薄明
世界観共有企画「#薄明の風」より
じき日が暮れる。
夕焼けで染まった町の片隅で、からんころんと下駄が鳴っていた。灰色のブロック塀に、長い影が這っている。背丈は二メートルは優にありそうだ。
だが、道の上には下駄だけがあった。それがひとりでに、からんころんと鳴っている。誰か見えないものが、それを履いているかのように。
からん、ころん。
もうじき夜がやってくる。西の山の端が茜色に縁どられて、町に大きな影が落ちた。東の山のてっぺんは、まだ橙。影の中から見上げる昼の名残は、絵に描いたような鮮やかさだ。
からん、ころん。
伸びていた影は、夜の闇と混ざってしまう。下駄だけが、静まり返る道の中で反響した。
からん、ころん。
古びた街灯が、ぼんやりと道を照らす。薄暗い道に明暗ができ、また、長い影が壁へと伸びた。
夜はもうそこまでやってきていた。空は淡い青から藍色へ、ガラスを散らしたような光がちらちらと瞬き始めている。
かららん。
下駄が止まる。
三つ向こうの明かりの中。
「よぉ」
黒いロングコートが、風もないのに揺れている。ごつん、と重いブーツの音がした。明かりの下の顔は、高校生にも見える、若い男。
男は、止まったままの下駄に歩み寄る。その目は、やや上の一点を見ていた。銀灰色の瞳と、ややくすんだ黒髪。人であれば耳がある場所から、獣の尖った耳が生えている。
「このあたりの住民から、あんた、通報されてんだよ」
コートのポケットから、男はカードを取り出して見せた。
「俺は陰陽師、廻の乙。うちのご主人が来るまで、神妙にお縄についておくんな?」
半分に割れた鳥居の描かれたカードが、鈍く光った。
自転車で駆け付けた少年は、下駄の上の空間で視線を上下させた。獣耳の青年が、「ここ」と一点を指差す。
「あ、そこが顔なんですね。ええと、べとべとさん? 吟が失礼しまして。こいつ、顔こわいでしょ」
「おい陽、俺わるくない」
青年、吟は不満げに耳を上下に揺らす。ロングコートの下では、髪と同じ色の尾が揺れていた。
「このあたりから、日暮れ時になると下駄の音だけがして気味が悪いって通報があって。あ、僕、このあたり担当の陰陽師、廻の甲です。こいつのカタワレで」
から、から、から、と下駄が鳴る。影を見れば、握った拳を上下させていた。
「あ? ご不満でいらっしゃるってーのか」
陽の肩に腕を乗せ、吟が眉間にしわを寄せる。陽は困ったように笑った。
「明確に人に危害を加えていない以上、駆除の対象にはなりません。ただ、ちょっとご配慮いただければと」
「だそうだぜ。うちのご主人優しいだろう」
「たとえば、そうですね。コートを着て人の輪郭が見えるようにするとか。そうするだけでずいぶん変わると思います」
「あと舌と喉作れ」
吟は自分の口を開いて見せる。鋭い牙がぎらりと剥き出しになった。
「ああ、声は大事ですね。必要であればうちから支援物資を差し上げますので」
「契約したきゃ来てもいいぜ。おれの後輩な」
「見境なく勧誘しないの」
陽は吟を肩からどけて、自転車のかごのスクール鞄を探る。そこから、ジャージを引っ張り出した。
「僕のでごめんなさい。これ被っていれば、うちに来たってわかるかも」
ついでと名刺を渡し、陽と吟は去っていった。後ろから見ると、吟のロングコートが尻尾でめくれあがっているのが見える。べとべとは、名刺を持った手を振って二人を見送った。
「……ウ……ん、ヲ。あ、あー」
ジャージの下のあたりで、ぱくぱくと何かが動く。確かに透明なのだが、そこに何かがある、と分かる程度に景色が歪んでいた。
「……よ、ぉ。お、よ、う」
目的の音が出せたのか、べとべとは、下駄をからんっと鳴らして歩き出した。
「よ、う。よう」
下駄とジャージが、上機嫌に揺れる。
彼が陰陽師に就職するのは、また少し先の話だ。




