彼の刺繍は愛が重い
「イリナ、ちょっと袖を通すだけでも……」
「嫌です」
目の前で母が手に持つのは爽やかなペールグリーンに銀糸で繊細な刺繍の入ったドレス。くすんだ灰色の私の髪と灰青の瞳によくなじむ素敵なドレスだ。
母がお茶会用に準備したドレスだが、私はどうしても着たくなかった。いや、着られないのだ。
(だってこのドレス、重すぎるわ……)
私、イリナ・レアード伯爵令嬢には人とは違う力がある。それは「物に込められた思いの大きさを感じ取る力」だ。
そして気持ちの大きさを感じ取る方法――それが「重さ」だ。
込められている気持ちが好意なのか悪意なのか、その種類はわからない。しかし込められた気持ちが深ければ深いほど、その物の重量が増す。
ちなみに最重記録を保持しているのは「父から贈られた短剣」だ。
幼い頃からパッとしなかった私は母に連れられて行ったお茶会で他の子にいじめられ、その家の庭に流れる小川に落とされたことがある。その時、助けてくれた男の子から渡された、可愛らしいハンカチのおかげで最悪の思い出になることは避けられたが、父は違ったらしい。
お茶会の数日後「何かあればこれを使いなさい」と、父が自らの手で研ぎあげた短剣を渡された。激重すぎて手渡された私は腕が外れるかと思ったほどだ。
その短剣だが、もちろん使われることはなく、今も大切に仕舞いこんである。きっとこれからも大切に仕舞われ続けるだろう。ありがとう、お父様。
その次は同い年のハリエット。爵位も同じ。家の規模も同じ。母同士も何かと張り合う仲であるため、彼女は私を嫌っている。ちなみにお茶会で私を小川に落とした首謀者もハリエットだ。
そんな彼女から私は手紙をもらったことがある。内容は「読んだら不幸になる」とか「同じものを他の友人に送れ」とか、何の面白みもないものだった。
しかし、ニヤニヤと笑みを浮かべるハリエットから手渡された手紙は重すぎて、受け取った時は片手では支えられず、震える両手でようやく持てるほどだった。
ただ、必死な顔で震える私の様子を見たハリエットは、とても機嫌よさそうにしていたので好都合だったが……。
――だが、しかしだ。
母が仕立てさせた、このドレスは私史上最大重量記録を更新しそうになっている。
まだ袖を通してはいないが、手に取っただけでわかる。
はた目には軽やかな生地だが、私には鋼を何層も重ねて作り上げた鎧のように感じる。
私はあまりの重さに驚き、重さを生み出している元凶を探り当てようとした。そしてある部分を手にしたとき、私の頭にピカリと光が輝いた。
(――あった。これよ。この刺繍よ。きっとこれが原因だわ!)
私が手に取った部分は、銀糸で繊細な刺繍が施してある。他の部分は見た目通りの重さだが、この刺繍部分に差し掛かるとそこだけ世界が変わったようにずっしりと重さを増すのだ。
「せっかくご厚意で刺繍まで入れてくれたのよ。何が不満なの?」
母が不服そうにぶつぶつ呟いている。
そうなのだ。そもそも刺繍は注文の時にはお願いしていない。しかし出来上がって来たドレスには美しい模様の刺繍が施されていた。
(でもこれだけの重さ……頼んだのは私だってことがわかっているんですもの、きっと私に並々ならぬ恨みを持つ方よね。自分で言うのもなんだけれど、屋敷に引きこもっている私にここまでの恨みを持つって、一体誰かしら)
純粋な興味がむくむくと沸き上がっている中、ドレスを侍女に仕舞わせながら母は私に呆れた様子で言った。
「はぁ……あなた採寸した時は何にも言わなかったじゃない。もう好きにしてちょうだい。このドレスはお母様が仕立て屋に返しに行くわ、ついでに目ぼしい物も見繕ってきます」
「――わ、私も行きます!」
珍しく声を上げた私に母は驚いた顔をした。
「あらイリナ、どんな風の吹き回し?」
「あ、え、ええっと……」
