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私は先輩が好きだ

作者: 青川赤

 私は先輩が好きだ。


 はじめて直接、先輩にそう伝えた時。先輩はとても困っていた。突然の私の告白に驚いていた。それどころか、失礼なことに私が何かの罰ゲームのせいで告白してきたのではないかと心配までした程だ。


 よれよれのシャツに、飾り気のないジーパン。剃り残しの髭が一本ぴょこんと飛び出していて、その瞳はだらしなく右へ左へ逃げ回っていた。


 想像もしていなかった。


 そう言いたげな表情だった。


 と言っても、もし本当にその本音を言ってしまえば、私がどんなに不機嫌になるか分かっていたのだろう。それを慮ったのか、それとも機嫌を悪くした私に文句を言われるのが面倒くさかったのか。


 先輩は内に抱えた多くの本音をぐっと飲み込んで、建前で頷いた。


「ど、どうもありがとうございます」


 男らしさの欠片もない、腑抜けた返事だった。その言葉を聞いて私がため息をつき、肩を落とす。露骨に失望した感情を表に出すと、先輩は慌てて平謝りしてきた。


「ご、ごめん。もしかして何か気に触ったか?」


「そうですね。先輩の存在そのものが気に触ります」


 向こうがせっかく建前を建ててくれたというのに。私はそれを真正面から崩壊させる。目下のところ「建設中、立ち入り危険」の先輩の建前を支柱から引っこ抜いてやった。


 ざまあみろ。


 崩れ落ちる瓦礫の下敷きになった先輩が苦しそうに呻く。


「さっきと言ってること違くない?」


「そうですか?」


 違くない。どっちも本音だ。本音だもん。


 先輩の発言も、大学生にもなって締まりのない服装も、他人のことばかり気遣って顔色を伺うようなその目つきも、何もかもが気に触る。


 でも。


 それでも。



 私は先輩が好きだ。



 ◆◆◆◆◆


 私は朝が嫌いだ。


 窓のカーテンの隙間から覗く陽の光を見るだけで気分が悪くなる。不愉快な眩しさで胸がムカつく。別に落ち込んでもいないのに励まされているみたいな眩しさに頭痛がしてくる。柔らかい布団から抜け出さなくてはいけないという義務感には、生皮を剥がれるような苦痛さえ感じた。


 これから一日が始まる重要な時間に、私の気分を害したという重すぎる罪の償いはどう立てるのだ、と毎日問いただしてやりたいほどだ。ああ本当に、朝が嫌いだ。


 私はのそのそと、芋虫のようにだらしなく布団の中から這い出る。名残惜しそうに、私の体温でホメオスタシスを保つ安息の揺りかごを何度か見つめてから、ようやっと諦めがついて私は体を起こした。


 おのれ朝め。覚えてろ。


 それから寝ぼけ眼を擦りながら部屋の扉を開け、洗面所へと向かう。そのために私がドアを開けた途端。


「きゃっ」


「アレ、ねーちゃん! ごめんごめん」


 騒がしい隣の部屋の住人が不注意にも飛び出してきて、私の目の前すれすれをかわしてダイニングの方へと走っていく。


「飛び出すな。私は急に止まれない」


 私とは対照的に、朝からなんとも元気なことだ。鬱陶しい程の明るい声音をしたあいつの背中を恨めしげに睨みつける。


 弟だ。愚弟だ。


 朝からあんなに元気に走り回れるなんて、全く気が知れない。あいつは朝が嫌いじゃないんだろうか。


 昔はよく畳の上でうずくまりながら、きっと弟はお日様の子供で私はお月様の子供なのだ、などとバカバカしい妄想に浸っていたものだ。



 私は朝の自分が嫌いだ。


 相変わらず酷い顔をしている。髪の毛は所々跳ね上がり、頬は浮腫んでまるで某子供向けの菓子パンをモデルにしたヒーローみたいになっている。カサついて血色の悪い唇や、潰れたみたいに細くなっている目元など見るに堪えない。


 あ、目くそついてる。


 私は憂鬱な気分になりながら顔を洗う。念入りに、余計な水分をこそぎ落とすように顔を擦り、ほぐして行く。頬っぺたをぐりぐりと捏ね、下まぶたを引っ張り、耳の後ろから鎖骨にかけて指の腹でさすってやる。


