番外編 地下の来訪者
ずっと誰も来ない。食事を持ってくれる人すらも来ない。お腹は空かないけど、寂しくて悲しくて泣きそうになっていたら、不意に誰かの声がした。
「……千歳、いる? どこ? 千歳?」
蝋燭よりも明るい白い明かりが見えて、びっくりした。誰かが降りてくる足音もする。
「……誰? 誰? なんでこんなに明るいんだ?」
立て膝になって格子の近くに寄ると、知らない若い男が手に明かりを持って入ってきたのがわかった。見たこともない服を着ていている。誰だろう。どこから来たんだろう。話してくれるかな?
「ねえ、誰? どこから来たの? その明かり、なんでそんなに明るいんだ? ねえ、どうして来たの、いなくなっちゃ嫌だ、お話して、たくさん話して」
誰だかわからないけど、久しぶりに人に会えてすごく嬉しい。すごくたくさん喋ってしまった。
誰? と聞かれて、明かりに照らされた男はなんとも言えない顔をした。
「俺は、和泉豊って言って……。君は、名前は何ていうの?」
和泉? 名字があるってことは、変な服だけど、それなりの家の人なんだろうか? いや、それより。
「ワシの名前?」
「そう」
男、和泉はうなずいた。
「ワシ、名前ない」
「……ない?」
和泉は、ちょっとよくわからない、という顔になった。名前がない理由がすぐわからないって、〈そういうこと〉を生業にしてる家の人じゃないのかな?
とりあえず、知っている限りのことを話してみた。
「えっと、ワシ、朝霧の切り札で、だから他の家に狙われやすくて、それで、何かに名前をつけるとその名前を使って呪いやすくなるから、名前はつけたらだめなんだ」
「……呼ばれる時は、どうしてるの?」
「えっと、朝霧の忌み子とか、忌み子とか呼ばれる」
「……そう……」
和泉は、なんだか苦しそうな顔をした。どこか痛いのかな? 大丈夫かな?
和泉は、片手を額に当てて少し考え込んでいたけど、やがて何かを振り切るように頭を振った。
「あのね、いきなりだけど、君に俺のことを信用してほしいんだ。それで、外に出たいって思ってほしいんだ。君を外に連れていくために来たんだ、俺」
「……外?」
よくわからなくて、首を傾げた。〈そういうこと〉で、自分しか太刀打ちできない悪霊とかが出たら外に出してもらうけど、〈そういうこと〉の話じゃなくて、単に外に出るだけ? 和泉が連れて行ってくれる?
和泉は苦笑した。
「いや、ごめん、こんなこといきなり言われても、怪しいだけだよね。ええと、君が好きになりそうなもの持ってきたんだ、お近づきの印に、受け取ってくれない?」
「何? 何かくれるのか?」
和泉は、片手に下げていた袋から何か取り出した。格子の間から差し入れてくれたので、受け取ってみる。
片手で持てる大きさで軽いが、見たこともないしっかりした箱で、薄い青緑で塗られている。差し色に濃い茶色がついていた。なんだか、甘い香りがする。
「それ、お菓子。変わった味のお菓子だけど、君はすごく気にいると思うよ」
「そうなのか? 食べていいか?」
「もちろん」
箱を開けると、何かが紙にひとつずつ包んであった。取り出して、紙をむいてみる。見たこともない、黒っぽいものが出てきた。でも、すごく甘くていい香りがする。恐る恐る口に入れて噛んでみると、舌で溶けて、びっくりするほどの甘さと、まったりした舌触りと、すーっとする香りが駆け抜けた。
「おいしい! こんなの、初めて食べた! すごく甘い!」
和泉は、ほっとしたように笑った。
「よかった、気に入ってくれて。好きなだけ食べていいよ、他にも、おいしいお菓子いろいろあるから」
「やった!」
和泉は、袋からいろいろ取り出して、ひとつずつ格子から差し入れてくれた。どれもきちんと丁寧に包んである。こんなにたくさんお菓子持ってるって、和泉はお菓子屋さんなのかな?
どのお菓子も甘くておいしい。お菓子を並べてひとつずつ包みを開けて、ぱくぱく食べていたが、三つ目に手を伸ばした時、和泉がなんでこんなに良くしてくれるのか不思議になった。和泉は普通に話してくれるし、聞いたら答えてくれるよね?
