木がおもむろに傾いた。嫌な音を立てた末に幹でドシンと地面を打ち鳴らす。
「来たな」
つぶやく小夜さんのとなりでスリングショットを構える。
双眸と目が合った。巨大なイノシシが雄たけびを上げて迫る。
ヒナタがクエストを進めていた頃、ミザリは一人山に入っていた。
ミザリは素材屋を営むプレイヤーと契約を交わしている。妖華にある素材も直に大量発注できるようになる。
しかしそれは今じゃない。
妖華のフィールドが解禁されてから日が浅い。妖華で得られる素材アイテムは数が出回っていない。
大人気ゲームのアイセには多くの廃課金者がいる。そういったプレイヤーは素材屋にとっていい取引相手だ。
特に新しいアイテムは作った先から売れていく。廃課金プレイヤーが呼びかけると、儲け話に一枚かもうと考えた素材屋がそれに応じる。ミザリのような中小ショップに妖華の素材が出回るのは数日先だ。
それを待っていては顧客が他のショップに流れる。客の流出を防ぐには自分の足で素材を集めるしかない。
「ヒナタさん、今は何をしてるのかな」
つぶやきが樹木だらけの空間に溶ける。
静まり返った森の中。リアルなら圏外待ったなしな場所でもコールはつながる。
ミザリはコンソールを開いてコールの文字を見つめる。
タップしようとして首をぶんぶん振る。
「だめだめ、ヒナタさんがクエスト中だったら迷惑をかけちゃう」
それに今は別にやることがある。
ただでさえアップデートして間もない。何かの区切りをつけるにはちょうどいい時期だ。品ぞろえをなまけたら一気に客が離れる。
コールしたい欲をこらえて毒草をつむ。
ふと自身の真っ黒ローブな服装が目について、この前のことが脳裏をよぎる。
「今の私を見たらあの子泣いちゃうかな」
真っ黒ローブを身にまとっている女性が毒草をつむ。はたから見たら完全に魔女だ。
お姫様をいじめるの?
純粋無垢そうな女の子からあの問いかけが飛んできた時はさすがにへこんだ。
魔女のロールプレイには興味がない。毒の素になるアイテムを入手しやすくなるから今の装備を愛用しているだけだ。どちらかと言えばお姫様にあこがれている。
そのお姫様像を具現化したような存在が風早日向という同級生だった。
整った顔立ちや均整の取れたスタイルもさることながら、その場にいるだけで人の視線を惹きつける。
足を怪我したことでその輝きは曇ったものの、アイセを始めてから太陽のような笑顔が戻った。
あの横顔を間近で見ていたい。ニッとした時にのぞかせるまばゆいばかりの白い歯をおがみたい。
そのためにまずやるべきことを終わらせる。魔女あつかいで落ち込む時間がもったいない。
「次の採取ポイントは、と」
コンソールからマップを開いて次のポイントを調べる。
「ヴモーッ」
濁音だらけの鳴き声がして顔を上げる。
毒々しい色合いの鳥が樹木の枝にとまった。
「ドクモリモズリ!」
妖華で発見された、強力な毒を有するレアな鳥。
作りたい。あの鳥を使って新しい毒を。
弓に矢をつがえた。すーっと腕を引いてドクモリモズリに狙いを定める。
矢を放つ。
宙を突き進む矢が標的を射落とした。
「見事」
女性的な声を耳にして振り向く。
白い狐が立っている。
獣特有の荒々しさは皆無。新雪を思わせる体表が生物とは思えないほど神秘的に映る。
気品あるたたずまいを彩るのは紅の紋様。神々しさすらはらんだ様相を前に息をのむ。
「あ、あの、あなたは?」
「私は嶺。この山の頂上にまつられる神獣です」
「神様ってことですか?」
「その通り。あなたの弓は実に見事でした。褒美を取らせましょう、ついてきなさい」
お狐様が背中を向けて跳躍する。
私は射落とした鳥をポーチに収めて追いかける。
着いた先は山の頂上。廃れた神社が設けられていた。
厳かな雰囲気に委縮したのもつかの間。辺り一帯を染める白さに気づいた。
「あの、これもしかして」
「雪が降ったのです」
「ゆ、雪? でもあれは」
「雪です」
「フンですよ。鳥のね」
また違う声。
