羽化
根拠のない自信に満ち溢れる時間というのがある。
(飛べる)
そう思ったのは本当に唐突だけど、その根拠のない自身と意味の分からない衝動に突き動かされて、僕は空を見上げた。
周囲で一番高いところ。このビルの屋上。そこからなら、飛べる。
エレベーターと階段で昇りきって、高めのフェンスを越えて、飛ぶ。一瞬も躊躇はなかった。誰かの悲鳴が、後ろから追いかけてきていた。
「はっ!?」
目が覚めたのは、いつものベッドの上だった。枕元で、暢気な目覚ましの電子音が鳴っていた。
「空を飛ぼうとする夢を見たんだ」
そういうと、母さんはちょっと困ったように笑った。十六にもなる息子にそう言われたら、誰だって困ると思う。
「父さんに似たのね」
顔も知らない父親を引き合いに出されても、今一つぴんと来ない。
「父さんって、種族何だっけ」
「頭翼族だったわ。まあ、頭が寂しくなるのと一緒に翼も小さくなっちゃったけどね」
え、僕ハゲるの?
「でも、あんたの遺伝子は八割人間なんだから、ほどほどにね。いざって時に翼が出てこないなんて笑えないんだから」
「はぁい」
多分、あれは夢だから衝動が大きくなっただけで、実際は大丈夫だろうと思う。
でも、頭翼なんて使い勝手の悪そうなものよりは、順当に便利そうなESP族とかのほうが便利だろうに、どうして淘汰されていかないのか不思議だ。
夢の中で見たビルの前に立って、僕は屋上を見上げていた。別に空を飛びたいと思っているとか、飛べるとは思っていない。ただの野次馬だ。
一人の自殺志願者が、フェンスのこちらがわに立っていた。もうESP系のレスキュー隊も、普通の緩衝マットも準備されていて、今飛び降りてもどうやっても死ねないだろうけど。何か叫んでいるけど、野次馬の声で聞こえやしない。
何だか無性に、腹が立った。
その人が、ぐっと膝を曲げる。さあ飛んでやろう、と、見せつけるように。僕は周りの野次馬をかき分けて、レスキュー隊が準備したマットに飛び込む。
(あ)
垂直に伸びるビルの上の、自殺志願者と目が合った。
(飛べる)
ばりばりと、何かが裂ける音がする。僕はマットを蹴って、壁に着地した。そのままぐんぐん、屋上から落ちるその人に向かって昇っていく。
(そうか)
落下してきたその人にぶつかって、担いだまま僕は、屋上の更に上へと飛び上がった。遠くに見えるタワーの先くらいまで飛び上がって、ふっと力が抜ける。ビルに遮られて見えなかった夕焼けが、街を照らしているのが見えた。耳元で聞こえる悲鳴すら、今は心地いい。
(皆、飛んでみたいんだ)
飛行機でも飛行船でもグライダーでも、はたまたESPでも、人間が空を飛ぶ方法はある。けれど、それでも空は人間の領域じゃない。翼を持つ種族は、空を許された数少ない存在だ。
だからみんなが憧れる。だから、僕達は、空は自分達の縄張りだと言いたくなる。
開いた翼が、僕達を支える。羽化したばかりの若い羽が、風を切った。
見下ろした街がジオラマのように小さく見えて、僕は、知らず知らず笑っていた。




