高瀬舟
この学校は私学だから、中学校時代やそれ以前から知り合いだった、という生徒は少ない。学習塾で同程度の偏差値のクラスだったので、という切っ掛けでの交友関係を聞くこともあるようだけど、全体から見ればごく少数派だろう。だから、毎年一年生の教室では緊張した面持ちの新入生がお互いに探り合うような表情で談笑する振りをしているのを見ることができる。
出席番号で決まった席順で、たまたま隣合っただけの関係とはいえ、言葉を交わさないでいることはできない。でも、だからといって急に気を許してはならない。目の前にいるのが本当に友人と呼べる関係を築ける相手か、それとも自分とは会わないタイプの人間か、当たり障りのないやり取りの中で見極めをつける。そして同時に周囲の会話にも目を凝らし耳を澄ませて気の合いそうな同級生を探す――そんな、子供たちの必死かつ緊張感のある駆け引きを観察するのが、私は好きだった。
春山美波まで行くと可愛げは全くないけれど、強かで立ち回りの上手い子というのは見ていて面白いものだし、葛原君のように居場所を見つけるのに苦労するような子は何かと扱いやすいから。
とはいえ、入学式から一か月以上経ち、いくつかの行事も体験した時期とあって、1年E組の人間関係はもう安定しているようだった。生徒にとっても教師にとっても恐らくは幸いなことに、グループに入りそびれて孤立している子も、一見したところではいないらしかった。
「大川先生は、午後はお休みです。課題のプリントを預かってるから、お昼の後だからって居眠りしたりしないでね?」
「マジっすか、次の予習できると思ってたのに~」
半ばはふざけたように、おどけたように声を上げる男子生徒に、くすくすと笑う女子生徒たち。こういう時にこういうことを言うのはこいつだ、という暗黙の了解のようなものができているのだろう。そしてこいつの言うことなら安心して笑って良い、という空気もまた、彼らはもう共有している。気心の知れた者同士、空気を読み合うことで成立している居心地の良い排他的な空間――私にもよく覚えがある。若く幼かった頃のことを思うと微笑ましくさえある。歳はさほど違わなくても、学生時代でなければ浸ることのできない空気というのはあるものだ。
「夕実先生、これでも怖いんだからねー? 蛇もカエルも平気だしねー」
――この雰囲気を醸成するのに春山美波が一役買っているのでは、と疑うと途端に苛立ちが湧いてもくるけれど。何しろ、この生徒への疑いはまだ完全に晴れていない。平野が私の周りをうろついているのは確かだとしても、ルビーちゃんについてはこいつが犯人の可能性が非常に高い、否、犯人に違いないと、私ほとんど確信してさえいるのだ。
わざとらしい発言でクラスの主導権を握ったようにも見えるのは気のせいだろうか。平野の時の私と同様、クラスが一体となっていればいざという時に方向を操りやすいし、そうでなくても、普段からグループ同士の対立めいたものがあったりすると鬱陶しい。そこを調節しているのが彼女だとしたら、無邪気なだけの発言と思うことはできない。大川先生が影の支配者と評したのは、私の気を惹くための誇張だけではないのかもしれないのだ。
「あーそりゃ怖いわー」
「麻野先生、彼氏いないの? 大川先生ってどう?」
「――プリントを配ります。静かにやってね。終わったら自習にして良いから」
ルビーちゃんの事件を忘れてはいないのか、やや控えめなものではあったけれど、1年E組の生徒たちは春川美波の言葉につられて笑い、私に揶揄うような言葉を投げてきた。それを、強引にプリントを配布することで黙らせながら、春川美波の表情を窺う。クラスメイト達に紛れた若々しい笑みは、単に教師を「いじってやった」というものなのか。大げさな物言いで持ち上げようという大川先生と同じような手法のつもりなのか。――それとも、不快や落ち着かなさを感じる私の反応までもを見越してのことなのか。