神社の奧から女性が現れた。きれいな人だけど体が青白くて生気に欠ける。
彼女の体を包むのは白と紅のはかま。巫女服だし神社の関係者と見て間違いない。
「やっぱりフンなんですねあれ」
「違います」
「ええ。ドクモリモズリという鳥が毎日フンを落としていくの。私は幽霊だから掃除できないし、嶺は無駄にプライドが高いから周りがフンまみれの事実を認めようとしない。正直困っているわ」
「大丈夫ですよ霞。あの下劣で不浄な鳥類は射殺されましたから」
狐さんが鼻を鳴らす。
霞なる女性が目を丸くした。
「そうなの? 射殺されたって誰に」
「ここにいる娘です」
霞さんの表情がパッと明るくなった。
「それ本当? ああ、今日はなんていい日なのかしら。神様に感謝しなきゃ」
「目の前にいるではないですか。私に感謝しなさい」
「嶺は神様って感じがしないんだもん」
霞さんがにこやかに笑う。
かわいらしい人だなぁ。私より年上に見えるのに年下にも映る。不思議な魅力のある人だ。
「あの、ここにブラシや桶はありますか?」
「どちらも倉庫にあるけれど、どうして?」
「これも何かの縁ですし、鳥のフンを洗い落とそうと思いまして」
「まあうれしい! なんていい子なのあなた! えっと」
「ミザリです」
「ミザリちゃんね。私は霞。こっちの頼りない神様は嶺よ」
「無礼な。頼りないとは何ですか」
「だってフンを落とす鳥を追い払ってくれなかったじゃない」
「あれは雪と言ったでしょう。私が雪と言えば雪なのです」
「はいはい、もうそれでいいですよー」
霞さんがため息をつく。大変そうだなぁ巫女さんも。
私はブラシと桶を調達して井戸で水をくんだ。
ブラシでゴシゴシして白い汚れを落とす。
「倉庫まで行く途中に見えましたけど、建物の内部も相当汚れてますね」
「長年人が寄りついていませんからね。まったく罰当たりな」
「神社をこんな山の頂上に設けるからだよ。人の身でふもとからここまで来るの大変なんだからね?」
「大変でもやるのが神に対しての礼儀でしょうに」
私は苦笑しながらブラシを水にひたす。
全てのフンを洗い落とした。次はほうきを持って神社の中に踏み入る。
「どこから手をつけようかな」
歩く内に木製の台が目に入った。
「あの台って三宝でしたっけ?」
「ええ。ずいぶんとなつかしい物を見つけたわね。お月見団子おいしかったなぁ」
「何故第一声が団子なのですか。他に言うべきことがあるでしょう。玉を盗んだ不届き者に災いあれとか」
「こら、そんなこと言っちゃだめよ嶺。いくら宝玉が盗まれたからって祟ってはだめ」
「盗まれちゃったんですね。残念です。きれいでした?」
「ええ、それはもう絶品だったわ。水晶の中で青いきらめきが揺らめいて、ずっと眺めていても飽きなかった」
「神器なのだから当然です。それなのに罰当たりどもは玉を盗んだだけでは飽き足らず、罰当たりな呼称をつけて他国に売り払ったと聞きます。ああ、思い出しただけではらわたが煮えくり返る」
ほうきとちり取りでほこりを集める。
廊下の雑巾がけもすませて一息ついた。
「ありがとうミザリちゃん。すっごくきれいになったわぁ」
「褒めて使わします」
「いいですよお礼なんて。私も色んなことを聞けて楽しかったです。それじゃ私そろそろ行きますね」
「待ちなさい。このまま返しては神の名折れ。願いごとがあれば聞いてあげましょう」
「叶えてあげるとは言ってない」
「黙れ霞」
私は苦笑いしながら願いを考える。
さすがに何でも叶えてくれるとは思えないけれど、ただ聞くだけってこともないはず。
ふとヒナタさんの顔が浮かんだ。
「私強くなりたいです。お友達のために」
ゼルニーオを討伐した時みたいに、また協力を求められるかもしれない。
そうなった時のために力をつけておきたい。
「いいでしょう、その願いなら叶えて差し上げます。私の試練を乗り越えられたらですが」
目の前にウィンドウが浮かび上がる。
クエストの受注を問う文言を前に、私は人差し指で了承の意を示した。




