桜の森
小さいころは世界が広いものだと、言ったのは誰だったろう。
分からないことばかりの世界で、歩いて十五分のその河は、私が一人で行ける一番遠い場所だった。けれど親は、何度も何度も、河を渡ってはいけないと私に言った。
河のこちらには立派な桜並木があった。鮮やかな桜色がいつも空を覆っていた。私はそこに行って、ぼんやり、河向こうの道を歩く人影を眺めていた。
それだけの日々が、しばらく続いた。
灰色の服を着た男が、河向こうから、じいっとこちらを見ていた。けれど、河の瀬と淵を見て、はあ、と息を一つ吐いて去っていった。河の瀬はいつもざあっと音を立てて、桜の花びらをあっという間に流してしまう。河の淵はくろぐろとしていて、底なんか見えたためしがない。
次の日も、灰色の服の男は来た。河向こうからじいっとこちらを見て、瀬に爪先をちょんとつけて去っていった。
次の日も、灰色の服の男は来た。丁度、私のそばをかんらかんらと下駄を鳴らしてお隣さんが歩いて行ったのだけれど、男はそのお隣さんを見て、顔を真っ青にして去っていった。足首まで濡れていた。
次の日も、灰色の服の男は来た。今日は膝まで瀬に浸かった。けれどやっぱりそこで、諦めて引き返していった。根性なしめ、と私の後ろでお隣さんが毒づいた。
そんな日が十日続いた。
河向こうで、灰色の服の男が、白い服の女に花を貰っていた。それから灰色の服の男は、道を歩く人影の一つに戻った。ついにこちらに渡らなかったその男を、お隣さんはやっぱり根性なしめと鼻で笑った。
少し前のこと。
母方のいとこが帰ってくると言うので、土産物を頂戴しようと会いに行った。
客間の上座に、私の頭ほどの分厚さの座布団が置いてあって、そこに、白くて飾りっ気のない骨壺がでんと一つ乗せてあった。おにーさん、と呼びかけると、骨壺はかたんと倒れた。外れた蓋の内に、私の拳ほどの大きさの白い石が入っていた。母はそれを拾って骨壺に戻して、焼かさっちゃったのね、と言った。
蓋をきちんと紐で結んで、持ちなさいねと言われたので骨壺を抱えた。両手で頭の高さまで上げて振ってみた。からんからんと音がした。
骨壺を持ったまま、母に手を引かれて桜並木まで行った。河向こうで、瀬に足を浸して座っている女がいた。青い服の女がこちらを見たので、私は、えいや、と骨壺を女に投げた。ひゅうんと飛んだ骨壺は河原で割れて、跳ねて飛び出した中身が淵へと落ちた。
女はその間に淵まで行って、両手で落ちたそれを拾った。女が水から上がると、白くて軽かったそれはぴかぴか光っていた。女は私に頭を下げて、大急ぎで道に戻っていった。
母には引っ叩かれた。
いつものように川辺をぶらぶら歩いていると、河のこちら側で、酒の一升瓶をラッパ飲みしている男がいた。黒い服だった。河原の土手に横になって、空になった酒瓶を逆さにして、口にぴたりと付けている。私が酒瓶を引っ張って外してやると、黒い服の男は瀬に顔をつけておいおい泣いた。背を押してやると、せっせと泳いでいった。
けれども喜び勇んで上がった河原は随分と寒かったようで、男は道まで這いずって行って、それでもガタガタ震えていた。そんな男を人影の一つが蹴飛ばしたので、男はぐるんと回ってまた河まで落ちてきた。今度はそのまま流されていった。
いつか見た灰色の服の男が、河の向こうに立っていた。私を見て手招きするので、きっと私が見えていたのだと思う。
いつか見た青い服の女が、河の向こうに立っていた。私をちらと見て道に戻っていったので、きっと私が見えていたのだと思う。
私の隣で、お隣さんが私の背中をどんと押した。お隣さんは気のいいひとだけれど、いつも手が黒々と汚れていて、それに触られるのが嫌だった。
私はころんと河原に落ちて、手の先が瀬に浸かった。お隣さんは力が強いので、加減ができなかったのだろう。
元の桜並木を見上げると、鬼灯の提灯を持った母が、私に手を振っていた。
ざっと風が吹いて、まばたきをひとつ、もう一度、私は母だと思っていたものを見る。桜並木の木々の間に、橙の燈がずうっと並んでいた。
柏手が一つ。二つ。三つ。四つ。
「鬼さんこちら」
私の足は瀬に浸かっていた。私を突き飛ばしたお隣さんの、ぽっかり開いた胸の穴に、銀色の月が浮かんでいた。桜並木は、相も変わらず風に揺れて、橙の燈の上にある。首を抱えた姉さんと、髑髏を背負った兄さんが、私に手を差し出していた。
私はそれに背を向けて、河向こうへと泳いでいった。
「鬼さんこちら」
淵を超えると、体がぐうんと重くなって、灰色の服の男が私を抱き上げた。
その後のことは覚えていない。
『お昼のニュースです。十五年前に行方不明となっていた小学一年生の女の子の遺体が発見されました。遺体は死後半年程度と見られていますが、身に着けていた衣服や持ち物などは当時のままでした。警察では、遺体が本人かどうかの確認を急いでいるとのことで……』




