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小川公彦

今回はTIMESボーカルの小川さん視点です。

          *



「新人の入るってや」


 事務所の、しなびてスプリングの飛び出しそうなソファーに座ると、まずは煙草に火をつけた。ギターの関が缶コーヒーを片手に、


「スギウチナオミ、二十歳ってさ」


 最新情報をリークしてくる。何か知らないがそういう情報は早いヤツなのだ。


「マジで? 女?」


 俺が訊ねると、


「いや、男。長崎の須藤さん経由たい」


「かあっ! 男か!」


「何ば期待しとうとや。刹那の耳にすぐ入るぞ」


 恋人の名前を持ち出されて、俺は半分耳をふさぎながら冷蔵庫に向かう。冷蔵庫の中身のほとんどはお中元やらお歳暮の缶ビールで、なぜかそれを自由に飲む権利が俺には与えられている。いや、権利があると思い込んでいるだけかも知れない。が、周囲は何も言わないので飲む。


「まあ、須藤さんには世話になっとるけんね。可愛がってやらんばいけんやろうけど」


 ビールを煽っていると、車を止めた刹那が事務所にやってくる。彼女はTIMESのベースでもあり、俺とは十年のつき合いになる。男女としての仲、という側面もあるので面倒臭いとこもないではない。


 それはそうと俺の所属するTIMESはライブバンドで、活動は手広い。博多区が主催する街中イベントから大箱のライブハウス、それにビヤガーデンに漬物屋の店先ライブまで年中を演奏で食い繋いでいる。中でも漬物屋は異例だが、ラジオCMの『うまかきゅうりはうまかっちゃ~ん』というボーカルを担当している俺としては外せなかった。それが九年前。懐かしいと言えば懐かしい思い出だ。


 といって、懐かしさにかまけていると時代はモータードライブだ。光陰矢のごとしである。TIMESデビューアルバムから七年、博多をメインに唄ってきたが、最近はライブの集客も振るわないことが多い。なのにだ。なのにここにきて新しいアーティストを補充するという落合専務の胸中は計りかねる。ただでさえ貧乏所帯なのに、これ以上食い扶持を増やすのかと俺は件の新人を歓迎する気はなかった。



 十二月に入ってすぐ、うちの重鎮バンドであるSalty Cannonをメインに置いたナスティ主催のライブがあった。その二次会で、落合専務の隣に座る線の細い少年がいた。それが例の新人だとはその時は気づかなかった。それほどオーラが見えなかったのだ。


 ――「じゃあ、今月からナスティの一員になる杉内直己君です。皆さんよろしく」


 専務が言うと静まった空気の中、あからさまに緊張しながら、少年は言う。


 ――「杉内直己です……尊敬するアーティストは尾崎豊です」


 それを聞いた瞬間、俺の心が萎えた。いや、周囲が引いた。ナスティは今さらオザキユタカもどきを作り出そうとしているのか。それなら古株の仲井間だけで充分だった。そう思った初対面だった。しばらくはストリートの演奏で飯代を稼ぐらしいスタイルも俺の好みじゃない。ミュージシャンはライブを入れてナンボのものなのだ。


 しかしそれがしばらくして、ストリートの演奏で三月のチケットを四十枚売ってきたというのにはたまげた。しかもその後ファンから、事務所宛てにマーチンのトリプルオーが贈られてきた日にはもうあごが外れた。一本三十万のギターだ。贈る方も貰う方も何者だ、と驚愕する日々が続いた。


 彼は決して上手いギターは弾かなかったが、歌に味のあるアーティストだった。何よりブルースハープが秀逸で、彼をTIMESバンドのバッキングに借り出したのはリーダーの関のグッドチョイスだった。思えばその一年後の九州弾丸ツアーも彼抜きでは成し得なかったツアーだ。そしてそれが彼との最後の思い出になるのだが。


 二月のTIMESの前座ライブ辺りから俺と彼は親交を深め、彼のストリートにつき合って酒を浴びながら唄う日が続いた。それまでストリートを毛嫌いしていた自分がバカに思えた。そこには忘れかけていた音楽への純粋過ぎるほどの情熱が満ちていた。二十歳という彼の若さにどこかで妬きながらも、懐かしい時代へタイムスリップしてゆく自分がそこにいた。彼との演奏は毎回楽しく、俺からの呼び名もナオミンへと変わった。やがて二月の前座ライブが終わる頃には可愛らしく頼もしい後輩に変わっていった。

 


 彼の恋人は日向那由多という面倒臭い名前でコケシ顔だ。


 それが三月三日の初ライブでとんでもないステージングを見せた。ぶっちゃけると、その日の演者の誰よりも観客を惹きつけた。あとの演者は全部持っていかれた感じだった。長崎の須藤さんが送り込む刺客はどれもこれもバケモノだったのだ。


 その初ライブも、すんなりと終わった訳ではなかった。リハーサル前の楽屋で、大トリであるナオミンのギターの弦がすべて切られていたのだ。関はさすがなもので犯人捜しなどという野暮なことはしなかったが、俺がその場にいたら真っ先にアイツを取っつかまえてぶん殴っていたはずだ。古株の仲井間純だ。そういう陰湿な真似をするのはアイツしかいなかった。


 しかし不思議なもので、彼ら――ナオミンと那由多はどうやって和解したのか、いつの間に仲井間と言葉を交わすようになっていった。それはいつも固かった事務所の空気を変えていった。その流れはやがてナスティ事務所初の珍しい仕事を引っ張ってくるのだった。中州のクラブ営業だ。


