たっぷり温泉浸かりたい
藤さん指定の宿は、ぱっと見、古き良き昭和の旅館といったところで、和室に座卓、窓辺には旅館によくある小卓と向かい合わせの椅子があった。設備も昭和相当なのかと思いきや、畳は新しく、洗面所はセンサー式、トイレはウォシュレット、冷蔵庫も空気清浄機も新しいものが設置されていて、非常に過ごしやすそうだった。怨霊(男子大学生のすがた)(命名:千歳)も気に入ったようだった。
『畳のいい匂いがする!』
「いい所だね、設備更新がしっかりしてる」
『おっさんが、酒冷蔵庫に入れたら温泉行きたいって』
「そうだね、荷物置いたら行こうか」
『風呂上がりにキンキンに冷えたのが飲みたいから、ビールは二本だけ冷凍庫に入れといてくれって』
風呂上がりにロング缶二本も飲む気なのか……。いや、まあ、千歳は酔わないし、藤さんの最後の心残りのひとつではあるし、咎めたりはしないが。
「一応寝る用の服は持ってきてるけど、旅館だし浴衣使おうか」
『おっ、いい生地のやつだな』
備え付けの浴衣とバスタオルを千歳に渡す。渡してから気づいた。千歳、家で風呂に入るときは変身して全裸の小さい子になって入って、出てからは体を拭いて、いつの間にか服を着た格好になっていたり、黒い一反木綿の格好になっている。あれ? 千歳って服着てるのか? いや、自分の服なんて千歳は、一着も持ってないし……。
「……今思ったんだけどさ、千歳って、いつもは服着てる感じの格好になってるだけで、もしかして全裸?」
『そうだけど、この浴衣は着るからな。着心地良さそうだから着るからな』
千歳は浴衣を取られまいと、バスタオルごと浴衣を抱きしめるようにした。
「いや、浴衣は使ってほしいけど、そうなんだ……」
それなりに長い付き合いになっているけど、千歳について知らないことは、まだまだたくさんあるな……。
温泉はまだ人がおらず、貸切状態だった。頭と体を洗ってよく汗を流し、満を持して温泉に入る。びっくりするほど柔らかいお湯が肌を包んだ。泉質はいいし、温度もちょうどいいし、広くて手足を伸ばせる。思わずため息が漏れた。
いつもと違って真面目に体を洗い、俺の次にお湯に入ってきた千歳も気に入ったようだった。
『やっぱ家の風呂とは違うな!』
「すごくいい湯だよ」
『おっさんが、この瞬間が最高なんだって言ってる』
「わかる……」
『一緒に浸かってるのがかわいい女の子だったら、言うことなかったって』
悪かったな、連れが男で。
「それは流石に無理ですって言っておいて」
『お前しっかり浸かれよ、お前にちゃんとした湯治させられると思って来たんだからな』
「のぼせない程度にゆっくり浸かるよ。いや、でもいい湯すぎていつまでも浸かってたくなっちゃうな」
『そうだなあ』
二十分くらいだらけながら浸かって、流石にこれ以上はのぼせるかなと思って出た。浴衣を着てみたが、千歳のほうが早くきれいに浴衣を着て、俺の着方にあれこれダメ出ししてきた。指摘通りに直してみたら割とちゃんと着ることができたので、伊達ではなかったが。流石、昭和の怨霊。
『おっさんが早くビール飲みたいって』
「はいはい」
すぐ部屋に戻り、冷凍庫からビールを出す。俺のノンアルコールビールも冷蔵庫から出す。
『特に何もないけど、乾杯しよう乾杯』
「え? じゃあ、とりあえず乾杯」
缶を開け、千歳と軽く打ち合わせてから一気にあおる。旨味のある苦味と冷たい炭酸が喉を滑り落ちていく。火照って水分の抜けた体に沁みる。ノンアルコールビールでこれだけおいしいんだから、生ビールを一気している千歳と藤さんは最高だろう。普通の缶ではあるが、あっという間に飲みきってしまった。千歳もあっという間に二本飲んでしまった。
「あ、そうだ、二ヶ月連続俺の収入が伸びておめでとうで乾杯すればよかったな」
こういうことは飲み終わったあとに気づく。
『え、お前そんなに羽振りいいのか!?』
「いや、元がしょぼいから伸びても大したことないんだけど。でも、食費増額補っても、十分余るくらいには伸びてる」
千歳はしみじみとした顔になった。
『そうか……これで女社長捕まえなくても、女見繕って子孫繋げるな……』
「そういうのはその、相手が必要なことについては長い目で見ていただけると。あと、右肩上がりの収入が続かない可能性も十分あるし」
『なんだ、つまらん』
夕食の時間までまだだいぶあるので、とりあえず備え付けのお茶を入れてすすり、千歳はさっき買ったきび餅をお茶菓子にパクつき出した。
「あ、そうだ、千歳。だいぶ時間あるし、狭山さんが藤さんに見てほしいって言ってた動画見ない?」
『そう言えばそれあったな、見るか。おっさんも見たがってる』
「タブレット持ってきてるよね? 画面広いほうが見やすいと思うから、動画のアドレス、タブレットに送るね」
Wi-Fiがある旅館で良かった。俺は狭山さんから来たアドレスを千歳に送り、千歳はタブレットでそれを開いたようだった。
『マダミス? なんだそれ』
「マーダーミステリーの略だね、ミステリーの中の登場人物になりきって犯人当てるゲーム」
『あ、おっさんが作ったシナリオだって言ってる。それの、プレイ再現?とか言うのだって』
「俺も見ていい?」
『ん』
俺は千歳の方に行き、千歳は俺の方にタブレットを向け、予期せぬ鑑賞会が始まった。