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愛しき人の子よ

 束になった羊皮紙を持ち上げて、弟子が顔をしかめた。


「師匠、そろそろ掃除しましょうよ」

「いいの、どうせ全部捨てちゃうんだから」


 女性は眼鏡を持ち上げて、新しい羊皮紙をその上に積み重ねる。


「旅に出るなんて、何で急に」

「あら、言ってなかった?」


 弟子を振り返り、女性は一冊の本を差し出す。女性がこの大学の教授になってから執筆した、ある伝承についての本だ。


「黒薔薇の……現存する神様の中でも、伝承があいまいな方ですよね」

「私ね、彼に会ったことがあるの」


 頬杖をついて、女性は懐かしそうに目を細めた。


「だから、いつか探しに行くって決めていたの」


 〇      〇      〇


 その旅人は、夜空よりもなお黒い外套ですっぽりと全身を覆っていた。目深にかぶったフードの奥には、白い半面で隠した顔がある。羽を集めたような形の面だ。腰では、からんと音を立てて、鳥籠型のランタンが揺れていた。くすんだガラスのランタンの中には、真っ赤な薔薇が一輪咲いていた。


「黒薔薇だよ、黒薔薇が来たよ!」


 旅人を見た子供の一人が、そう叫びながら走っていく。仕事をしていた大人も子供も、一斉に家に駆けこんだ。

 いつ誰が言い出したかは知らないが、行商人も遍歴医も、都の学者すら知らない者はいない。漆黒の外套に赤い薔薇のランタン、そして白い羽の面。言葉は通じず、手に触れたものは死ぬ。彼に触れられたものは、彼とともに死者の国へ行くと言う。

 通りに残っていたのは、薄汚れた服の少女だけだった。少女は旅人に駆け寄ると、その外套の裾を掴んで笑みを浮かべる。


「黒薔薇様、私を連れていって」


 待ち望んでいたように、少女は告げた。


「その手で触ったら、死者の国に行けるんでしょう? そこにきっと、おとうさんもおかあさんもいるんでしょう? ね?」

「……ウラヲトコ……」


 旅人は手の甲を少女の額に当て、ぐい、と少女を引き離した。


「それ、かみさまの言葉?」


 はあ、と旅人は一つ息を吐き、足を速めた。少女は外套を掴んだままでその後を追う。家に引きこもったままの村人たちが、じっと窓からその様子をうかがっていた。



 鍵のかかっていない戸を押し開けると、村長は悲鳴を上げて床に額を擦りつけた。


「どうかお見逃しください、黒薔薇様、ここは貧しい村です。働き手はもちろん、女子供を連れ去られてもたちゆきません。どうかお見逃しください」


 旅人、黒薔薇はふいと村長から視線を逸らし、家を出る。家の裏手には家畜小屋があった。黒薔薇は、小屋の隅で眠っている山羊の前に片膝をつく。


「その子を連れていくの? 痩せていて具合も悪そうなのに」


 相変わらず外套を掴んだままで、少女は首を捻る。黒薔薇は山羊に右手を差し出した。

 眠っていた山羊は、重たそうに頭を挙げると、黒薔薇の手に顎を乗せて目を閉じた。上下していた腹の動きが次第に小さくなり、やがて止まる。


「……死んだの?」


 少女の問いには答えず、黒薔薇は立ち上がった。



 日暮れ近くに黒薔薇が入った家では、幼い子供が横になっていた。両親は黒薔薇を見るなり、青ざめて子どもの前に立ちふさがる。裾を掴んでいた少女は、すっかり静かになってとぼとぼとついてきていた。


「黒薔薇様……」

「まだ! まだ息子は生きていますから! 少し風邪が長くなっているだけで」

「…………」


 黒薔薇は両親越しに子どもをじっと見据える。背後に立ち、少女はごくりと唾を飲んだ。


「……まだ助かる」


 そうつぶやいた声が黒薔薇のものだと、少女はすぐに気付けなかった。黒薔薇はフードの奥に手を入れ、ぐいと仮面を持ち上げる。と、フードが落ちると同時に、漆黒の外套が白くなった。鳥の羽ばたきのような音が、狭い部屋に響く。白い半面は掻き消え、一歩踏み出すころには、手袋を含む全身が白くなった黒薔薇がいた。


