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乳房

作者: 星賀勇一郎





 古びた団地の階段を上り、そのスチール製のドアの前に立った。

 階段の蛍光灯は切れ、コンクリートの階段のあちらこちらに踏みつけたガムがこびり付く。

 使わなくなってかなり経っていると思われる牛乳箱も煤けた様に真っ黒に粉を吹いていた。


 剥がれかけた表札代わりのシールも、文字が日に焼けて薄くなっている。


 ポケットから鍵を出して差し込むとドアは開いた。

 鍵を交換する事もなく、ずっと同じだったようだ。

 明かりのない暗い玄関に入り、靴を脱いだ。

 無言のまま部屋に入り、六畳の居間の小さな電気炬燵に座り、テレビをつけた。

 これは液晶テレビに変わっていた。


 この部屋に帰って来たのは何年ぶりになるだろうか。

 弟の結婚式の後、少し立ち寄ったのが最後だと記憶している。


 面白くも無いテレビをBGM代わりに流し、上着を脱いだ。

 そして炬燵の電源を入れて、皿の上に乗る蜜柑を手に取った。

 冷えて感覚の無かった足先が自分のモノだとわかる様になる。


 放り出したジャンパーのポケットから、タバコとライターを取り出し、テーブルの上に置いた。

 来客用にとテレビの下に置いていた灰皿は今も同じで、俺はそれを取り、自分の前に置く。

 そしてタバコを咥えて火をつけた。


 この部屋を出て二十年以上は経っている。

 そして最後にこの部屋に来てからもかなりの年月が経過している。


 どんな顔で母に話し掛ければいいのだろうか……。


 駅から歩いてこの部屋まで来る途中、そればかりを考えていた。

 特に土産を買う訳でもなく、自然に足取りは重くなり、通常ならば二十分程度の道のりを一時間も掛けて歩いた。


 町も変わり、同級生の家の店なども無くなり、駅前も閑散としている。

 たまに見かける人も殆どが老人で、駅前の小さなスーパーから手押し車に食材を乗せて坂を上っていた。


 この団地にも幼馴染の友人が何人もいた。

 この地域では大きな団地で、二十棟程の建物があった。

 しかし、それも今では地域の厄介な場所なのだろう。

 団地の入り口には建替えの計画が決定し、工事が年明けから始まる事が書いてあった。


 階段の下のポストは人が住んでいない家のモノに、雑にガムテープが貼られ、郵便物を入れる事が出来ない様になっていた。

 そうしないと無作為に放り込まれるチラシの類で直ぐにポストは一杯になる。


 昔住んでいた頃からの人も多く居るのだろうが、みんな歳を取り、出歩く事も少ないようだ。

 昔は子供の声が絶えず、走り回る子たちで溢れていた。

 今はその影も無い。


 雑音にしか聞こえないテレビを消し、炬燵に潜る様に横になった。

 そして昔、見慣れていた天井を見た。

 天井の端の方もその薄い板が捲れている。


 咥えたタバコを灰皿で揉み消して、蜜柑の皮と一緒にテーブルの奥に押しやる様に自分の前を開けた。

 これは俺の癖らしい。

 自分の前に食べた後の食器などがある事を嫌うようだ。


 何処に行ったのか母は帰って来ない。

 それに内心ほっとしている自分が居た。


 部屋の中を見渡す。

 狭い部屋にごちゃごちゃとモノが溢れ返っている。

 紙袋が綺麗にたたまれ、テレビボードとタンスの隙間に差し込む様に置いてあった。

 それに苦笑した。

 母は何も変わっていない。







「捨てればよかろうが、こげな紙袋……」


 俺は母に言った。


「なんば言いよっとね。いざと言う時にいるっちゃけんが、置いとくと」


 俺から紙袋を引っ手繰る様に取ると、折りたたみ、テレビボードとタンスの隙間に差し込んだ。


「いざと言う時って何時ね……。そん時に買えば良かたいね」


 俺は呆れて座った。


「何でも金たいね……。こうやって置いとけば、その分美味かもんが食えるったい」


 母は俺の顔も見ずに立ち上がった。


「ご飯。食べて行くね」


 俺は小さく頷いて返事をした。


「今日はかしわ飯ば炊いとるけん。帰りに持って帰り……」


 母は台所へと向かった。