 どこに行ったんだ。早く帰ってこい、可愛い私。


 やがて一定の成果が得られたと判断すると蛇口を止め、タオルで顔を拭く。今度は、夜の間に張り付いてしまった不細工な仮面を残さず剥ぎ落としてやるのだ。そうして何とか、見れなくもない顔が鏡面に現れてから、私はパジャマのボタンに手をかけた。


 頭に回る血の量が確保され、ようやくまともな思考回路になりはじめた私は、そこで段々と昨日のことを思い出す。そして、洗面台に両手をつくと、大きくため息を漏らした。


 あ〜、なんであんなこと言ったんだろ。ホント頭悪いなぁ。


 昨日の嘆くべき失敗、トラウマ、赤っ恥。それらを思い返して深く後悔するのが朝という時間なのだ。寝覚めが悪い、なんて人は言うけれど、今日の寝覚めは正しく最悪だ。



 私はシャワーが好きだ。


 正確に言うならばシャワールーム、お風呂場という空間が好きだ。


 私の汚れた全身を、包み込むような温かいお湯が洗い流してくれるから……というわけではない。いや、勿論それも好きなポイントだ。


 しかし、何より素晴らしいのは、シャワールームでは一人でいられるということだ。余程のことがなければ、私がシャワーを浴びている時、そこは私だけの空間だ。私の王国だ、何でも出来るのだ。


 いくら分別のない私の弟も、シャワールームにまでずかずかと踏み入ってくるような真似はしない。ここには誰もいないのだ。


 お節介な女子も下品な男子も、不潔な教授も優しい義父も、空気の読めない弟もご機嫌伺いな先輩も。


 ここにいるのは素っ裸の、何も身につけていない私だけだ。


 こんなに素晴らしい楽園があるだろうか。もし叶うなら一日中入っていたいとさえ思える。ここから一歩でも踏み出せば、他人との境界すら曖昧なおぞましい魔境が待ち受けている、なんて表現も私にとってはあながち誇大ではない。


 それでも時の流れは無情だ。やがて、それに追い立てられて私はシャワーを止めなければならない。髪の毛や指先から水滴が滴り、シャワールームの扉を開ければ新鮮な空気が、濡れた私の体をヒヤリと冷ます。


 タオルを頭に巻き付けながら、私は大魔境へと一歩踏み出したのだった。



 コーヒーは無糖が好きだ。


 気取っていると思われるかもしれないが、これは本音だ。微糖では味が中途半端すぎて、甘さと苦味が調律なく混ざりあったごった煮のような感覚を覚えるし、多糖はそもそも、それならココアを飲む、と言いたくなる。


 思うに、元々砂糖の甘味はコーヒーには合わないのだ。甘さを摂取したいなら、コーヒーとは別にハチミツたっぷりのハニートーストを食べればいい。今日の私のように。


 こういう部分は私は、かなり神経質で面倒である。そんな面倒な性格をよく理解しているので、義母は私にコーヒーを出す時は必ず無糖をチョイスするが、もし彼女が誤ってそこに砂糖を入れようものなら、私の「朝のご機嫌メーター」は勢いよく左に振り切れることだろう。


 シャワーから上がった私は入念に髪を乾かして歯を磨き、一度部屋に戻ってから着替えを済ませた。フリルのないシャツの上に黒のニット、下にはチェックパンツを履いて、それから化粧水と保湿用のクリームだけを応急処置的に肌に塗り込む。


 下の二つの工程を私は化粧とは呼んでいない。


 これは外出するために踏まなければならない必要最低限な段取りの一つであり、言わば着替えの一種なのだ。カサついた朝の肌に、潤いを「着る」のだ。


 そして、そんないつもの着替えを済ませてから朝食をとるためにリビングへと降りてきた。



 私は朝のニュースが嫌いだ。


 ただでさえ憂鬱な朝に、唯一の救いと言っていい大好物のハニートーストを頬張っていると言うのに、無機物の箱の向こう側からどこの誰とも知らないおじ様おば様が好き勝手に喋っている様を見せつけられるのは苦行だ。


 増してやネガティブなニュースやら、政治がどうだ、不倫がどうだなどと言う情報をだだ流しにされても、そこまで世界を広い視野で見れるほど、こちとら余裕がある訳では無い。