私の力は両親には内緒にしている。二人とも私を深く愛してくれているのは知っているので、変に心配させたくなかったのだ。
今回のドレスだって「なるべくなら恋愛結婚してほしい」という両親の思いがあっての新調なのだ。普通なら私くらいの年齢になると、家同士で婚約が結ばれたりするが、両親は私の気持ちを優先してくれている。
(新しいドレスを着れば気持ちが明るくなって積極的に交流できるかも、っていうお母様なりの気遣いなのよね。それを無下にしてしまったのは申し訳ない気もするし……)
私は丁寧に仕舞われていくドレスを見た。
(ここまでの気持ちの大きさで私を嫌っているのに、こんなに繊細に、美しい刺繍を施せるなんて……。傷つきたくはないけれど、怖いもの見たさという言葉もあるものね)
私は不安を胸に仕舞い、謝罪がてら母について行くことにした。
§
仕立て屋は年配の夫婦で経営している、歴史ある店だ。
我が家も代々贔屓にしているらしく、私も小さな頃から知っている店だった。
到着し、母があれこれ説明している間、私はぼんやりと考えていた。
(採寸や注文はご夫婦が請け負っているけれど、実際に仕立てていくのはお針子さんのはず。でもお針子さんは貴族以外の方のほうが多いし、引きこもっている私と面識があるような方っているのかしら)
それに私の十数年の人生の中で、敵意を抱かれるほど交流したのはハリエットくらいしかいない。それはそれで少し寂しいのだが……。
「お呼びでしょうか」
突然、この店では聞き覚えの無い低い声が響いた。
声の方を見ると、そこには背の高い青年が立っていた。夏の日差しのような黄金色の髪の毛は目にまぶしく、若葉のような瞳は生命力に溢れていた。そしてなにやら機嫌の悪そうな顔をしているものの、整った目鼻立ちは絵画のお手本のような美しさだった。
しょぼくれて引きこもっている私とはまるで正反対のその姿に、私は思わず見とれてしまった。
「そのドレスに刺繍を入れたのは自分です」
次の瞬間、その男性が放った言葉に私は耳を疑った。
(この方がドレスに、あの刺繍をした……? 私に大きな恨みを持つ方?)
私の頭の中は混乱状態だった。記憶のどこにもこの青年に恨まれるようなことをした覚えはない。
「この子はうちで少し預かっていまして……まだ日が浅く、失礼があったようで申し訳ありません」
ぼんやりと立ちすくむ私に仕立て屋の主人はひどく焦った様子で頭を下げた。ちなみに母はぽーっと青年に見とれてしまっていた。
「俺の刺繍に何か問題がありましたか」
ご主人が頭を下げる横に並び、青年は私に直接話しかけて来た。突然のことに地面から両足が浮いてしまうほど驚いた私は、上の空になっている母の代わりに上ずった早口で答える羽目になった。
「い、いえ。あの、すごく素敵でしたので――や、やっぱりこのドレス、引き取らせていただきます。着ます、とても素敵なんですもの」
どうにかこうにかその場を収めたいと思うのは私の悪い癖だ。こうやって自分の言いたいことも言えずに、どんどん引きこもってしまう。
(でも、この人は私を深く恨んで嫌っているはず。下手に刺激せずに穏便に収めた方が得策よ)
自分自身に言い訳をしながら、私はおそるおそる青年の顔を見上げた。だがそこに現れた青年の表情に私は目を疑った。
「ありがとうございます」
そう答える青年の先ほどまでの不機嫌顔はどこへ行ったのか、ホッとしたように柔らかな笑みを浮かべ、私に礼を告げたのだ。
§
「この泥棒猫っ!! あんたにはこの姿がお似合いよ!」
久しぶりに参加した夜会。煌めく色とりどりのドレスの合間に響きわたったハリエットの叫び声と共に、私のドレスの胸元には真っ赤な葡萄酒がかけられた。周囲の興味津々な視線が肌を突き刺す。
(ガリュール公爵家主催の夜会に招待されたから渋々来てみたら、またこれよ……。いったい私が何をしたというの……)