 かしわ飯……。

 俺の好物で、その日、俺が来るから母は作ってくれた事が直ぐに分かった。


「なあ、かあちゃん……」


 テレビをつけて、タバコに火をつけた。


 母は居間に顔を出し、


「何ね……」


 と訊いた。


「もうすぐ、地デジ放送になるけん、こんテレビは見れんようになるたい」


 母は慌てて俺の前に座った。


「ホントね……。こんテレビ、まだ綺麗に映るとばってんね……」


 そう言って身を乗り出す。


「ほら、今は液晶テレビが何処行ってもあるやろ。病院とか役所とか……、中華料理屋とかも……」


 煙を吐きながら言う。


「うんうん。みんなそげんなりよるけん、次壊れたら薄いテレビになるねって話しよったとこたい」


 タバコを消して、母の前に顔を寄せた。


「あれはオシャレになっとるだけやなかとよ。テレビの電波がアナログからデジタルの電波に変わるけん、みんなそうしよっと」


「そうやったったいね……。ばってん、そげなテレビ買う金はなかねぇ……」


 母は無意識にテレビを見たようだった。


「それくらい俺が買うちゃるたい。来年の七月やけんね……」


 母は嬉しそうに頷くと立ち上がり、台所へと向かった。






 そんな会話をした事を思い出して、微笑んだ。

 そして身体を起こすと、テーブルの上のタバコを一本毟り取る。

 そのタバコを咥えるとガスの無くなり掛けたライターで火をつける。


 俺と弟が小学生の時に、親父は死んだ。

 前の日まで元気で、一緒にキャッチボールを表でやった。

 風邪をひいたかもしれんと言い出し、高熱を出した。

 夜中に近くの診療所へ連れて行き、翌日の夕方には息を引き取った。


 子供ながらに、「人は簡単に死んでしまう」と思ったのを覚えている。

 そこから母と俺と弟の三人の暮らしが始まり、もう何十年も経った。


 タバコを消して、隣の部屋にある小さな仏壇の前に座った。

 そして蝋燭に火をつけると、線香を取り半分に折って火をつけた。

 香炉の上に線香を倒して置く。

 ほのかな香りが漂う。

 そして仏壇の中の位牌ではなく、前に置かれた親父の遺影をじっと見つめた。

 正座した足を崩し、微笑む親父の色あせた写真に微笑んだ。


「とうちゃん……」


 それ以上の言葉が出なかった。

 何度かその親父の遺影にそう呟く。


 親父があの日死なずに生きていたら、また違った人生もあったのかもしれない。

 何度もそう考えた事があった。


 親父が死んでから、母は近くにあったクリーニング工場で働き始めた。

 土曜日に学校から帰ると、仕事に行っている母は千円札を一枚置いて、「二人でこれでお昼ご飯食べて」とメモ書きを残していた。

 俺と弟は、近くの小さな商店でいつも菓子パンを買って食べた。

 いつの間にか土曜日は菓子パンの日だと二人の間では暗黙の了解だった。


 中学生になったある日、母の働くクリーニング工場から電話が入った。

 母が倒れたという事だった。

 俺は弟と一緒にクリーニング工場に走り、医務室へと通された。


「ちょっと疲れてただけたいね……」


 母は硬いベッドに横になりながら力なく笑っていた。


 後で弟と話したのだが、あの日、母が死んでしまうのではないかと、二人で同じ心配をしていたようだった。

 家族を亡くす事がたまらなく嫌だった。


 ふと、我に返り、蝋燭の火を消した。


「とうちゃん……。かあちゃんば頼むけんね……」


 手を合わせて、親父の遺影にそれだけを言った。


 倒して置いた線香はもう半分以上が灰になっていて、部屋はその匂いが充満していた。


 居間に戻り、炬燵に潜り込む。


 母も数年前にクリーニング工場を引退し、年金生活をしている筈だった。

 何処へ行ったのか、少し心配になった。


 高校を出て、奨学金をもらいながら大学へ行った。

 次の年に弟が高校を出たが、そのまま就職した。

 バスケットをやっていた弟は私立の高校へ進学したが、バスケットの特待生として入学し、そう学費の負担も無かった様だったが、実業団でバスケットをやる所までは無理だったようで、大手の鉄鋼会社へ就職した。