 もちろん「今どきのイケメン俳優特集」みたいなイカした番組を組んでくれるのなら画面に食い入るのもやぶさかではないというものだが、そんな気遣いは滅多に見られない。


『本日、丸田四角容疑者の最高裁が執り行われます。丸田容疑者は一昨年の四月、六本木のミッドタウンで〜』


 私のハニートーストを邪魔するな。この陰鬱な社会の写し鏡め。


「いよいよ最高裁か。長かったな」


 しかし、朝のニュースが好きな変わり者もいる。そんな人間たちのために、これは必要なものなのだと私は知っている。私のテーブルの向かいに座った義父もまた、「そんな人間たち」の一人だった。


「まあしかし、流石に死刑は覆らんだろうな。全く往生際の悪い」


 既に出勤用のスーツに身を包んだ義父は、その灰色の画面を、何が面白いのか興味津々に見つめてバタートーストを齧りながら独白している。


「そういえば、大学の方はどうなんだ」


 と、テレビを眺めていた義父が、不意に私に雑な方針転換をしてくる。私はまだまだ残っているハニートーストを契りながら、彼に目をやった。


 またこれだ。


 私はその、もういく度目になるか分からない義父の質問に内心でうんざりした。彼は一週間に一度はこの質問をしないと死ぬ病にでも罹っているのだろうか。それしか話の種はないのか。


 そんな他愛のない話題を繰り返し使ってまで私と話がしたいのだろうか。それともまさか、この前も同じ質問をしたことを忘れているだなんてことはないだろうな。


「普通」


 ぶっきらぼうに答えると、義父はもう半分になったトーストを頬張りながり苦笑いする。


「勉強の方はついていけてるのか?」


「ん〜、まあまあかな」


 嘘だ。勉強なんかしていない。大学の講義に顔を出すのは惰性だし、仲のいい友達と話してばかりで教授の話なんかろくに聞いてない。そもそも、大学生にもなった娘に対して尋ねる分野が「勉強」であるということ自体が無粋だ。本気で私が、この年代の女の子が勉強などという窮屈なものに興味を注いでいると思っているのか。


 ……なんて本音を言うわけにもいかない。とは言え明るい笑顔で、うん、勉強大好き、などと白々しい嘘をつく気にもなれないので、私は当たり障りなくいつも通りの答えを返すのだ。


「そうかそうか。まあ大学の勉強なんてな、留年しない程度にやっておけばいいからな」


「うん」


 別に義父のことは嫌いではない。寧ろ好感を抱いている。たまに二人で買い物に行く時もあるし、映画だって見るし、誕生日や父の日には、似合わないプレゼントだって贈る。そのプレゼントを上機嫌で使っている彼の姿も好きだ。


 でも、あけすけに好意や感謝を伝えるのは苦手だ。下らない、取り止めもない話にもノリノリで返事をしたり、やけに猫なで声で媚びへつらったり、自分の誕生日プレゼントをねだったり。もう、そういうことはできない。


 そこが、友人などに感じる好意とは別物なのだという事実を私に教えてくる。年齢のせいなのか、それとも彼が実の父親ではないからなのか。


 否、多分違う。私のこのひねくれた性格のせいだ。いつからか私は、嫌いなものを声高らかに叫ぶことは得意になっても、好きな物を素直に表現することに億劫になった。


 口癖は「大丈夫」「別に?」「普通」「なんでもいい」だ。救いようがない。


 義父は私の短い返事を聞くと、トーストの最後の一口を食べ終えて食器を持って立ち上がる。それから繕うように最後に、


「まあ、体調を崩さないようにな」


とだけ言って、席を外して台所の方へと向かって行った。



 私は朝が好きだ。


 憂鬱な一日の始まりの瞬間、その不躾な光は大嫌いだが、この場に立ってはじめて私は、ほのかに胸の高鳴りを感じる。この瞬間は朝にしか訪れない。時たまに休日に昼まで寝坊してしまった時には決して味わえない感覚だ。


 朝食をすませた私は部屋に戻ると、鏡を前にさっさと面倒なメイクと髪のセットをすませてから、靴下を履いて掛け鞄を手に取り、部屋を後にした。


 今日はチークの調子が悪かったな。昨日よりブスになったかも。


 誰もそんなことは気にしないだろう、という楽観と、もしも突っ込まれたらどうしようという不安。悪い所ばかりが目についてしまうのも嫌な癖だ。


 親孝行な弟は、愚弟のくせに優秀な進学校に合格したが、家からは少し離れた立地にあるらしく、私がシャワーを浴びている時には朝食を済ませ、そして私が出発する時間にはもう家にいない。その後を追うようにして父が出勤して、一番遅れて家を出るのが、不精者の私だ。


