甲斐田刹那
*
あらまた可愛らしか子の入ったね、というのが初めての印象。ボンヤリしてそうでいて、でも聡明で、唄うと全くの別人になるという、ミュージシャンとしては文句の付けどころのない二面性。
――「彼のことがよく分からないんです」
とは、一月のTIMES九州ツアーが終わった後のこと。打ち上げ定番の松倉旅館で。
――「逆に人間ってさ、よく分かる、なんて人はおらんけど。那由多ちゃんは彼のこと、どう思っとると?」
――「恋人で……あとは信頼できるシェフです」
信頼する方向が違うと思いながらも、彼女の真面目な顔に頷くしかない。
――「ふたりはさ、バンドじゃないけん『音楽で確かめ合う』ってことが難しいとかも知れんけど。例えばウチの宿六とか――」
――「ヤドロク?」
――「小川のこと。普段はろくでなしばってんさ、ステージで決めるとこは決めるし、そこは信頼しとっちゃんね。そういうことはなかと?」
彼女は難しそうな顔を更に歪めて、
――「音楽では尊敬してます。でもそれが行き過ぎると嫉妬になるんです。『なんでこの人はこんなに心を刺すようなこと唄えるんだろう』って。私の最初って、ナオミさんへの嫉妬から始まってるんです。彼の聴く尾崎豊も大嫌いだし、でも彼が唄う尾崎は好きだし……」
少々混乱しているのか、彼女はテーブルの上のお酒を間違えて手にする。それはさっき仲井間君が置いたコークハイだ。が、気づかず飲んだので何も言わない。
私もまた今夜は代行帰りだからと、安心してビールを飲む。
――「音楽的なことってさ、尊敬でも嫌悪感でも紙一重よ。それより日常の中でどう接していくかが問題やと思うんやけど」
――「日常、ですか……」
――「そう。暮らし。杉内君ってどんな?」
彼女は少し考え、
――「起きたらビール飲んでます」
なんと、ウチの宿六と同じだった。若いのになんというか。
――「それが嫌なら言えばいいよ。やめてって」
――「でも、それをやめるとナオミさんがナオミさんでなくなるような気がして」
なるほど、かなり重症だ。彼女も彼もだ。そこで私は言葉を変えようとする。が、彼女の一手が早かった。
――「妊娠でもしたら変わりますかね……」
あまりにも切実な顔で言われると困ってしまう。いつだったかそれで入院したのではないか。
――「そういうのは生活が軌道に乗ってからね。ウチにしても小川にしても、この歳で結婚せんのはそういう意味もあるとやけん」
彼女はコークハイが効いてきたのか、はあ、と首をひとつ縦に振り静かになった。まだまだ二十二歳。恋する乙女の歳なのだ。私のアドバイスなど、吹けば飛ぶような言葉だったろう。
彼女の『夕凪』がついに路線に乗り始めたのは、やはりテレビのCMからだった。初盤千枚のCDが底を尽きて来た頃だった。大手のレーベルから打診があったのだ。事務所のナスティとしてはSolty Cannon以来の大口注文で、誰もが手放しに喜んだ。ただそこに、浮かない顔をしているナオミ君の顔を見逃しはしなかった。
二月の中旬になると那由多ちゃんは落合専務と共に東京のレーベルへ顔を出しに向かった。そのたったひと晩だけ、私は彼のストリート演奏を見たことがある。
博多と言えど二月。昨日は五センチほど雪が積もったという路上に、彼は黒いコートを羽織って背を曲げていた。私は事務所へ宿六を迎えに行く途中で、つい気になって近くのコインパーキングに車を止めて彼を訊ねた。つもりだったのだが、誰も立ち止まらぬ暗闇を見つめる彼を見て足が竦んだ。十年来ミュージシャンを続けてきた私にも近寄れない何か寄せ付けないオーラがあった。きっと彼は今、何かに鎖に繋がれているのだと、同じミュージシャンとして感じていた。
と、そこへ二人組の男が立ち寄り、彼と話を始めた。私に声は聞こえない。
やがて何らかの折り合いがついたのか彼はギターを奏で始める。冷たい風の吹き抜ける繁華街に響く生ギターの音というのを初めて聴いた。それがこれほどまでに切ない音だとは知らなかった。
彼の声が響き始める。何度もマイクを通して聴いていたはずの声が、まったく別物に聴こえる。空を裂き、街を包み、その声は通りを埋める。圧倒的なパフォーマンスだ。彼のボーカルを『好感の持てる声』程度にしか聴いていなかった自分をバカだと呪った。今そこで聴こえる歌こそが彼の本物の声だったのだ。これが、日向那由多が嫉妬したという声なのだ。私ももしボーカリストであれば同じ思いを抱いたかも知れない。
そんな中、二人組は笑いながら立ち去り、私はようやくで彼の下へ向かった。
――「お疲れ様。頑張ってるね」
どこか台詞が上滑りする。よく見ればギターケースには小銭一枚も入っていない。
――「お金、入らなかったの?」
驚いて訊ねると、
――「まあ、今からですよ」
