赤髭
*
また唄うとる。このオイに挨拶もせんで。オイが何ばしちょうか教えようか。何ていうて漬物屋の四代目たい。ばってん、大した店番もせず、オイの仕事ちゅうたら中州川端の違法駐輪ば見て回って新しか自転車に取り替えることぐらいさ。四十にもなって、することちゅうたらそれぐらいのもんたいが。
ばってん、あれは二か月前の寒か夜やったばい。ちょっといつもの道ば左に折れて中央通に差しかかったら、この寒か中に流しのおるっちゃん。はあ、たまげたばい。オイはとりあえず自転車ば止めて、
――「きさん、なんばしょうとや? ここで商売すんならオイば通せ」
ちゅうたら若かアニキがビビりまくって、
――「いえ、あんまり稼いでないんで」
東京弁か! 思うて、ギター箱にはなあんも入っとらんで、あんまりにも可哀そうかけん煙草だけもろうたら、
――「ここ、唄ったらまずいですか」
とか訊いてくる。
――「中州の赤髭さんの知り合いて言えば大丈夫たい!」
そげん言うたら安心したごたる。で、オイは颯爽と走り去った訳さ。
そいでまあ、オイの一日が終わるちゅう訳ばってん――、
「ヒロシ! 早う樽ん中ば始末せんね!」
朝起きれば、オイには漬物屋っちゅう運命が待っとる訳よ。何が悲しゅうて漬物屋のせがれに生まれたとか、子供の頃は「高菜臭か」とか「漬物星人」ちゅうてバカにされよった。
朝から樽掃除の日課が終われば、今度は店番ちゅう面倒臭か仕事が待っとる。来るとはいつも爺さん婆さんばっかいで、オイはいつも釣銭ごまかして煙草代にする訳たい。
夕方も四時になればやっとこさ暇になって、オイは中州の隅々に顔ば出しに行く。「中州の赤髭」言うたら、知らんもんはおらんけんね。どこ行ってもハイハイ言われる訳さ。それが、あのギター流しときたら、全然オイに対する態度ができとらん訳で、
――「今日は儲かったか!」
――「いえ、まだ今からなんで」
じゃあ何で、きさんはもう酒飲みながら屋台開いとる訳や? オイに焼酎の一杯でも奢るとがスジやろう。
――「しょうがなか。煙草一本で勘弁しちゃる」
なのに、クソガキは煙草一本しか出さん。普通そこは二本やろうが。
が、オイは心の広か赤髭さんやけん、そこは多目に見ちゃる。見れば「長崎から来ました」ちゅう手書きの看板もある。あのクサレど田舎の長崎から来たちゅうからには、この赤髭さんがとことん博多のイロハを教えてやらんといけんと思うた訳たい。これから先、この小僧には目をかけてやらんといけん。
――「では杉内様! またヨロシクお願いいたします!」
変わったこともなか中州の中央通で、よう見れば見知った顔の兄ちゃんが高級ナイトクラブから出てきた。何かの見間違いかと思うたが、そこは間違いなく博多一のナイトクラブやった。もう一回顔ば覗けば、間違いなく長崎の流しの兄ちゃんやった。
その足はオイのことにも気づかず、いつもの煙草屋の隣に向かう。クラブでたんまり稼いできたとやろう。今晩こそは居酒屋一件くらい奢らせてやろう。そう思うてオイはまた中州を一周した。
けど、そろそろ頃合いじゃなかかと思うて戻ってみれば、オイの立ち止まる場所もなかほど道端に人が溢れとる。何かの祭りか、博多山笠にはまだ早かばい。そげん思うて見とったら、ギターの箱にはどんどん千円札が入っていく。これは居酒屋一軒じゃきかんぞと思いつつ人気の去るとば待っとると――。
――「ああ、赤髭さんどうもです」
唄う以外に開く口があったとかと驚いた。そしてもっと驚いたのは、
――「ちょっとトイレ行って来るんで、見ててもらってもいいですか」
クソガキはチップの入ったギター箱をそのままに駆け出した。見える限りでも七千円は入っとる。
ざまあみろと、オイはその金をかき集めた。が、そこに、
――「ギターのお兄ちゃんどこ行ったんな」
ちょっと強面の兄さんが現れた。
――「ええ、今ちょっとトイレに」
――「で、きさん何しようとや?」
――「はい! お金が取られんように見張ってます!」
すると強面の兄さんは、
――「じゃあ、これだけ渡しとってくれろ」
なんと一万円札ば差し出した。オイは慌てて、
――「で、でも本人もおらんとこやけん、オイにはどうにも……」
――「本人もおらんとこで金周りの整理しとっちゃろうが。きさん、何もんや」
つい口が滑った所に、運よくガキが戻ってきた。
――「上東さん! お久しぶりです!」
そのあとは兄さんとクソガキの話が延々と続いて、オイはいい加減立ち去ろうちゅう気になったとやが、
――「赤髭さん! どうも!」