事の発端は、ハリエットが好意を公言して憚らない侯爵家のご令息に、私が話しかけられたことだった。
内容は久しぶりに夜会に顔を出した私への挨拶と、最近自分の友人が留学から帰国したので会えるのが楽しみ、という当たり障りのない世間話だったのだ。
「……大変申し訳ありませんでした。少し、話し込みすぎてしまったみたいでご迷惑をおかけしました。用事を思い出しましたので、私はこれで失礼いたします」
目を丸くして驚く侯爵家のご令息と、好奇心を隠さない周囲に頭を下げ、私は足早に会場を後にした。
(こんなところ、来なければ良かった。ハリエットはどうせまた私を晒し上げたかっただけじゃない)
その一方でこみ上げる涙を押し殺す私の胸に、ふとよぎった思いがあった。
(でも良かった。あのドレスを着ている時じゃなくて。重くて逃げられないだろうし、汚されでもしたら……)
今晩のドレスは夜会用だった。あの刺繍の入ったドレスは日中のお茶会用だったので着て来なかったのだ。
私はそこで、はた、と気づいた。
(待って。あのドレスに込められているのは私への恨みつらみなのに、どうして汚されたくないなんて思っちゃったのよ。もう、本当に私ってどうしようもない間抜けだわ……)
そこでようやく抑えられなくなった涙がぽたりと落ちた。
§
夜会の翌日、私は侍女にこっそり頼み込み、仕立て屋にドレスを持ち込んでもらった。ドレスを汚されてしまったことは両親、特に母には内緒だ。まさかハリエットに葡萄酒をかけられたなど母の耳に入ったら、終わりのない報復合戦が始まってしまう。
無益な争いを避けるべく、いち早くドレスの汚れを落とそうと仕立て屋に持ち込んだのだ。
(これで一安心だわ。侍女にも固く口留めしたし、仕立て屋が顧客の情報を軽々しく口にするわけないものね)
しかし、私は自分の浅慮さをまたもや悔いることとなってしまった。
それは私が呑気に読書を楽しんでいた数日後の昼下がりのことだ。
「注文のお品をお届けに参りました」
「あ、えっと……」
来客があると呼び出された私は、嫌な予感に胃をキリキリとさせながら応接室に向かった。侍女が両親には告げず、私に直接伝えてきたということは……まあつまり、そういうことだった。
応接室の扉を開くと、仕立て屋で出会った不機嫌な表情の青年がそこで私を待っていた。
(まさか、この人が来るとは……)
シン、と静まり返る室内に、青年がドレスを広げる衣擦れの音だけが響いた。
「染みになっていた部分はほぼ綺麗になったのですが、ここだけどうしても残ってしまいましたので……」
(あ、これは……)
彼がそう言って示した部分には確かにうっすらと葡萄酒色の染みが残っていた。しかしその上から、染みよりも少し濃い色の糸で複雑な花模様の刺繍が刺してあった。
(すごい。綺麗だわ……)
私は思わず刺繍部分を手に取った――が、すぐに取り落としてしまった。
(――っおっも! 重すぎるわ、何これ……)
私は刺繍の重さに愕然としながら、おそるおそる青年の顔を見た。もちろん青年も私の様子をずっと見ていたので、私がドレスを落とした光景もしっかりと目撃していたようだ。
彼は眉間の皺をさらに深くして、私に尋ねた。
「刺繍、気に入りませんでしたか」
私はその青年の様子にハッとした。
(そ、そうだったわ。この人、なぜか私に恨みを抱いているんだった……お、怒らせてしまう前に何か言い訳を――)
「申し訳ありません……」
「え……?」
どう言い訳すれば穏便に納得してもらえるかを必死で考えていた私に、彼が告げたのは謝罪の言葉だった。
「まだ認めてもらえる腕前じゃないのですよね。俺、もっと頑張ります……なので、またあなたのドレスに刺繍をさせていただけませんか?」
私の頭の中はさらにこんがらがった。
「えっと……し、刺繍を? してくださる?」