 大学生だから、遅刻に怯えることもない。とは言え、欠席が常態化すると一日のルーティンや体の調子にも悪影響を及ぼすと思い、一応は毎日ちゃんと登校するようにしている。登校さえしてしまえば、後はキャンパスでどう過ごそうが、授業を切って街のカフェに繰り出そうが全ては自由だ。


 ああ、今日は一体どんな一日が待っているだろう。


 私は二足分の靴が無くなった玄関に立ち、そんな小さな期待を胸に抱く。例えその先にいつも通りの退屈な毎日が待っていたとしても、私はこの期待を忘れることがない。


 お気に入りのスニーカーを履いて、つま先で床を軽くつつくと、ドアノブを握りしめて私は一歩踏み出した。


「行ってきます!」


 そう、この感覚は朝にしか味わえないものだ。



 ◇◇◇◇◇


 音楽を聞くのは好きだ。


 通学のためにバスに乗っている間、私は大抵イヤホンをつけて自分の好きな音楽に没頭している。今日もつり革に掴まりながら、窓の外を流れる変わり映えのない景色を見つめて、お気に入りのボーカルに聞き入っていた。


 だから、途中のバス停であの人が乗り込んで来たことにも全く気がつかなかった。


 とんとん。


 控えめに、ちょうど気色悪いくらいの強さで肩を叩かれる。


 痴漢か!?


 私は過剰な防衛本能で、思わずその痴漢、もとい自分の肩を叩いてきた人物を鋭く睨みつけた。こういう時の目つきの悪さには定評がある。


 しかし、あろうことかそこにいたのは……。


「……痴漢?」


 ではなくて、先輩だった。目下私の悩みの種となっている、この冴えない男だ。


「失礼だな」


 先輩は私を見下ろしながら苦笑いする。


 その姿を見て、私は不本意にも胸を高鳴らせた。


 瞳孔が開き、心拍数が上がり、もしかしたらほんのり頬っぺたが上気してしまったかもしれない。なんなら心の中で、いいことあんじゃん、なんて思わず考えてしまったほどだ。


 その低い声。高い身長、優しそうな瞳に人の良さそうな笑顔。ああ、またそんなダサいパーカーなんか着て。髭は綺麗に剃っているみたいだけど。あ、寝癖発見。


 私はほとんど一瞬にして、目の前に立つ男の概要を確認する。こんなにも気分が高揚するのは、耳元から流れる楽曲がたった今、サビメロに入ったからだろうか。


 いや、違う。


 私は先輩が好きだ。


「ごめんなさい、急に肩を触られたからびっくりしちゃって」


「ごめんごめん、音楽聞いてたからさ」


 なはは、と笑う先輩。相変わらず締りのない笑い方だ。面白くもない話題にもそうやって無理に笑ってきたから、いつしかそんな笑い方になっちゃったんだろうな。


「そういえば先輩とは同じバスでしたね」


「うん、よく見かけるよ」


「ホントですか? 声かけてくれればいいのに」


「いっつも音楽聞いてるからさ。なんか話しかけづらくて」


「じゃあ何で今日はわざわざ?」


「えっ、それは……」


 そこで露骨に先輩が口ごもる。視線を私から逸らして、モジモジとなんだか言いづらいことを考えている様子だ。


 あーやっぱりな。


 やっぱり先輩は昨日のことを考えているらしい。昨日のあの、告白というにはあまりにお粗末な、私の大失態のことを。


 忘れてるわけないか。


 不味かった。ヒジョーに不味かった。こっちとしては蒸し返して欲しくない黒歴史である。それもつい昨日のことだ。


 しかしこの男のことである。そんな乙女心に気を使うなどという器用な真似が出来るわけあるまい。むしろ私の姿を見て、無神経にも何らかの期待を抱いていたであろうことまで想像できる。心の底からムカつく話だ。


「あ、あのさ!」


 私が一人で考えに耽りながらガンを飛ばしていると、突然先輩が背筋を伸ばして言ってくる。


「あ、あの! 良かったら今日さ、ご飯でも……その、い、行かない、かな……?」


 恐らく彼なりに、精一杯自分を奮い立たせたのだろう。勢いに任せて口走った威勢のいいセリフは、後半になるに連れてどんどん萎れて行ってしまう。最後にはすっかり自信をなくした惨めな男が佇んでいた。