「ねえ、なんでこんなにいいものたくさんくれるんだ? ねえ、なんで普通に話してくれるんだ? 和泉はどこから来たんだ?」
これから、和泉が食事とか運んできてくれるならすごく嬉しい。桃みたいに普通に話してくれるし、甘くておいしいものをくれるし。でも、なんで良くしてくれるのかは知りたい。
いきなりいろいろ聞いたせいか、和泉は戸惑うような顔になった。
「ええと、俺はね、神奈川から来たよ。君にここから出てきてほしくて」
「神奈川?」
聞いたことのない言葉だ。和泉は頭をかいた。
「あ、そういえば江戸時代は神奈川じゃないか。えーと、都道府県の前は確か……ええと……相模、だったかな。相模から来た」
相模国かあ。確か、江戸の隣の土地だっけ。
「割と遠くから来たんだな、そこでお菓子売ってるのか?」
「いや、そういうわけじゃなくて、これはただのお土産。俺は、Webライター……じゃ通じないか。何ていうか、いろんな読み物の、宣伝とかの文章書いて働いてる」
お菓子屋さんじゃないのか。読み物って言うと、字の練習用のものくらいしか読んだことないけど、どんなのがあるんだろう?
「読み物って、どんなの書いてるんだ? ワシ、ひらがな全部読めるし、漢字も割と読めるぞ! 書くのもできる! 難しい話だと、よくわからないけど!」
「うーん、いろんなのやってるから、いろいろとしか言いようがないんだけど……まあ、書くことを指定してもらえば、大体は自分で調べて、ある程度のものは書けるかな。いや、話ズレたな」
和泉は、格子に手をかけた。
「あのね。君に、外に出たいって思ってほしい。そしたら、君を外に連れ出してあげられるから」
「外?」
〈そういうこと〉じゃないのに外? 仕事の準備にまた風呂って感じでもなさそうだし。
「また〈そういうこと〉の仕事あるのか? ワシじゃないと手に負えない悪霊なのか?」
風呂に入れてもらう途中で、言うこと聞かないで桃を探しに行ったから、おしおきで飯抜きにされたけど、やっぱり他の奴じゃ太刀打ちできなかったのかな? それで、また順番が回ってきたのかな?
和泉は、真剣な顔で言った。
「仕事とかじゃないんだ。俺が、君に外に出てきてほしいんだ。一緒に帰りたい」
仕事じゃないのか? 帰る? どこに?
「働くんじゃないのか? 帰るって、どこに?」
そう言うと、和泉は、なんだか寂しそうな表情になった。
「……ごめん、わかんないか。でも、ほら、君は外に出たら、今あげたみたいなお菓子がもっとたくさん食べられるし、おいしい料理もたくさん食べられるよ。好きなところに遊びに行けるし、俺の書いたものも、いくらだって見せてあげる。だから、外に出たいって思ってほしい」
それは……お菓子はたくさん食べたいし、おいしい料理も食べてみたいけど……。読み物も興味あるけど。
でも、外に出たいと思ってほしいと言われても、何ていうか、今まで考えたことがなさすぎる事柄だ。第一、出たい出たくないとかの前に、出られない。
「ええと、そんな事言われても、出られないし。いつもしっかり鍵かかってるし、飯持ってきてくれる人たちも下の差し入れ口から入れてくれるだけだし、出たくても出られない」
そう言うと、和泉は辺りをきょろきょろした。
「鍵? 鍵って、これ?」
和泉は、いたところから少し横にズレた。腰より少し高いくらいの位置で、格子を探っている。
「ええと、うん、多分その辺にあるのが鍵だ」
たまに出してもらう時、えらい人が大体その辺をいじっていたことを思い出しながら、答えた。
「……確かに錠前みたいなのはあるけど、これ、もう鍵が刺さってるよ」
「え」
和泉は、両手で錠前らしきものをいじくり続けた。やがて、ガチっと音がした。
「鍵、開いたよ! 今、扉開けるから!」
ガタビシきしみながら、扉が横に開けられる。え、こんなにあっさり? でも、出ていいのか? また、すごく怒られないか?
「で、でも、用もなにもないのに出たら怒られるかも、またワシ飯抜きにされるかも、それに、和泉も怒られるかもしれないし」
「怒る人は誰もいないよ! もしいても、千歳のことは絶対にかばってあげるから!」
千歳? 入ってくる時も、千歳って呼んでたな、誰のことだろう?
「あの、千歳って誰?」
和泉は、なんともいい難い顔になった。なんだか、寂しそうな悲しそうな感じもする。
「……君が外に出れば、全部思い出せるよ。思い出せなくても、ちゃんと教えてあげるから」
和泉は、格子の中に入ってきて、こちらに手を差し出した。
怒られないのかな? 和泉が助けてくれるのかな? 和泉がそこまで言うなら、ちょっとだけ出てみようかな?
立ち上がって、一歩踏み出して、そしたら着物の裾が思い切り引っかかった。
忘れていた。白い小刀が、ずっと床に着物の裾を縫い付けていた。