私は彼の言葉を繰り返すように尋ねた。正直なところ、彼の発言の意味を理解しかねていたのだ。
「はい。俺に、刺繍をさせていただきたいのです」
私はパチパチと瞬きをした。慌てて壁際に立つ侍女を見ると、彼女も不思議そうな顔をしていた。私の動揺は最高潮に達した。
「あの……刺繍はとても素敵です。これを身につけられたらとても嬉しいのですが、私なんかよりもっと似合う方がいると思います。私、こんなに地味ですし、あまりお話も上手じゃなくて……ふふ」
なぜか私はそこで笑ってしまった。あまりにも自分の言っていることが情けなさすぎて、もう笑うしかなかったのだ。
「この前のドレスも、うまく着こなせないと思います。申し訳ありません」
私はどんな顔をしていたのだろうか。青年はきゅっと唇を噛み、不機嫌そうな顔から困ったような表情に変わっていった。
「……いいえ、俺はあなただから刺繍を刺しました。あなたのことを思って針を刺したので、あれはあなただけのものです」
青年はそう言って頭を下げた。
「……いえ、余計な事をすみません。俺ももっと頑張ります」
その言葉を最後に、私と青年の間に再び沈黙が落ちた。私は青年の鮮やかな黄金色を見ながら、ふと口を開いた。
「刺繍は、始めて長いのですか? あ、いえ、男性では珍しいなと思って」
刺繍を仕事にしている人に何を言っているのかと、私は恥ずかしくなり慌てていろんなことを付け加えてしまった。だが青年はその私の質問に顔を上げ、先ほどまでの困った顔を崩し、この前のような柔らかい笑顔を見せて答えてくれた。
「はい、子どもの頃からずっと好きだったのです。おかしいでしょう? 実家では変人扱いされていましたから、見返してやるつもりで実家を飛び出して留学したりして……」
私の目の前で星が瞬いた。照れくさそうに笑う彼の輝きに、私の視界も明るくなったような気がした。
「素敵です! 好きなことをお仕事に出来るなんて、才能以上にご苦労されたことも多いでしょうに。尊敬いたします。特に刺繍は、私、お恥ずかしながらあまり得意ではないので……」
柄にもなく興奮して語ってしまった私は、段々恥ずかしくなり、最後は尻つぼみになってしまった。でも彼はそれでも柔らかい笑みを崩さなかった。そして私に言ったのだ。
「いつかお教えしますよ、イリナお嬢様」
私の名を呼んだ青年の名前はシリルというらしい。
「シリルさん……」
私は彼が屋敷を去る後ろ姿を見ながら、小さく口の中で呟いた。そうすると不思議と心の中が熱くなった。
だが、彼は私のことを深く恨んでいるのだ。あんなに重い刺繍を刺すくらいに――。
§
しばらくして、我が家に一通の招待状が届いた。
「どうしても行かなきゃだめかしら……。別にハリエットと仲直りしなくていいのに」
「何言ってるの。公爵家直々のお誘い、断れるわけないでしょう? それにお母様も母として一言、ハリエットの母親にガツンと言っておかないといけませんからね。フフフ、これは戦いよ……。いい、イリナ。戦場に乗り込むつもりで行くわよ」
招待状はガリュール公爵家からだった。先日の夜会での一件を知り、止められなかったことの謝罪と、ハリエットとの仲裁に入ってくれるという何ともありがた迷惑なお誘いをくださったのだ。
さらには芋づる式に母に夜会での一件を知られるところとなってしまい、私はどうやってもお茶会に行かないわけにはいかなくなってしまったのだ。
父ですら、いい笑顔で物騒な発言をする母を止められなかった。
(もう、腹をくくるしかないわね……)
私はクローゼットを覗いた。お茶会用のドレスは数枚準備がある。その中には、シリルが刺繍を施してくれた、あのペールグリーンのドレスも出番を待っていた。
(『戦場に乗り込むつもり』で、ね……)
私はドレスの裾部分の刺繍を手に取った。相変わらずズシリと驚くほどの重さを持つそれは、やはり鎧のようだった。
