オレンジジュースの透塀
朝。
目覚時計の鐘と共に布団から重い体を起こすと、傍らから紙を擦るような音が聞こえた。
視点を動かせば、魔導書が図鑑を読んでいる。
僕は帰宅後、番組を見つつある程度課題を済ませ、あっさりと就寝したのであるが、魔導書の奴は夜中、じっと本を読んでいたようであった。
本が本と向かい合って本を読んでいるのは中々に不可思議な光景である。本がお互い頁を開いて、ハラハラと捲っているのだ。まるで本と本が会話しているようであった。
「君は本が好きなのだね」
『然り。知識とは宝である。得て損のないものだ』
本が言うとなんとも説得力のある。
しかし僕は、魔導書が知識を得ると頁と記述が増えると幻想を抱いたのであるが、当の本から否定されてしまった。
魔導書それ自身は記録媒体である癖に、記憶媒体ではないようであった。
「そういえば、昨日は直ぐに寝てしまったのだけれど、魔力について教えてくれるんだっけ」
『急くことでもあるまい。機会に応じて一つずつ教えてやろう』
実のところ本を読むのに集中したいだけではないか。果たして真意は当の本のみが知るところである。
「僕はこれから朝食をとって学校に行こうと思うのだけど、君は? 僕が帰るまでそのように本を読んでいるかい?」
『いや。我も一緒しよう。我は白米よりも麵麭が好みだ』
僕は押し黙る。今しがたの会話を整理するに、しばし時間が必要であった。
「君は食事をするのかい」
『生物である以上当然であろう。なんだ、食が要らぬと思っていたのか』
生物であるのだろうか。確かに原材料は生物由来であると思うが。
『聖太郎。それは本権の侵害だ。衣食住を満たすのは基本的本権であるぞ』
「本権。」
『凡そ全ての憲法は最低限度の生活を営む権利を保証している。それを犯すのは聖太郎、大罪だぞ』
どうやら僕は気づかぬうちに大罪を犯していたようである。どこに向けて陳謝すれば良いのだろうか。国立図書館に頭を下げて、幾らかの恩赦は頂きたいところである。
白米を既に炊いていたのであるが、魔導書は麵麭を所望である。仕方ないので棚から未開封の食パンを取り出し、一枚トースターで焼く。
適当に卵を焼いて、皿に載せる。僕は醤油をかけるのであるが、念の為食卓には塩胡椒も置いておいた。
冷蔵庫から、黄色い液体の詰まった水差しを取り出す。プラスチックでできた水差しだ。
不透明な黄色の正体はオレンジジュースなのであるが、残念ながら僕はその気分ではないのであった。
僕は水差しを爪でコツコツと叩きながら、説得する。
「なあ、今朝は麦茶の気分なんだ」
しかし水差しはスンとも言わぬ。
僕はまたコツコツと叩く。
「大体昨夜入れたのは麦茶のパックじゃないか。あんまりだ」
しかし水差しの中で波立つのは、ここぞと黄色い果汁百パーセントである。
フレッシュだ。
「頼むよ、朝からそんな酸性の液体を入れたら、僕の繊細な胃壁が驚いてしまう」
しかし水差しは毅然とした態度でオレンジジュースをたくわえている。
どうしたのだろう。今日は中々に強情だ。
見兼ねて魔導書が声をかけてくる。
『聖太郎。気が触れたのか、そのような入れ物に喋りかけて』
心外だ。喋る本に言われたくはない。
「こいつは水を入れても麦茶を入れても、朝にはオレンジジュースになっているんだ。百パーセントのキツイやつだ。いつもは三回も説得すれば折れてくれるのだけど」
今朝は折れる気配がない。一体何が原因だろうと、そこまで考えてはたと気付く。
「そうだ。魔導書のせいだ」
『我か? 何故』
「この水差しはオレンジジュースが大好きなんだ。だから矢鱈と他人にオレンジジュースを勧めてくる。僕はいつも断っているのだけれど、今日は君という客がいるから、飲んでほしいのだろう」
僕は棚から一つグラスコップを取り出すと、本の前にコトリと置く。水差しを傾けて並々とオレンジジュースを注いでやった。
「つまり君が飲んでくれれば満足するということだ、この水差しは」
『飲めというのか我に。冗談ではない。紙が酸化してしまうであろう。染みになる』
パンと卵焼きでは酸化しないのだろうか。余程、染みになりそうだが。
「しかし君が飲まねばこの水差しは納得しない」
『強情な水差しだ』
偏屈な喋る本は唸った。
『大体どっちなんだ、その水差しは。オレンジジュースが好きなのか、オレンジジュースを他人に薦めるのが好きなのか』
「どっちって、両方なのだろう?」
オレンジジュースが好きだから、他人に薦める。酷く単純な理屈ではないか。しかし魔導書は首を振る。無論比喩である。
『オレンジジュースが好きならば、オレンジジュースを飲めば良い。他人に勧めたからと言って、自分の胃には一滴も入らぬだろう』
「それは……」
言われてみれば、確かにそうであった。
「しかし、其の人がオレンジジュースを好きになれば、きっと一緒に飲むこともできるだろう。或いは、其の人が飲んだオレンジジュースの感想でも言ってくれれば、それは嬉しくなる。好きな物を分かち合うのは嬉しいものだ」
『それで、其奴がオレンジジュースを飲まねば怒るのか。又は其奴がオレンジジュースを嫌いになれば臍を曲げるのか。果たしてそれは純粋に、オレンジジュースを好きだと言えるのか』
僕は押し黙った。自分はオレンジジュースに固執はないが、例えば漫画に置き換えればどうであろうか。否定はできない。或いは前者に関しては、この水差しの現状をよく表現していたのであった。
「では『好きな物を分かちたい』という気持ちと、『人に薦めるのが好きだ』という気持ちは、どう判別すればいいと考える」
『簡単な話である。オレンジジュースでは馴染みがないから、好きな小説でもいい。人に薦めて、其奴が「持帰って読む」と答えたとしよう。その時点で貴殿が満足すれば、後者だ。未だ其奴が読むかも好くかも分からぬ内なのだから』
「だが小説を薦めて、読まれれば、それだけで作者にとっては利だろう。つまり彼を敬愛する、僕にとっても利だ」
『ああ、小説を例にした我が悪かった。我はもっと本質的な話をしている』
「本質とは」
そこで僕は口を噤んだ。
「朝方にする話じゃない。遅刻してしまう」
『残念だ。滅法楽しかったのであるが』
確かに魔導書はよく話にノッていた。僕はそれに嘆息して、水差しに目を向けた。これだけ時間が経てば諦めるかと思ったが、水差しの中にはオレンジジュースがある。
「大分意固地になっているようだ。諦めよう」
『待て、我は諦めぬぞ。黄ばみたくない』
もう随分と古びて黄ばんでいるのだが、この際言わないでおく。
僕はまたコツコツと水差しの壁面を叩いた。
良心が痛むが、最後の手段だ。
「やい強情な水差しよ。このままだと捨ててしまうぞ。本当に本当だ」
僕は高く掲げ、底面の印字を見る。
「プラか。土曜日かな」
すると今までの時間は何であったのか、水差しのオレンジジュースは水を打ったように、透き通った褐色の麦茶に変わったのであった。
僕はコップに麦茶を注ぎ、魔導書と僕の前に置く。
麦茶では黄ばまないのだろうか。
「あっさりと折れたね」
『ふん。所詮は意地になっていただけであろう。己の命よりは余程軽かったのだな』
随分と辛辣な魔導書と、カーテンより漏る朝の日差しであった。