ガキが酔っ払いの体で手を振った。オイは知っとるばってん、あれは記憶失くすタイプの酔っ払いや。酒で身ば持ち崩すタイプやった。なら早うチップばつかんで逃げ出すべきやった。
(でもオイは逃げるばっかいの人生でよかとやろうか)
いらんこと考えながら、ホイールの軋みの酷か自転車ば漕いで家に帰った。
火の国は熊本だけじゃなかっぞ、と言わんばかりの八月がやってきた。旬の漬物はきゅうりにナス。すぐに水が溜まるけん、オイは朝から母ちゃんにどやされながら樽の掃除ばすませた。そしてきゅうりの浅漬けば移し替えた時に何となく、何となくやけどあの流しの兄ちゃんの生活を思い描いた。
テレビに出る訳でもなく、ラジオに出る訳でもなく、あげんにして何ば唄いたかとやろうと、人生で初めて、他人の暮らしちゅうもんを考えとった。入る時には入るが、大抵は自転車の上から覗き見ても小銭しか入っとらん。生活保護でも受けとる障害者かいね、と思うことも多かった。オイは今の暮らしに満足しとらんが、間違えても流しには生まれ変わりとうないと、そげんに思うた。
そんな折――。
オヤジが脳溢血で倒れたまま帰って来んかった。六十九歳やった。
――「あとはアンタがしっかりせんと!」
背中を何度も叩くお袋に、頷きもせんで死に顔を見つめとるオイがおった。外ではセミがうるそう鳴いて、まるで子供の頃の夏休みと一緒やった。
うだるごたる暑さが続いとった。オイはつい先週、初めて着る黒かスーツに袖ば通して、もうこれ以上夏場に人が死なんように祈っとった。真夏に黒スーツば着る意味のどこにあるとか訊いてみたかった。そして無性にあの、中州のクソガキの歌ば聴きとうなった。アイツの歌はいつも、誰かの供養のごたる。
遅い夏の夕暮れが過ぎて、慣れた道ば最近盗んだ自転車で走っとった。川端ば曲がって、いつもの中央通ば通ったけど、そこにアイツはおらんかった。「チクショウ!」と叫んだ自分の心の奥底が分からんで、もう一度小さくアイツば罵る言葉ば吐いた。
毎日は何ごともなかったごと続いてゆく。
毎日は荷馬車を引く馬と同じやった。この同じ街に、かたや毎晩豪遊する人種がおって、かたや酸っぱい漬物の匂いにまみれて生きてゆく人間がおるとすれば、神様の天秤はかなり偏り過ぎだと唾を吐いた。オイの人生に報われる、という言葉はなか気がした。
今夜も相変わらず中州を自転車で流す。同じ人波、同じ風景。けど今日もアイツはおらん。しょせん、若かりし頃の無謀な挑戦やったとやろねと、オイはいつもの道を引き返しかけた。その時――。
アイツが変わりもなか姿でそこにおった。歌は何も知らんけど、アイツの歌がそこにあった。二日前に盗んだ自転車で立ち止まって、耳を澄ました。
――誰も皆 少しだけ 間違えてしまうから
――裏道は 今日もまた ささやかに渋滞が続く
生まれてこの方、歌は演歌だけあればよかと思っとった心に、アイツの歌は水溜りに映った青空のごと澄んで聴こえた。誰も皆間違えてしまう、たったそれだけの歌に、どこか救われた気がした。人は誰でも間違えてよか、という神様の言葉が聞こえていた。その歌の出所も知らず。
九月も末になって、形式だけの店主の襲名があった。オイは黒スーツは散々だと、お袋が反対するのも聞かず、二十代のまだ痩せていた頃に買ったダブルのスーツば着とった。
近所の宮司がやって来て、粛々と何らかの祭事が執り行われる中、広間に並んどった子供のひとりが手遊びでラジカセに手をかけた。不思議なもので祭事というのはそういうことに構わず進んでゆくもんで、ボリュームが大したこともなかこともあって、子供が手をかけたラジカセはほったらかしやった。
そこにラジオからひとつの歌が流れる。
――気になるのはいつも始発と最終だけで
――野良猫ばかりのこの道で朝を待つ
どっかで聴いた歌や。誰の何ていう歌やったろう。が、
――誰も皆 少しだけ 間違えてしまうから
――裏道は 今日もまた ささやかに渋滞が続く
その歌声の主に気づいた時、オイは思わず吹き出してしもうた。アイツや。あのクソガキの歌や。中州の道端で唄いながら、とうとうラジオで唄える身分になったとや。そう思うと人生が楽しかもんに思えてきた。
九月のつるべ落としの日も暮れて、気がつけば黒光りする靴に足を落としとった。
――「アンタ、もうウロウロしなさんな。スーツまで着てからにホント」
お袋の苦言もよそに、オイは中州中央通を目指した。とにかくアイツに会おう。唄うが唄うまいがどうでもよか。こっちには十秒立ち止まる勇気さえなかとやけん。
じきに十月、という夕暮れの下に出ると、自分ていうもんが少しだけ分かったごたる気のした。生まれて初めて、道端の流しに千円札を投げ入れてみようと思うた。