「――よし!」
私は覚悟を決めた。
茶会の当日はきれいに晴れていた。会場は公爵家の庭園だったので、天気にも恵まれた良い茶会だった。
私はシリルの刺繍が入った、あのペールグリーンのドレスを纏って参加した。
(お、重いわ。想像以上に重いわ……)
ふうふうと肩で息をするわけにもいかず、私は地面に沈みそうになる足を必死で奮い立たせながら会場で過ごしていた。もちろん積極的に誰かと話すことはないため、私は庭園の風景を楽しむことにした。
(あれ、でもこの風景……)
私はある場所に差し掛かった時、ふと気づいた。立派な植え込み、その奥にあるのは自然を模した花畑。中には小川が作られている。
小川のせせらぎにふらっと引き寄せられた私の脳裏に、ある思い出がよみがえった。
「覚えている? あんた、この小川に落とされたことあるわよね」
突然、背後から聞こえた声に私は驚きながらも、重いドレスのせいもあり、ゆっくりと振り返った。
「ハリエット……」
私のすぐ後ろに立っていたのはハリエットだった。私に名を呼ばれた彼女は手に持っていた扇をパチンと閉じ、私を睨みつけた。
「この前はあんたのせいでひどい目に合ったじゃない。謝りなさいよ」
「合った? ひどい目に『合わせた』じゃなくて『合った』の? ハリエットが?」
私が冷静に事実を確かめるように尋ねると、ハリエットはさらに憎々しげな視線を私に向けた。
「あんたが帰った後、皆あたしと話してくれなかったんだから。あんたが仕掛けたことなのに、なんであたしがひどい目に合わなきゃいけないのよ!」
夜会の時のことだ。私が帰った後、ハリエットは危険人物として遠巻きにされたようだ。
いつもならハリエットの剣幕に怯え、私は二言目には「ごめんなさい」と謝っていた。しかし今日の私は少し違った。
(今日はこの重いドレスを着ているせいか、いつもより落ち着いていられるわ。まるで守られているみたい……)
現実はただの布のドレスと刺繍糸なのだが、私にとっては鋼の鎧を身に着けているような感覚だった。
「ハリエット。前から思っていたんだけど、私に何か恨みでもあるの?」
私が謝ると思っていたのだろう。
全く予想もしていなかったことを問われ、ハリエットはぽかんと口を開けて私を見た。
「恨み? そんなのないわよ」
「え?」
今度は私がぽかんとする番だった。てっきり骨の髄まで恨まれているのだと思っていた私は、ハリエットの返答に拍子抜けしてしまったのだ。
しかし、私の顔を見ていたハリエットの表情がみるみる険しくなってきた。
「いつもすました顔して、偉そうな態度が気に入らないのよ。今日だってそんな刺繍がたくさん入ったドレスなんか着て! あんたには似合いっこない! あたしに寄越しなさいよっ」
声を荒らげたハリエットは、勢い良く私に掴みかかってきた。
重いドレスを身に着けた私は地面にめり込んでいて――というわけはなく、呆気なくよろめき、十数年ぶり二回目の小川転落事件を起こしてしまった。
小川の中に尻餅をつく私を見て、ハリエットは心から楽しそうに笑い声を上げた。
「キャハハハハッ! いい気味っ! あんたはそうやって濡れねずみになってるのがお似合いよ」
ハリエットの勝ち誇ったような高らかな笑い声に、さっきまで無敵状態だった私の気持ちはどんどんしぼんでいった。
――その時だ。
「私の大切な人が何か失礼でも?」
ハリエットの背後から低い声がかけられた。慌てて振り向いたハリエットがぴたりと動きを止め、明らかに声の主に見惚れている様子がわかった。
だが私はその声に聞き覚えがあった。
「シリルさん……?」
思わず私が小川の中から呼びかけると、ハリエットの向こうから焦った様子で駆け寄ってくる人物の姿が、徐々にはっきりとして来た。
「イリナ嬢、お怪我はありませんか?」