見た目には、区別がつかなかった。
大川先生が用意したプリントは、森鴎外の「高瀬舟」についてのものだった。設問は幾つかだけ、代わりにというか文章で回答するための欄を大きく設けてある。現代文ならではの大ざっぱな造りは、羨ましいと思ってしまうほどだった。私が担当する生物だったら、文章に空欄を作ったり選択肢を考えたり、教科書や資料集から図を引っ張ったりしなければならないところだから。もちろん、採点や評価をする段階になれば、生徒ひとりひとりの回答を吟味しなければならないこの形式の方が面倒なのだろうとは分かるけど。
それにしても「高瀬舟」とは懐かしい。私自身も、確か高校で触れたような覚えがある。
江戸時代、流刑を命じられた罪人を遠島へ送り届ける「高瀬舟」。ある日、喜助という罪人の護送の役を負った庄兵衞という同心は、喜助が他の罪人と違って妙に晴れやかな表情をしているのが気になって身の上話を聞くことになる。
貧しい中で病気の弟とふたりで暮らしていた喜助は、治らない病に苦しんだ弟が自殺を図って失敗したところに居合わせ、弟に乞われるままに止めを刺してやった、それが殺人の罪に問われたのだという。とはいえ、日々の暮らしにもこと欠く彼にとっては、島流しとはいえ衣食住の保証や、果ては多少の金銭までもを役所から与えられるのは望外の幸せだった。
流刑先での生活を楽しみにさえしている喜助を前に、やはり決して裕福な生活を送っている訳ではない庄兵衛は我が身と罪人の境遇を引き比べずにはいられなかった。──この短編の大まかなストーリーは、こんなところだろうか。
よく言われる作品のテーマとしては、安楽死と知足――必要以上を望まず満足すること、とでもいうのか――、ということになるのだろうか。実際、大川先生のプリントにもこんな設問がある。「喜助が弟を殺したのを正しいと思うか? 間違っていると思うか?」「喜助と庄兵衛と、どちらが幸せな人間だと思うか?」
高校生に対して授業で教えるのだとしたら、もちろんそのテーマについて掘り下げるのが適当なのだろう。ただ、私がこの作品を読んだ時の個人的な感想は、全く別なところに着目したものだった。すなわち――
弟自身に乞われての安楽死とはいえ、貧しさによる苦しみがあったとはいえ、弟を殺して晴れ晴れとした顔をしている喜助は普通の人間じゃない。
だって、たとえば事故なり病気なりで植物状態になったとしても、普通なら生命維持装置を止める決断はそう簡単にはできないし、罪悪感も消えないものだろう。先行き見えない貧しさを慮れないのは豊かな現代人の傲慢なのかもしれないけれど、それでも、弟の命を奪った瞬間は恐ろしく悲しいものではないのだろうか。
なのに喜助はその状況を事細かに冷静に説明してみせた。剃刀で喉を掻き斬ろうとして失敗した弟の、傷口や剃刀の突き刺さり方、それをどう引き抜いたかまで! しかもそれを、裁きの場でもないのに――役人相手とはいえ――、特に高圧的に質された訳でもないのに、滔々と語ってみせるなんて! 身の上話を打ち明けておきたかった、と解釈すれば良いのだろうか。でも、どこか自慢げというか、喜びのあまり漏れ出てしまうような雰囲気を感じられはしないだろうか。
――正直に言って、一度そんな目で見てしまうと、「安楽死」の瞬間の描写にはとてもドキドキさせられたのだけど。そしてそのときめきのようなドキドキのために、私は授業で教わったような素直な解釈で「高瀬舟」を読むことはできなくなったのだけど。
さて、春山美波はどんな回答を提出してくれるだろうか。母親を責め立てた応接室での一幕で直感したように、私に似た嗜好を持っているとしたら、回答から窺うことができれば良い。そして、そこから対策を講じることができれば。
少し楽しみなような心持で、私は真面目な表情でシャープペンをくるくると回す春山美波の顔を観察した。