「俺に診せろ。それから水を釜にうんと沸かせ」


 今にも膝から崩れ落ちそうな両親と相対し、黒薔薇は口元に布を巻いた。


「俺は医者だ」



 日が落ちてまた昇るまで、少年の傍らで、黒薔薇は黙っていた。少年の枕元には、黒薔薇が持っていた深紅の薔薇のランタンが置いてある。

 窓から朝日が差し込むと、少年は眩しそうに顔をしかめた。と、枕元のランタンの中で、薔薇が、傾いでいた頭を持ち上げる。まるで摘んだばかりのようにしゃっきりと背を伸ばし、花びらの間には露すら見えた。


「峠は越した」


 黒薔薇はランタンを持ち上げ、白い外套の内側に入れる。


「今日は何も食べさせるな。明日になったら粥をうんと煮たものを」


 黒薔薇は立ち上がり、はっとして顔を上げた両親に視線を落とす。


「納屋を借りる」


 降ろしていたフードで顔を覆うと、外套と髪はまた漆黒に染まった。


「……レサセン」


 白い面の奥で目を細め、黒薔薇はさっと踵を返した。両親は少年に近付き、穏やかに寝息を立てている少年を見て脱力する。

 黒薔薇は家の裏手に回り、納屋の戸を押し開けた。農具や収穫した野菜の横に、干し草がうずたかく積まれている。黒薔薇は干し草の山にもたれかかると、少しもせずに寝息を立て始めた。



 三日が過ぎた。

 村から少し離れた街道に出れば、大きな街までは半日も歩けばつく。花冠が供えられた犬の墓をわき目に、黒薔薇は街道へと向かった。


「黒薔薇様っ!」


 それを引き留めたのは、甲高い少女の声だった。


「あの、私っ……」


 用意していたはずの言葉が、いざ口にしようとすると出てこなかった。


「私……」


 外套を掴もうと伸ばした手を握り、少女は俯く。三日前のように、連れて行って、と気安く言えなかった。


 安らかな死に、それでも恐怖する男がいた。ようやく訪れた死に涙する老人がいた。

 命の淵から這い上がり、恋人と抱き合って泣く女がいた。死にたくないと縋りつく青年がいた。


「……私は……」


 三日間見つめていた黒薔薇は、確かに、死を与えていた。けれどそれは、少女が思うようなものでは、決してなく。

 大人が駆け寄って少女の肩を掴むまで、黒薔薇は黙っていた。

 外套の間から出た手が、少女の頭に乗った。ひゅっ、と少女は息を飲む。だが黒薔薇は、空いた手でフードを降ろし、日の光が差す中ではじめて、その顔を晒した。


 精悍な青年だった。右目は血のように紅く、左目は翡翠色。手入れされていない黒髪の毛先は透けている。風に揺れる長い前髪の下で、その双眸は宝玉のように鮮やかに光っていた。


「命は」


 言葉を探すように、ぽつり、と黒薔薇は告げる。


「ひとり、ひとつ。誰に譲ることもできない。お前の命は、お前の、命だ。生きたがっていた誰かのでも、死にたがりの誰かのでもない」


 風が、黒薔薇の外套を揺らす。白い外套は、雲間から差す日の光を反射した。


「……また会える?」


 少女が言うと、黒薔薇は手を引き、薄く笑った。


「お前が善く生きるのであれば」


 それは、穏やかな笑みだった。


「愛しき人の子よ。俺達は、お前達の足跡、視線、吐く言葉。その全ての先にいる」


 フードと仮面に隠れる寸前、黒薔薇はその笑みにもの悲しさを滲ませた。

 黒薔薇が街道の向こうに見えなくなっても、まだ少女はその場に立ち尽くしていた。

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