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午時の窓  作者: 椿葉露
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窓際

瞳を縁取る皮膚はいつも歪で、そこから眼孔に映し出される景色が本物だったのか僕には分からない。


人の少なくなった教室からグラウンドを眺める彼女の瞼は、眩しさから黒い瞳を覆う。瞼だけではなく、長い睫毛が下を向き、一層その瞳を隠していた。

高校二年の夏まで、僕は彼女の名前も知らなかった。


高校二年の夏。クーラーの効いた図書館で何もせずに、僕は机に伏せて微睡んでいた。館内には50代半ば程の司書のおじさんと数人の生徒がいる。夏休みの過ごし方としては、不適切と思われるような昼下がりであったが、家にいることも飽きた頃合でもあり他に仕様がなかった。

木造の図書館は、一人一人の動作にキシキシと音を付けていた。机に伏せた僕の耳には、静まり返った中に、紙のめくれる音とたまに出入りする生徒の足音、古い床板が軋む音、ただそれだけが入ってくる。

また一人、誰かが扉を開く。床板が小さな音を鳴らしはじめる。だんだんと軋みが近づく。キシ…キシ…キシ、コツ。

「あ、すみません。」

軋みを生んでいた相手は僕の座る椅子に足先をぶつけ、僕の顔を覗き込みながら細々と謝罪している。

黒い艶やかな横髪が僕の肩を登って、滑り落ちた。すると、直ぐに縮めた腰を真っ直ぐに持ち上げ、受付カウンターまで歩き出した。

僕の肩を滑った髪は、甘い香りを残して流れさった。鼻の奥まで入り込んだその香りに目眩がして、また冷たい机に頬を預けた。

僕はそのまま、彼女の足音と思われる音に耳を傾けていた。

キシキシと床を鳴らして、先程とは反対方向から向かってくる。だんだんと近づき、ふっと急に音が消えた。

肩を軽く叩かれた感覚で顔を上げると、彼女が横に立っている。

「これ、君のかな。下に落ちてたんだけど。」

彼女の手の平には、僕の定期入れが上がっていた。

「あ、それ、僕のです…。ありがとうございます。」

彼女は机の上に拾った定期入れを置くと、隣の席に座って話を続けた。

「同じ学年だよね。たまに廊下ですれ違うから。誰かと待ち合わせでもしてるの。」

「申し訳ないけど、君のことは知らなくて……。あと、ここには涼みに来ただけで。」

一向に彼女の顔を見ることなく、聞かれたことに答える。

「なんだぁ。居眠りして待ってようと思ってたから、一緒かなって思っちゃった。」

話しかけてきたのは、どうやら暇潰しのひとつのようだ。

続けて彼女は、

「まあいいや。おやすみ。」

と言って、僕の隣で突っ伏した。

隣で寝始めようとする彼女の隣に座り続けるのも居心地は良くないが、席を立つのも面倒でそのまま机に突っ伏した。なんだか自分の体まで彼女の香りに包まれている気分になった。


どれくらい時間が経ったのだろう。図書館の壁に付けられた丸時計はもうすぐ4時を指す。大分寝ていたみたいだが、凝り固まった腰の痛みで目が覚めてしまった。隣で寝息を立てている少女は気持ち良さそうに寝ている。

そろそろ、家に帰ろうかと思い立ち。少女を起こさぬよう、静かに室内から抜け出した。

扉から出ると、夏の熱気がまとわりついてくる。

図書館の古びたエントランスを抜け、玄関の扉を開く。扉を開くと目の前に、30歳ほどの背の高い男が立っていた。扉から出て、男を中へ促すと、ありがとうと会釈をして館内に入っていく。

僕は、何気なく図書館の外から窓を遠目で眺めていた。図書館に入っていった男が室内を歩いているのが見えた。男が立ち止まったのは受付でも本棚の前でもなく、僕が座っていた席の近くのようだった。


