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ブルースカイ

 灰色の壁だけを見て、日々を過ごしていた。

 円形の部屋。三段の本棚とベッド、机と椅子。本棚の上から手を伸ばしたら届くくらいの場所に、手のひらほどの幅の溝がある。そこから少しだけ日の光が入るので、昼夜は分かる。ベッドの上の方に、穴だらけの青い布が、天蓋みたいにかけられている。それが風に揺れるのが、数少ない娯楽のひとつだ。


 いつからここにいるのか、覚えていない。七日に一度、目隠しをされて外に出る。体を洗われて服を新しくされて、それからまたこの部屋。昔は、その回数を数えていたように思う。けれど、そんな行為も無意味だと分かって、やめてしまった。

 僕は死ぬまでここから出られない。

 そう何度目かも分からない自覚をして、左胸に爪を立てる。心臓の上。そこに、黒々とした刻印がある。


「げ、お前自分の皮剥ごうとしてんのか?」


 いきなり部屋にやってきた兵士が、心底嫌そうにそう言った。


「よー、俺はリズメイン。今日からお前のお世話係。よろしく」


 若い兵士だった。金色の髪と青い目、どこかの貴族のような顔立ち。


「名前は? 覚えてるか?」


 そう聞かれて、僕は答えに窮する。だって忘れているんだから。


「じゃ、テオって呼ぶから」


 鼻歌混じりで僕のけがの手当てをして、そいつはそう言った。



 リズメインという男は、とにかく遠慮というものがなかった。これまで僕の世話をしてきた兵士達は、用もないのに僕の部屋には来なかったし、来たとしても目隠しするまでの数秒程度しか顔を見なかったのに。