 俺は大学に入学した時に家を出た。

 学校の近くの安いアパートに住み、バイトと奨学金で四年間生活した。

 そして就職しても家に帰る事はなく、そのまま母とも離れて暮らした。

 弟は結婚するまで、母と一緒に暮らした。

 そのため、母に対する感情は俺とは少しズレがあるようだった。


 俺も結婚し、たまに母も訪ねて来ていたが、


「都会の生活は息が詰まるけん……」


 いつもそう言って二、三日で帰って行った。

 俺と弟が家を出て、一人、気ままに暮らしているらしい。

 どんな生活でもそれが良いのだろう。

 家を出た俺がそうだったように……。


 消えたテレビの画面に俺が映っている事に気付く。

 その姿に老いを感じた。

 この部屋で暮らしていた頃の俺とはかなり違っていた。


 みんな老いて行くな……。


 自分の姿を見て苦笑した。

 俺がこれだけ老いたのだから、母はもっと老いている。

 その老いは幸せな老いなのか、そうでないのかはわからなかった。






 玄関のドアに鍵が差し込まれる音がした。

 その音に俺は一瞬心臓が止まる思いだった。

 母が帰ってきたのだろう。

 炬燵から身体を起こし、座った。


 ドアが開き、靴を脱ぐ音と母の息遣いが聞こえた。


「はあ、疲れた……」


 独り言の様に母は言う。

 そして、俺の靴を見つけたのか、少し無言になった。


 母が居間を覗き込んだ。

 久しぶりに見た母の顔だった。


「タカシ……」


 母は手に持った買い物袋を床に置いた。


「来とったとね……」


 俺は無言で頷いた。


「寒かったろうが……。お茶でも入れて飲めば良かったい……」


 そう言うと足を引きずりながら袋を抱えて台所へと向かった。


 俺は母に発する言葉を探していた。

 しかし何も見つからずに、黙って台所で買ってきたモノを冷蔵庫に入れる母が立てる物音を聞いていた。

 その音は永遠に続くかの様にも思えた。


 そして母は、熱いお茶を入れて居間へとやって来た。


「待ってな……。お菓子ば持ってくるけん……」


 そう言うとまた台所へと行き、蕎麦ぼうろの袋を持ってやって来た。

 弟はそれを好まないが、母と俺はこの蕎麦ぼうろが好きだった。


「何年ぶりかね……」


 母は膝を庇って痛そうに座った。


「膝……。どげんしたとね……」


 俺は母に訊いた。

 これが母に発した最初の言葉になった。


「ああ、膝ね。何年か前にそこの階段で転んだとよ……。ちょっと入院したばってん、ちゃんとは治らんらしか……」


 俺は頷いて、丸いお盆に乗ったお茶を受け取った。


 痛そうに膝を摩りながら、母は俺を見て笑った。


「久しぶりたいね……」


 母は以前と変わらない笑顔で言う。

 俺は目を伏せて頷いた。


「すまんな……。親不孝ばっかりして……」


 熱いお茶を手に取ってすする様に飲んだ。


「元気やったら良かったい」


 蕎麦ぼうろの袋を開けて、茶菓子を入れる器に流し込む様に入れた。


「ほら、食べんね……。あんた好きやったろう……」


 俺の前にその器を置いた。

 母に微笑むとその蕎麦ぼうろに手を伸ばした。

 蕎麦ぼうろを口に入れてお茶を飲むと心地良く口の中でそれは溶けて行く。

 その感覚が好きだった。


「風邪とかひいとらんね……」


 母は上手く曲がらない脚をゆっくりと炬燵の中に入れてテーブルに肘を突いた。


「うん。大丈夫……」


 俺が微笑むと母も顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。


 以前と変わらない会話が出来た。

 それに胸を撫で下ろす。