 この男は本当に不器用だ。



 ◆◆◆◆◆


 大学の授業は退屈だ。


 教壇に立った学問の虫のような小汚いオヤジが、講義と称して得意げに自分の知識をひけらかしている。実際にそれを聞いている人間は少ないが、彼らにとってはそんなことはどうでもいい。報酬の引き換えとして講義室に縛り付けられている時間を使い、目の前の学生の無知と若さを堪能すればいいのだから。


 時たまにイケメンや綺麗なおじ様講師もいるが、そういう奴らに限ってこと更に変人だし、どことなく視線に危ない光を宿していて余計に幻滅してしまう。いわゆる「ワンチャン狙い」と呼ばれる下心が透けて見えるのだ。


 ちょっと外見がいいからといって勘違いも甚だしい。お前らなんかそこら辺の草に止まってるバッタ以下だぞ。


 私は、そんな退屈な講義を後ろの席で、仲のいい友達と世間話に興じながらやり過ごすのだ。


 特に一緒にいるのは四人。


 構成としては、顔は抜群なのにキャバクラでバイトをしてる不届き者、ヤリサー所属の飲み会が大好きなパリピちゃん、大学に入ってソッコーで男を作った挙句延々と惚気話をしてくる脳内お花畑、それから、この中では比較的真面目で私と一番気の合う一浪生。


 中々の曲者揃いだ。


 まあ、どいつもこいつも親友と呼ぶには烏滸がましい、大学で出会った浅い仲の関係だったが、一度できた繋がりを断ち切ってまで他に縁を探すのも億劫なので、そのままここに収まっている。


 授業中の雑談では、それぞれが言いたいことを言い合うので中身はめちゃくちゃだ。昨日の客がどうだの、一コ上のカップルが喧嘩別れしただの、最近の彼氏とのセックス事情だの、歴文Ⅰのセクハラ講師がこっちを見ていただの。


 正直そのどれもがどうでも良かったが、私は作り笑いで彼女らの話に乗っかる。少なくとも退屈な講義を聞いているよりは、こちらの方が大分気楽だった。


 そうして私は時が過ぎるのを待つのだ。



 一日の講義が終わった。いつも通り、何事もなく。ただ90分の間雑談を続け、最後にリアクションペーパーに名前を書き込む。あまりにも単純な作業を繰り返しただけで。


 これにお金を払っているかと思うと不釣り合いな気もしてくるが、世の中合理だけではままならない。結局私は、十代も終盤に差し掛かったこの時期の貴重な一日を、またも無駄に消費してしまったのだった。


「ねえ、この後駅前に新しく出来たタピ行こうと思うんだけど」


「あ、いいね!行こ行こ」


 最後の講義が終わり、席を立ったキャバ嬢がそう言うと、パリピが真っ先にそれに頷いた。そして私たち三人の方に目を向けてくる。


 お前らはどうする? という感じだ。


「あたしパス〜」


 お花畑はいつもの如くその誘いをかわす。恐らくこの後は彼氏とランデブーだろう。仲のよろしいことで。


「うちもバイト」


 浪人生の方も、予備校のバイトをかなり詰め詰めに入れており、中々予定が空いていることはない。こちらもいつもの通りだ。


 そして普段ならばここで私が、仕方なく二人に同行しているのだが。これといって断る理由がないのが常だし、遅くまで遊んだ方が大学生っぽい、と何となく思っているからだ。


「あ、ごめん。私も今日はちょっと……」


 しかし、今日の私はいつも通りではなかった。


 例え、朝の光がいつも通りに眩しくとも、退屈な講義がいつも通りに終わっても、友人たちがいつも通りの日常を過ごしても。


 私には今日、とても重大なイベントが待ち受けているのだ。



 ◇◇◇◇◇


「すいません、お待たせしましたか?」


 待ち合わせの場所に行くと、先輩は笑顔で私を迎えてくれた。トイレの鏡で入念なメイクの手直しと、鼻毛や枝毛、ムダ毛のチェックなどに没頭していたら、いつの間にか待ち合わせの時間を過ぎてしまっていた。


 あまり知り合いに見つかりたくないので、わざわざ私の方から先輩にとっては手間となる旧棟キャンパスの裏手を指定したというのに、申し訳ない限りだ。だが、先輩の方はまるで不機嫌な様子すらなく首を振る。


