麗美
*
その時の恰好は今も覚えている。赤いTシャツに白いニットのタンクトップで、デニムのブラックジーンズだった。ゴールデンウィークも終わって街は平常運転。あたしも今日はバイト休み。そんな夜のことだった。
近所のバーガーショップで百円セール中の桃のシェーキだけを飲んで帰る道すがら、不思議なところで唄っている人もいるものだと立ち止まったのは、この街いちばんのアーケードから電車通りへ抜ける横道だった。この街のストリートミュージシャンは駅前ばかりだと思っていたあたしは、立ち止まった数人の客の後ろから覗きこんでいた。弾いている曲は知らない。ただ、どこか寂しげな雰囲気は放っておくことができず、立ち止まった客が去ったあともその場に残った。
――「こ、こんばんは」
少し卑屈な姿勢で挨拶されて、ストレートに訊いてみた。
――「ブルーハーツは唄えんと?」
すると彼は、「尾崎ばっかりなんで」とまた恐縮した。
――「いいよ。唄って」
そう言うあたしに、彼はやっぱり知らない曲を唄ってくれた。ギターのことは分からないけど、ヘタッピなりに味があった。どこかに行き詰まりの悲壮感を漂わせて唄う曲は、駅前の能天気なストリートミュージシャンと違っていた。
あたしは小銭の残りから五百円玉をケースの上へ置き、
――「思案橋の方で唄った方がいいよ。人も来るけん」
そう伝えてその場を去った。また会えるといいなと思いながら。それがナオミ君との出会いだった。
翌日――。
しばらくバイトも休みで、昼間を潰した銅座のパチンコ屋で所持金千円になってしまったあたしは、昨日の彼を思案橋に見かける。昨日よりも繁盛していそうな姿にひとつ思い立つことがあり、コンビニへ向かうとバドワイザーを二本買って彼の下へ向かった。
――「こっち、やっぱり無理みたいなんで」
あたしは差し入れのバドワイザーを手に、そう言う彼へハッパをかけた。
――「まだまだ宵の口さ。頑張ってみんね」
それから潮が満ちたか、彼の下へ通行人が止まり始めた。リクエストの交渉に精を出す彼を見て、なるほどストリートというのはこういうふうに稼ぐものなのだと感心しながら歌に聴き入っていた。
そこで最後に、
――「じゃあこれ私の分ね」
売り上げから半分を抜いたあたしを、彼はその時どう思ったろう。性悪な女だと思っただろうか。けれどそれから私は彼を振り回し始めた。理由は分からない。この人ならば私が何をやっても許してくれそうだという甘えがあったかも知れない。結婚前の最後の火遊びに、彼ならばつき合ってくれそうだと思ったのは確かだ。
*
「おい、青のスーツどこやった」
朝の七時半に健翔さんが、アイランドキッチンへ回ってくる。あたしは主人のことを健翔さんと呼ぶ。二十も歳の違う主人のことを、「あなた」とはどうにも呼べない。
「青いスーツならクローゼットのいちばん手前にあります」
「今度から表に出しとってくれ」
それだけ言うと彼はクローゼットへ向かう。八歳になる娘の奈留はテーブルで黙々と朝食を取っている。家にいてもあまり喋らない控え目な子だ。手のかからない子、と言えばそれまでだが、あたしとしては外で飛び回る姿を見てみたい。それでも健翔さんの溺愛ぶりは見ていて恥ずかしくなるほどで、彼はあたしより奈留を愛している。それは許嫁として結婚した宿命なのかも知れない。
「奈留、食べたら自分で下げてね」
言うと、彼女は無言で頷く。目玉焼きの白身を必ず最後に食べる癖は誰に似たのだろう。
健翔さんはすでに朝食を終え、会社へ向かう。あたしは奈留の小学校の準備をすませ、彼女を送り届けたあと、会社へ向かう。家でも会社でも、嫌でも見る顔が主人なのだ。一日の始まりに失敗などすれば、その日は目も当てられない。この間はネクタイが一本床に落ちていただけで朝からカミナリだった。
KRYPTONエンターテイメントでのあたしの仕事は多彩だ。出勤したミュージシャンのスケジュール把握と、来客へのお茶入れに、送られてくる書類の整理。要は雑用だった。元が音楽経験者でないのだから当然と言えば当然だ。ちなみにKRYPTONの「K」と「R」は健翔と麗美の頭文字を入れた社名だ。それは主人の気まぐれなのかただの思いつきだったのかも知れない。
「あ、杉内さん。おはようございます」
ジーンズに麻のジャケットでやって来た彼に声をかける。
「ああ、おはよう」
「今日は長谷山さんの練習を見てもらう日なんですけど」
すると彼は、今思い出したという顔で、
「えっと……午後からにしてもらえるかな。今からアルバムの制作会議が入ってて」
「そうですか。分かりました。午後一時にお願いします。長谷山さんには伝えておきますので」
いつか彼のことを「ナオミ君」と呼んでいた時代は遙か遠くだ。その思いは長崎を出る時に決めたはずなのに、私の記憶にはいつだって、「ナオミ君」の面影が残っている。
*
家出中、という彼をあたしの生活に巻き込んでしまって二カ月が経った。
その頃のあたしの暮らしぶりは自由だった。ただ、ふざけ半分で唇を合わせられるようになってあたしの中の何かが変わったことは確かだったけれど、彼の心はいつも読めない。大事なことは何もかも心の奥なのだ。だからこそ、彼にとってあたしはいつまでもポニーテールを結んでいた頃のままでいて欲しかった。何も言わずソファーで寄り添い、何度も口づけた頃の彼のままでいて欲しかった。今ではもう決して許されることのない関係だったことを、消し去らずに覚えておいて欲しいのだ。たとえそれが、後悔の中にあったとしても。