図書館を後にし、少し歩いて細い路地に入る。路地のなかでは、子供たちが鬼ごっこをして駆け回っていた。それを眺めながら寂れた喫茶店の扉をくぐった。

「いらっしゃい。今日もアイスティーのミルクかい。」

カウンターの中から中年のマスターが話しかけてくる。マスターは返事を聞かずにアイスティーの準備をしている。

「じゃあ、アイスティーのミルクで。」

そう言いながら、カウンターの端の席に座った。

お店の中には、新聞を読むおじいさんがカウンターの中央に、店の大きな窓際で楽しそうにお喋りをするおばさんたちがいつもと変わらずに座っている。

目の前にコースターとストローが置かれ、すぐにアイスティーと小さなミルクカップが置かれた。

「もう高校生は夏休みだろう。今日は何をしてたんだい。」

中学生の頃に初めて訪れてから、何度も通ううちにマスターとは仲が良くなっていた。高校生になっても、たまに来てはマスターと他愛もない話をしていた。

「今日は、図書館にこもってたよ。」

「図書館とは、なかなか勉強熱心なようだ。」

「マスター、僕が勉強熱心な訳ないだろう。」

それを聞いて、マスターは笑いながら尋ねてきた。

「じゃあ、図書館で何するってんだい。」

「エアコンもあるし、家に居ても暇だからなんとなくだよ。」

「若いのにそんなんで楽しいもんかね。彼女のひとりやふたり作らんのかい。」

茶化すようにマスターは話しかける。僕がそんなタイプでは無いことを知っていながらマスターは続けた。

「そういや最近同じくらいの歳の女の子がたまに来るよ。可愛かったし、今度来たら話したらどうだ。」

「僕と話したって面白味もないんだし、向こうも嫌だよ。そんなに可愛いなら気にはなるけど。」

他愛のない会話も落ち着き、ようやく触れたアイスティー入の硝子から大粒の雫が手のひらを伝ってテーブルに流れた。


特に話すことも無い僕は夕陽に照らされながら通りを歩く人にかかった影を煤けた窓越しにただ眺めていた。

しばらくすると影のひとつがこちらに向かって手を振っているのが目に入った。

僕の目の端に映っていたマスターが、コーヒーカップを洗っているその手を止め、細い影に手を振り返した。

マスターは僕に向かって問いかけた。

「あの子だよ。最近来てくれる可愛い子。学校で見かけないのかい。」

夕陽に差された影で顔が上手く見えない。

「クラスのやつでは無いかな。よく分かんないや。」

知っている女の子なんてクラスメイトと中学が同じ子くらいの僕が分かるわけないだろう。それに、この喫茶店に通っているならどこかでまた顔を見る機会もあるに違いなく気にもしなかった。

細い影は手を振り返され満足したのか遠退いていった。

その影を見送った頃、僕はアイスティーも飲み終わり喫茶店を出ることにした。

「マスター、じゃあまた。」


家に着きリビングに向かうと母が夕飯の支度を終えたところであった。

「おかえり。あんた早く手、洗っておいで。」

素麺を載せた皿を持ちながら慌ただしく歩く母の横を通り、流しで手を洗う。

「洗面所に行きなさいよ。まったくだらしないんだから。」

母は小言を言いながらもテーブルの準備を進める。

「母さん、侑汰(ゆうた)は。待ってからご飯なら先に食べたいんだけど。」

4つ下の弟は友達が多く、今日も外に遊びに行ったのか家の中が静かだった。

「ゆうは6時までには帰るって言ってたから、もうすぐよ。あんたも待ってなさい。」

今は17時32分、わざわざ自分の部屋へ移るのも面倒なので、自分の椅子でテレビを眺めて弟の帰りを待つ。

「お母さん。ただいまー。」

トタトタと走りリュックをソファに投げ、僕の横を弟が過ぎた。

「ゆう、おかえり。手洗ったら、ご飯よ。」

ようやく夕飯だ。


夕飯を食べ終えお風呂に入り部屋へ戻った。

眠くなるまではゲームをして過ごし、23時過ぎにベッドに入った。

天井を見ながら、ゆっくりと目を閉じて何も考えないようにする。こうしているうちに眠れるのだ。

だが、最近の暑さからかこの日はなかなか寝付けなかった。

ふと今日話しかけてきた女の子を思い出し、なんだか余計そわそわする。甘いジャスミンのような香りが鼻の奥に残っている気がして、頭の中から離れなくなった。

悶々としているうちに疲れたのかいつの間にか眠っていた。

こうして似たような数日を繰り返し、夏休みも最終日になった。この数日で彼女に会うことは無かった。


夏休み最終日。宿題も終わっているため、最終日は友達と遊ぶ約束をしていた。バスで海まで行くが、友達の秋也(しゅうや)はまだバス停に来ていない。

朝とはいえ、陽射しが強く海日和ではあるが到着前にバテてしまいそうだ。

日除けの下で汗を垂らしながら待っていると、秋也が走る姿が見えた。

「わりー!ずっと昼前に起きてたから寝坊した。すまねぇ!」

秋也が隣に立ち帽子で自分を扇ぎ、息を整えながら謝ってきた。

「まあ、バスには間に合ってるし別にいいよ。」

どうせバスを待つことになるなら、そんなに怒ることでも無いなと思い優しく声をかけた。

「バスあと2.3分で来そうだな。お前ちゃんと海パン持ってきてるか。俺はもう海パン履いてきた!」

「秋也、はしゃぎ過ぎだって。お前見てると暑いわ。」


秋也と話しているうちにバスが目の前に着いた。

2人で券を取って乗り込み、空いたバスの最後列に並んで座った。僕ら以外の乗客も数える程だ。

クーラーが効いているおかげで海まで快適に過ごせそうだ。

「なぁ、健翔(けんと)。前の方に座ってんのさ、C組の雪那(ゆきな)じゃね。」

「雪那って誰だよ。俺はF組なんだから、C組の女子なんか知らねーって。」

ヒソヒソと話しながら秋也の目線の先を追う。2人掛けのシートの窓際に女の子が座っている。どこかで見た顔だなと思うもやはり誰かは分からない。

「雪那モテてるらしいぜ。可愛いもんなぁ。でも、告ったやつは振られてばっかで高嶺の花って感じ。」

「まあ、お前が言う通り可愛いけどさ。知らない女子の話されても困るよ。」

バス停を3つ過ぎた頃、雪那という名の女の子はバスを降りていった。ここら辺には遊べる場所もないだろうに、何処に向かっているんだろうか。


バスに乗ってから40分ほど経ち、海辺のバス停で僕らは降りた。目の前の砂浜は家族連れやカップルで賑わっていた。

「健翔、腹減ったから先になんか食べてから海にしようぜ。」

秋也の提案で海の家で焼きそばを食べ、予定通り海で泳ぎ夏の思い出を作って夏休み最終日を終えた。

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