「ううん、全然。恥ずかしい話だけど、俺も今来たとこ」


 かなり在り来りな気遣いのセリフだったが、そのせいで私は余計に罪悪感を感じてしまい、何度も頭を下げた。


「本当に気にしなくていいよ。それよりも早く行こっか」


「は、はい。えと、どこに行くんですか?」


「うーん、そうだね。何が食べたい?」


「別になんでも大丈夫です」


 出ました、私のお家芸。なんでもいいとは言っているが、もちろん本当になんでもいいわけではない。これで牛丼屋にでも連れて行かれようものなら、丁重にお断りして帰宅してやるというものだ。


 ただ、これと言った主張が自分の中にないので、面倒な決断を避けているだけである。


「なんでもいい、か。あ、そうだ。ならおすすめのお店があるよ!」


 本当は予め決めていたのだろうけど。それでも先輩は今思いついたかのような口調で、そう提案してきたのだった。



やっぱり先輩が好きだ。


 どこが好きなのかと言われるととても難しい。バスで隣に座る先輩のことを見つめても、何でこの人のことを好きになったのか全く分からない。正直、自分のそんな感情を気に入らないとすら思う。


 冴えない服装に、冴えない表情、女の子との会話は苦手だし、気遣いは不器用だし、貧乏だし。はじめて会った時は、話をしようという気にもなれなかった。


 でも、それでも。先輩は優しかったし、はじめての飲み会で潰れてしまった時は介抱もしてくれたし、サークルの色々なことを教えてくれた。


 何より、私への好意に素直だった。


 周囲にもバレバレなほど最初から私にドギマギ、デレデレしていて、しょっちゅう冷やかされては、肝を冷やしたように私の方を見てきたが、決してそれを否定することはなかった。


 だから分かった。この人は本気で私のことが好きなのだと。「好き」という気持ちに素直に向き合える人なのだと。


 それに気がついてから、私は先輩のことが心地よくなった。寄り添うのに丁度いい身長も、穏やかなトーンの喋り方も、たまに見せる純粋な笑顔も、少し抜けた雰囲気も。


 それら全てを「素敵だ」と思えるようになった。つまり、先輩を「好き」になった。


 お世辞にも先輩は女性から人気なタイプではなかったし、カッコいいと思ったこともなかったから、私も最初は戸惑った。でも、今はそんなことはどうでもいい。


 だって先輩は、とても素敵だから。


「先輩、私思うんですけど」


「ん? なに?」


 私はバスに揺られながら、ふと思ったことを口にする。


「女の子を誘う時は、当日じゃなくて先の日程を聞くべきですよ」


「あ、そ、そうかな、ごめん」


 私の説教じみた物言いに、先輩はたじろいで頭を下げた。どうやら私が怒っていると思ったようだ。


 そうじゃない。そうじゃないのだ。


 でも私には、その気持ちを表出する力がない。これまでずっと曖昧な表現と、他人の言葉に乗っかることだけに甘えて生きてきた私には。自分の気持ちに素直に向き合う力を失くした私には。


「……」


 だから私はまた、先輩を勘違いさせたまま、話を終わらせる。少し気まずい沈黙に、逃げるように目を逸らしながら。


「もっとお洒落したのに……」


「……え?」


 しかし、私の口は意図せずに、言葉を紡ぎ出す。


 ボソリと絞り出たそのセリフに、先輩がはてと反応した。


「あ、えと、私……」


 私は動揺しながらも、その言葉の続きを口ごもる。


 そうだ、きっとこれが、私の素直な気持ちなのだ。だから思わず、口をついて出てきてしまったのだ。だから今こそ、なんとかここで伝えなければ。向き合わなければ。


「あの、事前に誘って貰えれば! 今度は私、もっと服とか……お洒落できるし! 髪のセットとかも! だから、そう思って」


 何が「だから」なのか。喉の奥から出てきたのは、自分でも情けないと思うほどたどたどしく、様にならないものだった。


 先輩もそんな私の発言に、思わずぽかんと口を開けてこちらを見ている。ああ、またやってしまった、と私は目を覆いたくなった。


 しかし、先輩はやがて、満面に嬉しそうな笑みを浮かべると、強く頷いた。


「うん、分かった! 次はそうするね!」


「え……? は、はい。よろしくお願いします」


 今度は私が呆気に取られる番だった。あんな情けない、自己満足にも等しい心の丈を聞いて、それだけで幸せそうに破顔する先輩。そんな先輩を見上げてから、私は静かにバスの外の景色に目をやった。


 街並みの向こうに沈み行くいつも通りのはずの夕焼けが、いつもよりも少しだけ綺麗に見えた。


 私は、やっぱり先輩が好きだ。




 ー完ー

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