 どんな顔をして母のところに来るか。

 そればかりを考えていた。

 俺をまだ息子として扱ってくれている。

 それが嬉しかった。


「この団地、建て替わるとね……」


 二つ目の蕎麦ぼうろに手を伸ばしながら訊いた。


「そう決まったらしか……。エレベーターの付くらしいけん、それは有難かばってん。家賃は上がるっちゃろうね……」


 俺は黙って頷く。


「まあ、部屋も綺麗になるやろうけん、良かたいね……」


 母はまたニッコリと笑い頷く。


「ヨウジには連絡したとね……」


 弟、ヨウジは近くに住んでいるが、もう何年も連絡していない。


「いいや……。ヨウジも迷惑だろうし……」


 母は自分の湯呑をテーブルの上に置いた。


「何ば言いよっとね……。二人だけの兄弟たい。兄貴が刑務所入ったくらいで迷惑がる筈無かとよ……。ヨウジも喜んでくれるたいね……」


 強い口調で言う母を見て頬を緩めた。


 そう。

 俺は刑務所から昨日出て来たところだった。

 罪状は殺人。

 立派な犯罪者だった。

 弟のヨウジは俺が刑務所に入ってすぐに面会に来た。

 しかし面会室のアクリル板の向こうに座ったヨウジは迷惑そうな表情で見ていた。

 そのヨウジの顔は今も忘れる事が出来ない。

 母はそう言うが、もうヨウジには一生連絡を取らないつもりだった。


「良かとよ……。もう……」


 俺はお茶を飲み干した。


「これからどげんするとね……」


 母は身体を俺の方に向けて小さな声で訊いた。


 俺は首を横に振った。


「まだ、なんも決めちょらん……。中で印刷の技術ば教わったけん……。どこかの印刷屋ででも働こうと思っちょる」


「前みたいな仕事は出来んとか……」


 刑務所に入る前は大手の商社で働いていた。

 自分自身、まだ商社でやれる自信もあった。

 しかし、前科のある人間を雇う商社なんてそうは無いだろう。


「もう、俺自身がね……。そげな仕事より、人目に付かんような仕事の方が良か気がして」


 母は目を伏せた。


「何年入っとったんかな……」


 母はまたそれを訊いた。


「八年たいね……」


 母はゆっくりと立ち上がって、俺の湯呑を取った。

 そして台所へと足を引き摺りながら歩いた。


「たった八年で、そげん変わるったいね……。刑務所ってところは恐ろしかところたい」


 母の言う通りなのかもしれない。

 刑務所の中にいると、自信のようなモノはどんどん削がれていく気がする。


「もう罪は償ったっちゃけん。堂々と生きて良かとばい」


 母は俺の前に湯呑を置いてまたゆっくりと座った。


「どげんやろうかね……。罪は罪たい……。その罪ば犯した事実は一生付き纏うとよ……」


 一瞬、あの大雨の中で倒れた秋山を見下ろす自分がフラッシュバックした。

 息を整えようとするが、過呼吸を起こした俺の肩は大きく揺れて、手に持ったゴルフクラブが上下していた。


「悦子さんは……」


 黙って首を横に振った。

 悦子とは妻の名前……、元、妻の名前だった。


「刑務所に入ってすぐに離婚した。静香の事もあるけん……早い方が良かろうと思って、弁護士に頼んで離婚届ば送ったとよ……」


 母は頷く。


「そうね……。そうやったとね……」


 それは知らなかったようだった。

 ふと顔を上げて母は立ち上がった。


「今日は泊まっていかんね……。晩飯ば作ろう……お前の好きなかしわ飯……」


 母は台所へとゆっくり歩いて行った。

 相当膝が悪い様だった。


 母は泊まって行けと言ったが、すぐに出るつもりでいた。

 もう家族に迷惑をかけたくない。

 それが今の俺に出来る唯一の事だった。

 