そう言って躊躇いなく小川にざぶんと入ってきた彼は、自分が濡れるのも厭わず、ずぶ濡れの私を引き起こしてくれた。私は礼も忘れ、再びその青年に尋ねた。
「シリル……さん、ですよね?」
私が再び尋ねたのも無理はない。
今私の目の前にいる彼は、仕立て屋の青年の格好ではなかった。美しい刺繍の入った最高級のジャケットに、スラリと形の良いスラックス。そして胸元には、この国の王族と公爵家の男子だけがつけるのを許されている勲章が輝いていた。
「ええ。そうです。名乗り遅れました。私はガリュール公第二子、シリル・ウェグランです。今はウェグラン伯爵と名乗っていますが、イリナ嬢はぜひ“シリル”と……」
私の手を取ったままうっとりと語るシリルは、何かに気づいたのか慌てて胸元から白いハンカチを取り出した。
「イリナ嬢、どうぞお使いください。またあなたにお会い出来て、こうやってハンカチを渡すことになろうとは思いませんでしたが……」
私は震える手で、シリルの差し出すハンカチを受け取った。
「っく、重っ……」
思わず口から漏れた言葉を飲み込み、私はぷるぷると震える手でハンカチを開いた。そこにはかつて私が同じように小川に落ちたとき、一人の少年が渡してくれたハンカチと同じ、可愛らしい花模様の刺繍が施されていた。
「あ、なた――」
「シ、シリルさまっ!」
私が口を開くのと同時にシリルの名を呼ぶ者があった。ハリエットだ。
「はじめまして。わたくしハリエット・リボジュイユと申します。助けてくださってありがとうございます。わたくし、そこのイリナに先ほどまで脅されていたんですの。突き落とそうとして来るイリナを避けてしまったら、勢い余って落ちてしまったみたいで……」
ハリエットは「本当に怖かった」と扇で顔を隠し、泣いているかのように肩を震わせた。
私にとってはいつもの事なのだが、初めてハリエットの狂言を聞くシリルがどう思うのか、私は急に心配になり彼を見上げた。
だが、いくらシリルが私を恨んでいたとしても、ハリエットの言葉を信じることは無いようだった。
私が見上げたシリルの表情は厳しく、今まで私が見ていた不機嫌そうな顔は怒っていた訳ではないことに気づかされた。
「ハリエット嬢。せっかくお越しいただいたところ申し訳ないが、今日はここでお引き取り願おう」
シリルの淡々とした語り口調に、同意してもらえるとばかり思っていたハリエットは信じられないとでも言うように目を丸くした。彼は更に続けた。
「先ほど、あなたがイリナ嬢の後をつけるところから私はずっと一部始終を見ていた。それに先日の夜会での出来事も、あなたが葡萄酒をイリナ嬢にかけた場面を最も間近で見ていた参加者から話を聞いている」
自身が招いた騒動だと指摘される形となり、赤くなったり青くなったりしていたハリエットはキッと私に鋭い視線を向けた。
「――いいえ! それは全てそこのイリナが原因です。今日だって『夜会ではよくも邪魔してくれたわね』と、わたくしが逆に呼び出されたのです。そうよね? イリナ?」
ハリエットが私をきつく睨みつける視線からは、「余計なことを言ったら許さないからな」という強烈なメッセージを感じる。
(いつもなら後から仕返しされるのが嫌で、適当に場を濁していたけれど、でも……)
私は何気なくシリルを見上げた。彼もまた私を見ていたが、その眼差しは温かく、私は濡れたドレスの刺繍の重さを思い出した。
「……いいえ。私は彼女に突き落とされました。ハリエット。私が嫌いならそれでいいけど、それすらも全て私のせいにしないで。自分の気持ちが生み出した行動ですもの、自分で責任を取ってちょうだい」
私は初めてハリエットに言い返した。先ほど然り、まさか言い返されると思わなかったのだろう。ハリエットは唖然とした顔をした後、じわじわと怒りの形相に変わっていった。
