永久の足跡
その人は、いつもサイズの合っていない白衣を着ていた。白衣というのは汚れるものだ。それにしたって、裾を引きずりそうになっているのを見ると、サイズを合わせたほうがいいのじゃないかと思う。
「仕方ないじゃないか、私は随分と背が高い時代があったらしいから」
同じ研究を始めたときに提案したら、そんなことを言われた。変な冗談を言う人だと思った。
陽気で気さく、好奇心旺盛で、皆に少々甘やかされている。
彼の名前は、ラッシュド・カヤール。私が生涯付き合うことになる大馬鹿者である。
カヤール博士は、いくつか奇妙な癖があった。その中で一番有名で、異常だとすら言われていたのは、研究で成果が上がりそうになると、ぽいとそれを放り出してしまうということである。大抵、慣れた様子で助手や共同研究者がそれを拾い上げて完成させた。発表するとなるとカヤール博士はとにかくそれを嫌うらしい。
「なに、私は凡人だよ。時間がたくさん使えるというだけで。私が名を刻みたいのは、ある一つだけなんだ。励みたまえ。君も私の共同研究者になれたら、記念にノーベル賞をプレゼントしよう!」
そう言われた五年後に、実際に私はノーベル賞をプレゼントされた。
カヤール博士はあるとき、研究所で唐突に倒れて死んでいた。十年以上研究所にいるらしい職員達は、ほとんど動揺せずに淡々と死後の手続きをして、カヤール博士の席にはあの白衣だけが残された。
小規模な葬儀の三日後、一人の女性が、研究所を訪ねてきた。
「ただいま諸君。ラッシュド・カヤール、仮眠を終えてきた!」
初めて見る顔に見知った笑みを浮かべて、その女性はえらそうに胸を張った。その日の夕方には、あの薄汚れた白衣はその女性のものになっていて、新しい「カヤール博士」の顔写真が職員に共有されていた。
それがどれほど非現実的であろうと、私は理解せざるを得なかった。彼女はカヤール博士であり、亡くなった彼もカヤール博士であった。そしてきっとその前も、その前にも、カヤール博士がいたのだと。
カヤール博士は、自分のことを命の超越者と呼んでいた。彼、あるいは彼女曰く、人の命は、肉体と魂の双方が揃って成立しているそうだ。しかしカヤール博士は、魂の部分のみが独立し、肉体を次々と乗り換えていくという。人格、知識は引き継がれ、反対に、乗り換え先の肉体の元の記憶は失われる。
「寂しくないのかって? ないさ! 家族も友人も、いたかどうか分からないからね。脳にも容量があるから、古い記憶は、すっぱり忘れてしまっているのさ」
ラッシュド・カヤールという名前すら、本名かは定かではなく。自分の性別すら忘れて、ただ研究を進めては死に、目覚めては研究を進めるだけの、終わりのない人生。
何故研究を続けるかと問えば、この人のためだと胸を張る。ある日唐突に「カヤール博士」になってしまった誰か。取り戻しようもないその人生を、背負わなければなるまいと。
ああ、だから。
だからこの研究所の人は、皆、カヤール博士を甘やかすのだ。少しでも、その果てしない命に苦痛が少ないように。
いつも賑やかなカヤール博士が静かになる瞬間を、七年一緒にいて初めて見た。その日はよく晴れていて、冬の刺すような冷たい風が吹いていた。
「何に名を刻みたいんですか、あなたは」
またとんでもない研究の成果を後輩に譲って、カヤール博士は一人で満足げだった。なるほど、時折ふと姿が見えなくなると思っていたが、屋上の片隅に、博士専用の喫煙所があったらしい。
「それはまだ現れそうにないからね。こうして頑張って研究しているわけだよ」
「宇宙の真理でも解明するおつもりで?」
「まさか。私はただの人間。そんな大層なものじゃあないさ」
カヤール博士は煙草を消して、少し黙った。それから私の顔を見上げて、コンクリートの床のシミを見て、また私を見る。
「墓石だよ」
指先が痛いほどの冷えたころ、ぽつり、と博士は言った。
「もうしばらくは縁がなさそうだ」
その笑顔にとても腹が立ったので、決めた。
私の一生涯をかけてでも、その願いを叶えてやる、と。