――「ライブに出ると?」
レコーディングスタジオの須藤さんからというその話に、彼は戸惑っていた。それがただの素人ライブだと思っていたのはあたしたちだけだった。ましてや彼の運命を変えてゆく大きな渦になるとは思っていなかった。あたしはただ、この短い夢が続くことだけ願っていたのだ。春が来ればすべて消えてしまう、このちっぽけな九州の僻地に積もる、一瞬だけの雪のように。
ライブの日取りが決まった彼に、ある日あたしは提案した。
――「他の人の演奏、見て回ろうよ」
彼は乗り気でなかったが、強引に駅前とアーケード入口を見て回った。その時、彼は彼女に会ったのだ。
もし運命という言葉があるのなら、それはあたしと彼のことだと思っていた。思い込んでいた。でも、違ったのだ。日向那由多――彼女に会ってからナオミ君は変わっていった気がする。それは音楽家としてよい方向であり、あたしにとっては都合の悪い未来だった。
*
「社長、アトランティックスからの資料です。契約内容が主になってます」
午前中に届いた郵便物のチェックを終え、主人へと手渡す。アトランティックスは日向那由多も擁するレーベルだ。彼の所属がそこへ移るということはめでたいことであり、しかし寂しさもつきまとった。その道へ背中を押したのはあたし自身だったし、彼のメジャーデビューのために切なる願いでもあった。今も変わらず、思案橋のストリートで唄っていた彼を、もっともっと色々な人に知らせたかったのだから。
午前中の会議が長引いたのか、十二時四十分に休憩室へ現れた彼は、コーラのボトルと煙草だけを口にしていた。
「食事は?」
お弁当を食べ終えた私が訊くと、
「いや……溶き卵入りのうまかっちゃんなら食べれるけど」
含み笑いで答えた。あたしは気まずい笑いだけで答えた。そういう時にこそ、彼の心が読めていたからだ。思案橋のストリートを終え、袋入りのインスタントラーメンを無心で食べていた彼のことが思い出されていた。
煙草を吸いつつ――主人は嫌がるが――ナオミ君と話し込んでいると、二十五歳の若手ホープ、長谷山さんが休憩室にやってきた。
「先生、支部長、おはようございます」
緊張した面持ちでひとつお辞儀をする。ナオミ君は、
「先に支部長な。で、俺だ」
「は、はい。すみません」
笑みも浮かべずに指摘する。
長谷山さんはナオミ君の『今日が終わる』をライブで聴いて以来、彼のとりこになっている。事務所に入った頃はやんちゃで、当時十九歳でも平気な顔をしてライブバーでお酒を飲んでいた彼女は、とある晩、小さなライブハウスでその歌を聴いて涙したという。ひょんなことではあるけれど、それから彼女の音楽性はがらりと変わった。あたしは知らない世界ではあるけれど、七十年代のフォークに憧れ、今ではナオミ先生の一番弟子だ。
「じゃ、始めようか」
ナオミ君が薄い煙を残して立ち上がると、長谷山さんはまた深くお辞儀をして、ふたりはレッスン室へ向かった。その背中を目で追い、あたしは今ようやく、普通の恋をしているのだと気づく。二人の関係を知りながら、いや、知っているからこそ彼女のポジションに座っていたかもしれない自分を思う。もしも私にもギターが弾けたならと。それを思えば那由多さんへの嫉妬など軽いものだ。逆に言えば、今ではスターになった彼女でさえも私が羨むべき位置に立っていなかったことが救いになっていた。
彼は私が永遠の恋をしていることにすら気づいていないだろう。こんなにもまだ胸は痛み、笑顔を交わせば心は沈み、そして身体は疼くのだった。ふざけ合った末の口付けは何度も繰り返したけれども、彼は最後まであたしを抱かなかった。抱いてくれなかった。裸同然の身体で一つの小さなベッドで眠りに落ちる時も、彼はあたしの身体に触れなかった。いっそ一度でもこの身を抱いてくれていたらと――そんなことを私は今でも思う。忘れもしない九年前のことだ。
――毎晩飲み明かしているのはあの頃のまんまだけれど
――あの頃みたいに明け方の天使はもういない
彼が唄う『今日が終わる』の一節を、あたしは何度もそのライブで聴いた。けれど彼にとっての明け方の天使が誰なのか、ついぞ知ることはなかった。
彼は、思えば恋の歌を寂しく唄う。愛している、という言葉を軽々しくその歌で唄わない。彼は今、誰を愛しているのだろう。その思いは歌にならないのだろうか。それを考えるといつもあたしの頭はショートしてしまう。
今では同じ社員として挨拶を交わし、時には岡崎系列の店で弾き語りを披露してくれる彼。その瞬間だけがあたしの知っている杉内直己だ。あたしは主人の紹介する知人に愛想笑いを浮かべているけれど、時に泣きたくなるほどの衝動に、今も駆られるのだ。
日本中を巻き込んで売れて欲しい気持ちと、ストリートミュージシャンだった彼が薄れてゆく寂しさと、そんなものに紛れて私の一日は今日も終わる。
恋という言葉に憧れて、そしてその意味を探していたあたしに、君の唄うがむしゃらなブルーハーツは答えをくれた。親が決めた許嫁という言葉に縛られ、身体中で抵抗し、腐りきっていたその頃のあたしに、愛じゃなくてもいい、恋じゃなくてもいい――そう唄ってくれた君に、それでもまだあたしは恋をしている。あたしが永遠の囚われ人だったとして、けれど君に、永遠に恋をしている。