キャンバス
小学生の頃なんていうのは、遭ったこともない事件なんて想像できるわけがなくて、何の根拠もなく大丈夫って言い切って、結局好奇心を優先させてしまう。
僕の家から小学校までの間には、山の切通しがあって、当然民家なんてないし見通しも悪い。ただ、学校に行くときは、山のてっぺんを超えて、急な坂を下ればすぐ民家がある。山って言ったって小さいから、子どもの足なら三十秒もいらないくらいだ。
帰りはずぅっとなだらかな道だけど、同じくらい、三十秒も走れば小さな石切り場があって、いつでもおじさんたちが仕事をしている。あと人がいない道といえばずっと田んぼの中の見晴らしのいい場所だから、子どもが一人二人で帰っていても、誰も何も言わなかった。
切通しを抜けた先、緩やかな下り坂の左右には、深い藪がある。小学生が肩まで隠れるような笹藪だ。あるとき、そこに突然、小さな家が建っていた。
昨日まで、というか、朝学校に行くときはなかった。木の葉の隙間から差し込む午後の日が、その家の屋根にだけ当たっていたのを覚えている。
僕がその家に近付くと、丸い柱と薄い板を組み合わせただけの、工作みたいな家だと分かった。三段の階段が、多分、入り口みたいなところにつながっている。けれど入り口のドアノブはなくて、代わりにドアに四角い穴が開いていた。母親にもらった、自分で組み立てる木製の貯金箱のほうが、まだしっかり家の形をしているくらい、簡単な造りの家だった。
僕が見上げていると、ドアが内側に開いて、女の人が顔を出した。ドアを開けたままその人が引っ込んだので、僕はドアから中を覗いた。
中も凝った造りではなくて、外の壁で正方形に囲われて、斜めの屋根があるだけだった。
中にいたのは、一人の女の人だった。正方形の部屋の、山とは反対側の壁には長方形の大きな穴が開いていた。窓というには、ガラスも枠もない。その窓の前に、同じ形の白いキャンバスと古ぼけたイーゼルがあって、筆を持った女の人が立っていた。
絵を描く人だとすぐに分かったけれど、女の人は、目の前にまっすぐ筆を立てたまま、ずっと動かないでいた。キャンバスは真っ白。開いた左手が、苛々したように足を叩いていて、それがなかったら女の人も人形なんじゃないかと思った。
「立ち入り禁止」
どれくらい黙っていたか知らないけど、子どもの僕には随分長く経ってから、その人がそう言った。僕はそれで、ごめんなさいも言わずに出ていった。
次の日の朝、もうそこに家はなかった。登校班の人達に聞いても、誰も見ていないらしかった。
それでも、ドアを開けたときの、ささくれだった板の感触まで覚えていたから、どうしても夢だとは思えなかった。
そんな、小学生の頃のことを思い出したのは、先日、展覧会に行った時だった。まだ無名らしい日本人の絵があって、そこには、見覚えのある風景が、油絵で描かれていた。笹の葉の一枚まで、まるで写真のようなのだけど、確かに絵だと分かる質感がある。
確かにあの小屋のあの窓からは、こんな風景が見えるだろう。僕はあのとき見上げているだけだったけれど。
「それ、新作なんですよ」
あんまり長いことその絵の前にいたからだろうか。そう言って、女の人が僕の横に立った。
「それを見せたい男の子がいたんですけど、どうしてか会えなくて」
そうだろうな、と思った。その人は、昔見たままの顔をしていたから。
それから、その人は僕の顔を見て、あれ、と呟いた。
「その男の子は見れてますよ」
十年と少し経ったけど。
「……そうですか」
その人は、少し考えるような顔をして、ちょっと笑った。




