知らせることで変えてきたい
2日間、教習所で適正検査と実技と学科をみっちりやり、バテている。
俺は、夕飯の席で千歳に愚痴った。
「俺、実技全然ダメだあ……」
『お前にもできないことあるんだなあ』
「なんて言うかさあ、ハンドル操作とそれで動いてる車の輪郭が全然結びつかないんだよ……」
『まあ、慣れだよ慣れ』
「慣れるのに人より時間要りそう……」
ちなみに、千歳の中には免許持ちだった倉沢静さんがいるので、千歳は元からそこそこ実技できるし、学科の内容も割と知ってるのである。
『なあ、そう言えば聞きたいことあったんだ』
千歳はきゅうりサラダをもぐもぐしつつ言った。
「何?」
『ワシ、せいぶんかしっかんって言うやつなのか?』
「ああ……うん、戸籍はその前提だし、実際もおそらくはって感じだけど……」
そう言えば、千歳とその辺のことしっかり話したことなかったな。
狭山さんから聞いた基礎知識と、それをとっかかりに自分で調べた知識が多少ある。千歳が必要なら、話すか。
「性の分化の疾患、と書いて性分化疾患ね。人間の雛形って女の人で、胎児のとき男性ホルモン浴びると、基本的に男に分化するんだけど、胎児期に男性ホルモン浴びるには、基本的にSRY遺伝子っていうのがなきゃいけないんだ」
『あー、遺伝子ってタンパク質とかの設計図か』
「うん、ホルモンを作る過程でタンパク質いるから、まあホルモンも決まった遺伝子がないとできないと思ってもらえれば。で、SRY遺伝子って基本的にY染色体にあるんで、Y染色体があると基本的に男になる」
千歳は訝しげな顔をした。
『さっきから「基本的に」ばっかり言ってる』
「応用があるんだよ、たくさん。Y染色体があってSRY遺伝子もあっても、体が男性ホルモンに反応しない体質だと、和束ハルみたいな女の人になる」
『へえー、あいつそんななのか』
千歳はナスの浅漬けをもぐもぐし、俺は引き続き話した。
「あと、SRY遺伝子がなくて、遺伝子的に女の子でも、胎児期に何かあって男性ホルモンにさらされると性器が男性器っぽくなる。それで男と勘違いされちゃうことがある」
『へえー! ワシそれかな?』
「うーん、応用は本当にたくさんあるから、千歳がどれって言うのは今の時点じゃわからないんだよね。染色体も遺伝子も体も調べないとわかんないんだけど、千歳から細胞と取るのはできないし」
千歳の体は強靭で、採血の注射針も突き立てられないのである。体の一部を切り取ることもできない。細胞を取るのは無理だろう。というか、怨霊に細胞はあるのか?
あと、胎児期に男性化した女児って言っても男性化度合いは様々で、男と勘違いされない程度の子も普通にたくさんいる。それに、男性化した度合いが強いと性器に睾丸様のものができるそうなんだけど、千歳の場合、しっかりした陰茎はあっても睾丸に見えるものはなかった。
それと、性分化疾患の人の多くは性自認が男もしくは女とはっきりしていて、千歳みたいにどっちでもない、ノンバイナリー、という人は少ないのである。性分化疾患かつノンバイナリーの人がいないとは言わないが、確率的には少ないだろう。
千歳は首を傾げた。
『じゃあ、ワシなんなんだろうな?』
「まあ、調べたいならまず高千穂先生あたりに相談だけど……人に説明する時は、性分化疾患で性別の判定が保留になってます、あとノンバイナリーです、って言っとけばいいんじゃない?」
『のんばいなりー?』
「自分は自分を男とも女とも思っていません、くらいの意味。自分が感じる自分の性別のことを性自認っていうんだけど、千歳の性自認はノンバイナリーです、みたいな」
『へえー!』
「まあ、体の性別が男でも女でも、ノンバイナリーの人は普通にいるんで……千歳の場合、体と性自認が一致してるわけだから、かえってややこしくないかも」
『へええ……』
千歳は目を丸くした。
『ワシ、物知りになった!』
「そりゃよかった」
『なんでそんなに知ってるんだ?』
「狭山さんが小説のネタにならないか調べたことあってね、千歳に関係するかもっていろいろ教えてくれて、自分でも調べた」
『ふーん、え、ワシのために調べてくれたのか!?』
千歳があんまりにもびっくりするので、俺は照れくさくなった。
「まあ、うん……一緒に暮らしてる人のこと、その辺はちゃんと理解しておきたかったし……」
『わー! ありがとう!』
千歳は嬉しそうに笑った。
俺は、千歳に幸せでいてほしい。こういうことを知っておいて、千歳が困っていたら助ける、ということができたら、それは千歳の暮らす世の中を変えることにつながるのかな?
大きな事は出来ない。けれど、目の前にいるこの人が、似た属性の人が、暮らしやすい世の中になればいいと思う。