彼は笑った。ついさっきの二人組を追いかけたい気持ちに駆られた。
それから彼は、
――「尾崎なんですけどね」
そう断って唄い始めた。タイトルだけ教えてくれた曲は『街路樹』という物悲しくも小さな温もりに満ちた歌で、なんとなく、今夜、那由多ちゃんに会えない彼の寂しさを唄った静かなラブバラードだと思った。
聴いているだけで芯から寒気のする路上で、私は対価を手渡す。
――「いいんです。先輩からいただけません」
そう言う彼に、
――「貰いなさい。ナオミ君の歌にはそれだけの価値があるとやけん」
彼と意味のある言葉を交わしたのは、それが最後だったかも知れない。九州ツアー中は先輩ばかりで気を遣っていた彼への、せめてもの贈り物だった気がする。最後の贈り物だった。
彼の突然の退社に驚いたのは彼女だけではない。事務所のすべてがそうだった。もう一息待てば彼女のレーベル移籍も落ち着き、次はという番だった。TIMESのメンバーもそれだけを待っていた。
――「自暴自棄になっとるちゃなかと? そこで引き止められるとは那由多ちゃんしかおらんよ」
そう言っても、
――「そういうんじゃないんです。ナオミさんは生まれつきの旅人なんです」
その言葉はまずいことに私の腑に落ちた。あの、寒々としたストリートで唄う彼は、確かに旅人だった。繋がれたしがらみにぎくしゃくしながら、ストリートで唄うことで何とか心を持ちこたえていたのだ。そんな彼の心を理解している彼女に、私は何も言えなかった。十歳ほども年上の先輩として、何も言えなかった。
彼女は三月を境に、小さな音楽事務所で擁するには不向きな存在になっていった。事務所としてはいてくれるだけで金の成る木だったろうが、ミュージシャン連中はこぞって彼女の心配をしていた。退社した彼との仲がどうなっているのかも分からないままだったが、そこを狙ったように仲井間君が彼女に粉をかけていた。少なくとも事務所のほとんどがそう見ていた。しかし、それはそれ、これはこれ。他人のプライバシーはそっとしてくのがこの世界の常識だ。盗った盗られたの話をする以前に、その張本人がいないのだから。
時は二年ほど経ち、メジャーデビュー後初のホールイベントの楽屋。不意にふたりきりになったことがあった。
私は世間話のように、
――「ナオミ君とは? 連絡なんかは?」
けれど彼女は曖昧に微笑むだけで、
――「いいんです。私って待つの慣れてるんです」
その時に、彼女が事務所を移動しないことを確信した。彼女は今も、彼が戻ることを待っているのだ。
時はさらに流れて、彼女が住居を東京へ移した五年後。1998年。二千人規模のホールで凱旋ライブが終わり、楽屋を訪ねると彼女が小さな身体で駆け寄ってくれた。スポットで汗まみれになっていたのを思い出す。
事務所の先輩という威光で二次会途中に彼女を借り出し、彼女が行きたいと言った料理処へ足を延ばした。ウチの宿六もたまに使うというホントに小さな小料理屋だった。
――「いつか刹那さんと来たかったんです」
屈託もなく言う彼女に、カウンター中の女の子がおしぼりを出す。妙齢の女の子だ。女将の娘らしい。今日のライブも来てくれたのだそうだ。
――「彼女は由美子ちゃんです。私の公式ファンクラブ一号なんですよ」
言われた女の子ははにかむ様子を見せ、私にもおしぼりを渡した。女将がこれみよがしにカウンターの客へ彼女を紹介するので、しばらく握手会とサイン会が開かれた。それを見るにつけ、長い年月が流れたんだなと思うと不覚にも涙が溢れた。
――「刹那さん? 大丈夫ですか?」
彼女に心配される始末だ。
それからふたりでお酒を重ね、時の狭間で宙ぶらりんだった答えを彼女に求めてみた。彼が東京でデビューしていることももちろん知っていた。
――「杉内君のこと、今も待っとると?」
捻りも何もない私の問いに、
――「はい。私はナオミさんに『行ってらっしゃい』としか言ってませんから」
驚くほど素直な答えが返ってきた。
――「東京では? 出会いもあるっちゃなか?」
――「仕事ばっかりです。それに私の恋は生涯で一度きりと決めました」
ここにいない彼をとっちめてあげたくなる台詞だったけれど、それこそが彼女の歌の源なのだと思えば憧れる恋の形でもあった。
――「ナオミさんの歌の中で、好きな歌詞があるんです」
彼女は夢見がちな瞳を揺らして言う。
――「どんな歌詞?」
――「『君と見たあの夢が恋ならばそれでいい』って歌詞です。『ささやかな渋滞』っていう歌です」
その歌は確かにベーシストとしての指が覚えている。ミュージシャンがミュージシャンに恋をした瞬間、それはいつでも終わらない恋になるのかも知れない。まだそんな恋をしている彼女を羨ましくも思い、今はもうここにいない彼をまた思い出していた。そしてまた涙ぐんだ。