しかしハリエットの怒りが私に向かうことはなかった。彼女の視線から隠すようにスッとシリルが目の前に立った。
「話は以上だ。もう一度言うが、イリナ嬢は私の大切な女性だ。これ以上、彼女を害そうというなら私は相手が誰であろうと容赦しない」
シリルはそう言ってサッと手を上げた。するといつの間にか控えていた公爵家の警備兵がわっとハリエットを取り囲み、あっという間に会場へと連れ去って行った。
ハリエットの喚き声がだんだん小さくなって行くのを聞きながら、私はさっきのシリルの言葉に顔を真っ赤にしていた。
(わ、わ、わ『私の大切な女性』?! そう言った、そう言ったわよね!? いや、きっとあの場をやり過ごすための冗談よね。そうよ、きっとそうよ)
彼の思いもよらない発言に私の頭の中は大騒ぎだった。だがシリルは私の頭の中の大混乱など知るはずもなく、先ほどとは打って変わって明るい声で私に呼びかけた。
「さあ、あなたは俺と一緒に屋敷に入りましょう。濡れたものを着替えなければならないし、両親にも紹介できる良い機会だ」
「ど、どうしてっ……?」
「『どうして』?」
私が思わずあげた疑問の声に、彼は不思議そうな顔をした。
「どうして優しくするのですか? 私を嫌っていたのでは?!」
「嫌う? なぜ?」
「なぜって……」
さすがに「刺繍がめちゃくちゃ重かったから」など言えるはずもなく私は口ごもった。その様子をどう捉えたのか、シリルはまだ水滴が残る私の手を取った。
持ち上げられる手と同じように私が目を上げると、鮮やかな若葉のような瞳が私を真剣に見つめていた。
「昔、俺はあなたに一目で恋に落ちたのです」
「へ?」
いきなりの告白に、私の口から変な声が漏れた。
「あの日、幼いあなたが今日と同じように川に落ちた時に……」
そこまで言った彼は、いまだに私の手の中にある激重ハンカチに目を落とした。
「あの時あなたは俺の刺繍を見て言ったのです。『なんて素敵なの』と。そこで俺は初めて自分を認められた気がしました。俺の心はあの時からあなたの物なんです」
シリルはそう言うと私の手を取ったまま、うっとりと自分の頬に当てた。
「いつか俺が刺繍したドレスを着て欲しいと思って、留学して学んでいたのです。戻って来てからはあなたの家が贔屓にしている仕立て屋に頼み込んで働かせてもらったのですが、まさかこんなに早く実現するとは思いませんでしたが……」
「そ、そうでしたのね。嫌われていないなら良かったです……って、と言うことは?」
(ということは、シリルさんは私を嫌っていないし、むしろ、すすすす好き……?! ど、どうしましょう。嬉しすぎて、足が震えてきちゃった……。ん? 嬉しすぎる? もしかして私、シリルさんのこと……)
彼の気持ちを知り、私も自分の気持ちに気づき――とてもいい雰囲気ではあったが、私の足は限界だった。耐えきれずによろめいた私の腰に咄嗟に支えてくれたシリルの大きな手が回った。
「ご、ごめんなさい。濡れたドレスが重くて……」
私が最高にうまい言い訳だと自画自賛する間もなく、彼のとろけそうな微笑みに意識が全て持って行かれてしまった。
「ふふ、お気になさらず」
私の上に影を落としたシリルはとても嬉しそうに囁いた。
腰に回った手が力強く私を引き寄せ、彼の目映い黄金色が私の額にさらりと触れる。
「俺はきっとドレス以上に重いですからね、覚悟してください」
そして流れるように額に落とされた口づけに、とうとう私は膝から崩れ落ちる羽目になった。
その日以降、私史上最大重量記録が日々更新されることになるのを、この時の私は知らない。
ただし、それは私のドレスに嬉々として刺繍を施す彼の愛の重さだけれども。
お読みいただきありがとうございました!
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