「えっ、テオ、飯食わねえの? もったいねえー」

「うるさいな」


 僕が根負けして口を開いたのは、三日目だった。口を開かなければずっと一方的に話されていたかと思うとぞっとする。


「食べなくても死なない」

「ふーん。でも食べても平気だろ?」

「……ああ」


 最後に口に物を入れたのはいつだったか、もう覚えていないけれど。


「じゃあ、明日から飯持ってくるからよ。一緒に食おうぜ。俺食堂嫌いでさあ」


 不愉快だが、残念なことに、やってくるリズメインを止める手段が僕にはない。

 翌日、本当にやってきた。自分の分の食事と、一杯の重湯を持って。


「久しぶりに飯食うやつがいるっていったら、これくれたんだ」


 うっすら茶色がかった、どろりとしたもの。別に美味しそうとは思わない。けれど、僕の体は食事という行為を覚えていたようで、ぐぐ、と内臓が動くのが分かった。


「ほれ」

「いらない」


 それを受け入れたら無限に空腹が来ると知っている。自分の指を食い千切るような空腹と、目を開くことすら億劫になる倦怠感の果てに、今がある。それだけは覚えていた。


「明日も持ってくるから」

「それは疑っていない」


 リズメインは遠慮しないが、不誠実じゃない。けれど、


「いいから食え!」

「もがっ!」


 髪の毛を引っ掴まれて、首を反らされる。勝手に開いた口に、熱い重湯がねじ込まれた。

 逃げようとして、床に倒れる。腹の上にリズメインの膝が乗った。食わせたいのか吐かせたいのか分からない。


「分かった、食べる、食べるから!」


 ああ、結局僕が折れることになる。勝利の拳を掲げるリズメインから重湯をひったくって、器からそのまま飲んだ。別に美味しくない。そもそも味なんて分からない。


「これから毎日持ってくるからな」


 嬉しそうに笑うリズメインが、煩わしい。

 ……置物のようになって発狂と覚醒を繰り返すだけの日々が終わるのは、僕だって喜ばしいと思う。

 けれど、そんなものは一過性で。必ずまた、この日々を忘れるまでの時間、僕は気が狂いそうになって、一人でのたうち回るんだ。

 誰もかれも、結局、僕より先に死んでいくんだから。



 いつからと聞かれたって答えられない。僕はこの部屋の中心に丸太のように転がって、夜が来て、眠たくなるのを待っているだけだったのだから。

 いつから食事をしていないのか。いつから名前を呼ばれていないのか。いつからここにいるのか。

 忘れてしまった。全部、全部。忘れなければ、いられなかった。


「お前をここから出すよ」


 リズメインにそう言われて、記憶の奥底で、何かがぱちんと爆ぜた気がした。

 前に、誰にそう言われたんだろう。


 何か欲しいものはないかと問われた。僕はアオゾラが欲しいと言って、ベッドの上の、青い天蓋を指差した。もうずいぶんと色あせて、ボロボロになってしまっているから。

 前に、誰にもらったんだっけ。たしか、あれは。


「……テオ、お前さ」


 リズが、珍しく静かな声でそう言った。


「記憶、戻ってきてるだろ」


 ぱちん。また一つ、頭の奥で、何かが爆ぜる。


「……うん」


 僕は、二十と四年、それから数えていない何年かぶりのホットミルクを、口に入れた。



 昔、この世界には魔法があった。

 それを信じていない人間も、今は多いらしい。けれど、僕はその時代の人間だった。


「そんな時代を終わらせたのが、ソルディア王国の大禍だったってわけだ」


 そうだ。僕の生まれた国は、そんな名前だった。

 魔法大国ソルディア。眩しいほどの白い王都と、その中心にそびえる王宮。今は影も形もないらしいそれが、当時は誰しもが憧れる花の都だった。

 大禍はその都の中心で起きた。どうしてか生き残ってしまった僕に残ったのは、朽ちない体と、尽きない命だけ。


 ……。


 いや。違う。


「今でも俺は覚えてるよ。大禍のこと」


 夏だった。あの日は夜になっても暑くて、窓を開けていた。それで、報せの鐘がよく聞こえたのは覚えている。

 急にやってきた兵士達が、僕と、幼馴染と、それからもう一人、確か、巫女の女の子を、王宮の奥まで引っ張っていった。魔法の源泉、この世で最も美しいと言われた、地下の泉まで。僕は魔法士の、幼馴染は騎士の見習いだった。僕達は両手足を縛られて、百年分の夜より黒い泉に、放り投げられた。

 何の説明もなかった。ただ、青白い顔の王様が、必死に、何かに祈っていたのは見えた。僕達が沈むように何度も槍で突いてきた。冷たかった。痛かった。

 多分、生贄だったんだろうと、今では思う。


「なあ、テオ。お前も、覚えてるんだろ?」


 目が覚めたときは、王都は、僕と、幼馴染と、巫女様だけになっていた。生き物は全部ぐずぐずの泥のように腐っていた。僕の胸には、真っ黒な刻印が残っていた。泉の中で何と出会って、何があったのか、僕は、覚えていない。

 ただ、何か、どうしようもないようなものを飲み込ませられたのは、体が覚えていた。

 それから、巫女様が僕と幼馴染の手を繋がせて……。


『どうせ長生きするなら、一人より二人がいいだろ?』


 そうだ。

 確かにあの時、『リズ』は、そう言った。


 僕が顔を上げると、リズは、薄く笑った。記憶の中と少しも違わない顔で。


「お前、青い空が好きだったよな」


 ああそうだ。ソルディア王国は、とにかく晴れが少ない国だったから、余計。


「それを取り上げて、死も国も全部奪って……悪趣味な奴だよ」


 リズは、あの泉の中で何と会ったか、覚えているらしい。


「……辛くなかった?」


 僕はただここにいただけだ。大禍の象徴として恐れられて、閉じ込められて。何十年か、何百年か知らないけれど。


「俺が生きている限り、お前は生きていると知っていた」


 リズは、兵士の服の襟を緩める。鎖骨のあたりに、僕のと似た黒い刻印があった。


「だから辛くなんかねえさ。それに、ようやく思いついたんだ。この呪いを解く方法を」


 リズの指が、僕の胸をつつく。


「魔法を失くした世界だって、呪いを解くのは不可能じゃない。もう少しだけ、頑張れるか、テオ」


 ……何年。僕はただここで無為に過ごしたのだろう。

 そんなことを忘れるくらいに、心が沸き立った。この感情が何という名前だったかも忘れていたのだけれど、今は、思い出せなくてもいいと思った。

 だって、とめどなく溢れてくる感情の奔流が、どうしようもなく、心地よかったから。



 次の入浴の日、リズは目隠しを持ってこなかった。それで思い出す。この目隠しは、僕のためだったんだと。

 日の光が降り注ぐ中庭。高い塀で囲まれていても、空は見える。目隠し越しではない、いつぶりかの、太陽。

 それと、血のように赤い空。


「……リズ」


 怖気づきそうな僕の腕をつかんで、リズは僕を、日の光の下に引っ張り出した。


「大丈夫だって。俺が信じられないか?」

「信じてるに決まってる」


 だけど、やっぱり、この空を見ると、自分は人間じゃないんだと突き付けられる。そりゃ、何十年と飲まず食わずで年もとらない奴が、人間なわけはないけど。


『俺達の呪いは、魔法の結晶だ。体に刻み込まれていても。だから』


 リズの仮説は大胆で単純で、けれど、思いつきもしないことだった。


『使っちまおうぜ、この魔法』


 僕が恐れて、忘れていた全てと、リズは向き合い続けてきた。


 ……ああ、だったら。


 今度は、僕が、勇気を出さないといけない。

 左胸に手を当てて、目を閉じる。体に根を張った呪いに意識を巡らせる。そして、その呪いも、自分の一部だと受け入れる。

 どんな魔法がいいだろう。呪いとなっている魔法に触れながら、思案する。そうすると頭が冴えていくように感じた。


 ああ、あれがいい。


 取り出した魔力に、意味を込める。僕の手のひらに生まれた、光の球。それを、真っ赤な空へと投げた。

 夜の花(スパークル)。魔法がなくなった世界でも、魔法の光は、変わらず綺麗だった。

 投げて、投げて、腕が疲れたころ。門を開いて、鎧を着た兵士達が押し寄せてきた。大慌てのその様子が、なんだかおかしくって、僕は笑った。


 上を見る。雲一つない、快晴。


 青い空が、そこに広がっていた。

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