 久しぶりに料理をする母の背中を見た気がした。

 炬燵のテーブルの上にかしわ飯と豚汁、それにポテトサラダ、切り干し大根が並んだ。

 すべて俺の好きなモノだった。

 多分、母は俺が来ることを知っていたのだろう。


「ほら、いくらでん食え……」


 母は俺の前に昔使っていた箸を置いた。


「まだ、この箸あったとね……」


 母は座りながら微笑んだ。


「とうちゃんの使っとった箸もあるばい……」


 手を合わせて母の自慢のかしわ飯を頬張った。


「うん……。こん味たい……。悦子にも教えたとばってん、少し違うとよ……」


 夢中になってかしわ飯を口に入れた。

 母はそんな俺をじっと見ていた。


「刑務所の中は臭い飯とか言うばってんが、あれは本当ね……」


 母もかしわ飯を口に入れながら訊いた。

 俺は首を横に振った。


「昔はそうやったっちゃろうばってん。今は違うとよ……。その辺の定食屋で食べる飯とそげん変わらん」


 「臭い飯」とは刑務所で古い米を食わせていた時代の話で、今は外食産業の企業が刑務所の飯を作っているところもある。

 刑務官たちも受刑者と同じモノを食っている。

 そんなところで粗末な飯が出る筈もない。


「臭い飯ば食うて来いってドラマとかで言うとるのは嘘たいね……」


 母は歯を見せて笑った。


「嘘じゃ無いちゃろうばってん、今は違うってところたいね」


 俺は昔を思い出す母の味を堪能していた。

 何故か鼻の奥がツンと痛く、目を閉じると涙が溢れて来た。


「汚かね……鼻ば拭かんね……」


 母は笑いながらティッシュの箱を膝に置いた。


 俺の前に湯呑が置かれ、礼を言ってそのお茶を飲んだ。


「一つ聞いて良かか……」


 母はゆっくりと座りながら言う。


「何ね……」


 母はテーブルの上の蜜柑を一つ手に取った。


「何でお前は……、秋山君ば殺したとか……」


 八年前に殺した秋山。

 高校の同級生だった。

 俺は大学へ進学したが、秋山は高校を出て鉄鋼会社へ就職した。

 そう、弟のヨウジと同じ会社だった。

 高校を出て付き合いは無くなったのだが、ヨウジと同じ会社という事もあり、大人になってからまた再会したのだった。


 母の言葉でまた、あの大雨の中で横たわる秋山の姿が目に浮かんだ。

 時折雷鳴が轟き、雨水の流れる俺の顔を明るく照らす。


 母は蜜柑を綺麗に剥いて、口に入れた。


「言いとうなかなら、言わんで良かばってん……」


 母は優しく微笑んだ。


「もう済んでしまった事やけんね……。秋山君には悪か事ばしたばってん……」


 母も高校時代の秋山の事は知っていた。

 秋山はどちらかと言うと不良だった。

 親密な付き合いだったわけでもない。


 その時、玄関の鍵が開く音がした。

 母は背中を伸ばして玄関を見た。


「誰ね……」


 俺もじっと玄関の方を見ていた。

 この部屋の鍵を持つ人間なんて、母と俺、そして……。


 ゆっくりとヨウジが顔を出した。


「兄貴……」


 ヨウジは俺を見て呟く。


「何ね……。来るなら来るって言えば良かとに……」


 母はゆっくりと腰を上げた。


「飯、食うね……今日はかしわ飯ばしたとよ……」


 ヨウジは頷いて、俯いたまま炬燵に入った。


「昨日、出所した……」


 タバコに火をつけながら言うと、ヨウジは小さく頷いて俺を見た。


「知ってるよ……。弁護士から連絡来たけんが……」


 俺は頷いてヨウジを見た。


「そうか……」


「兄貴……」


 俺は慌ててヨウジの腕を掴んだ。

 そして首を横に振った。






 大雨の中、秋山の車はゆっくりとやって来た。

 ゴルフ場の道を少し逸れた場所だった。

 ゴルフ場の照明も落ち、大雨の降る中、秋山はヘッドライトを点けたまま車を降りた。


「兄貴……」


 ヨウジは震えながら俺の腕を掴んだ。


「心配せんで良か……。俺が話ば付ける……」


 俺は車を降り、秋山の前に立った。


「タカシか……」


 秋山は歯を見せて笑った。


「今日はお前に用は無か……。ヨウジは何処ね……」


 雷鳴が轟き、周囲を明るく照らす。


「秋山……。聞いてくれ……」


 腕を掴むと、秋山は力強く振り払った。


「離せ……。お前に用は無かって言うとろうが……。ほらヨウジ、金は持ってきたとね」


 秋山は声を荒げて言う。


 ヨウジの話では秋山に言われるがままに会社の鉄材を売り払い金にしていたらしい。

 しかし、今度はそれをネタに秋山に強請られ、日に日にその額も大きくなって行ったそうだ。

 どうしようも無くなり、ヨウジはタカシに相談して、この日一緒に秋山との待ち合わせ場所にやっていた。


 俺は秋山に縋り付く様に足を止める。


「離さんか……」


 何度も何度も秋山に振り払われ、地面に転がった。

 そして秋山は俺を蹴り倒し踏みつけた。


「タカシ……。お前がヨウジの代わりに金ば払うとね……」


 俺の知っている秋山の顔ではなく、金に毒されたその表情が記憶に焼きついていた。

 しかし次の瞬間、その秋山の表情が変わった。

 倒れる秋山の後ろにはヨウジがゴルフクラブを持って立っていたのだった。


「ヨウジ……」


 俺は慌てて立ち上がり、ヨウジの手からゴルフクラブを奪い取った。


「何ばしよっとか……」


 俺はヘッドライトに照らされる秋山の姿を見下ろした。


「行け……」


 俺はヨウジに言った。


「ばってん……」


「良かけん行け」


 俺は叫ぶ様に言うと、ゴルフクラブを握り直した。







「ほら、言うたろうが……。あんたらは私が同じ様にお乳ば飲ませて育てたっちゃけん……。同じ様にしか生きられんとよ……。刑務所入ったくらいで兄弟の血が切れる事は無かと……」


 涙を流しながらかしわ飯をかきこむヨウジを見ながら母は言う。


「兄貴が罪ば償って出所して来たっちゃけんが、こげん嬉しか事は無かったい……」


 母の嬉しそうな表情を見ていると、自然に頬が緩む気がした。


「かあちゃん……。俺にももう一杯、かしわ飯ばくれんね……」


 母は無言で微笑み、台所へと歩いて行った。








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