 チケットを捌いてはプラマイゼロになるだけのステージを繰り返していたそれぞれのアーティストに、月二回から四回のギャラありステージを組むようになったのは革命的だった。そしてその窓口がナオミンだった。いつもは押しの弱い彼がどうやってそんな仕事を持ってきたのか俺はいまだに知らない。ただ、マーチンのギターを贈ってくれたクラブの副社長と懇意にしているとは聞いた。


 何にせよ雰囲気のよくなった事務所で、日向那由多のレコーディングが始まった。落合専務も彼女に事務所の命運を賭けていることがありありと見え、しかし当の彼女はナオミンと共に中州中央通のストリート演奏を変わらず続けていた。それはストイック、というより時に不憫だった。少ない事務所の給料に汲々としているのはこちらも同じだったが、時に酔客から笑われ、時に小突かれ、それでも平然と唄える彼らを尊敬した。俺がギターを覚え直す気持ちになったのは、彼と一緒に唄ってみたかったからだ。そこにある情熱を、俺も感じてみたかったのだ。いつか、そうであったように。



 杉内直己という人間をもっとも知るきっかけになったのは、やはり路上でのことだった。

 秋から暮れに向けてのギャラ抜き営業を終えた十二月の最初の土曜日。彼のいつもの唄い場へ行くと、白いダウンを着込んだ女性がひとり待ち構えていた。俺も、そして博多で音楽をやっている人間なら誰でも知っている愛想のない女性客だ。時に誰かの打ち上げに参加していることもあったがコーラしか飲まず、宴会の最中にもニコリともしない、名物女性だ。それがガードレールに座っていた。その仕草は神経質で、風になびく髪の毛を何度も指ですくって撫でつけていた。


 ――「こんばんは」


 声をかけたのはナオミンだ。彼は手際よく譜面台と譜面を広げ、早速リクエストを訊ねていた。が、そこから怒涛のリクエストが始まるのだ。他の通行客の好みも交えて唄えば立ち止まるかも知れないものを、彼はその女性に言われるままリクエスト曲を唄い続けた。俺はといえば、その頃にはしっくりなじんでいたマイギターを構えていたものの、一弦さえ弾けずに座り込んでいるだけだった。延々と続くリクエストに、小声で、


 ――「ワンコーラスでよかっちゃなかか」


 俺はそう言ったが、


 ――「歌は最後まで唄って完結ですから」


 彼は冬場というのに額に汗をかきながら唄い続けた。そしてそれは他の酔客が立ち止まるまで続いた。実に九曲だった。ライブ一回分だ。しかも女性は礼も言わず立ち去ってしまうのだ。投げ銭など入るはずもなかった。


 ――「じゃ、エンジンかけましょうか」


 日本酒の紙パックを啜り、彼はひと仕事終えた顔で笑った。


 その後は運の向きが悪くなったか、通る客すべてが見向きもしなかった。そこへようやく現れたのは、見るからに荒くれの三十代だった。


 ――「おう! きさんは『唐獅子牡丹』覚えたか!」


 ――「いやいや。難しい曲なんでまだ覚えきれずに。申し訳ありません」


 顔見知りならと放っておいたが、男が、


 ――「できんなら唄うなちゅうとろうが! クソが!」


 空っぽのケースに唾を吐いた。俺が青ざめた。男はそれを捨て台詞の代わりに立ち去ろうとしている。今なら追いかけられる。そう思った時には足が出ていた。が、それを彼は止めた


 ――「怪我した訳でもないです。唄えなかった俺が悪いんです」


 彼はそう言って吐かれた唾をティッシュで拭き取っていた。


 その時だ。俺にはやはりストリートはできないと、そう思った。これがストリートならば金輪際ギターを置こうと思った。俺は杉内直己にはなれない。



 ボンヤリとすることの多くなった日々に、今でも彼のことを思い出す。ふとした時にだ。

 あの日、事務所を出て行った彼の背中には、どこか清々しさを覚えた。もしかしたら博多の弱小事務所に繋ぎ止めるには元々無理があったのかも知れない。彼の目は日本を見つめていた。


 仲井間には那由多との仲を疑い、一度だけ殴りつけたことがあった。それこそが、彼が事務所をやめた理由に思えてならなかったのだ。那由多が何度も誤解だと繰り返す中、ならば俺を殴り返してくれと言うと、仲井間は唇の端を拭いながら言った。


 ――「別に……俺、そういうキャラですから」


 刹那ともよりを戻して身を固め、そして今も変わらず飲んだくれている親友の店で、何でもないことが思い出される。


 ――「九州ツアー、楽しかったですね」


 言いつつ彼は一月の中州中央通でバーボンのボトルを流していた。


 ――「ナオミンも回れるさ。すぐCD作って今度は逆回りやけん」


 彼はそれには答えず、この一年で使い込んだ感じのするマーチンでDを鳴らし、


 ――「いつか聴いて欲しい歌があるんです」


 そう、冬の空の下で呟いた。


 ラジャマンダラのカウンターでウィスキーを飲み干すと、ノブが無言でお代わりを作る。コイツも俺も歳を食った。ラジオでは最近流れることの多くなった静かな三拍子の曲が流れ始める。そのハーモニカは旧きよき時代を彷彿とさせる。同じステージで演奏した思い出の数々を寂しさと共に連れてくる。


 ――ボブ・ディランは知らなくても答えは風に吹かれているって知っていたさ

 ――ローリング・ストーンズは聴かなくても転がり続けて生きてきた

 ――まだ早い朝のうちから起き出して交差点で煙草を吹かすと

 ――きっと今でも憧れてしまう西行きの長距離バス


 ――情熱なんて引っ張り出してきてもこの空っぽの自分が押し潰されて

 ――誰かの一生懸命に乗っかって今はただ笑うだけ

 ――毎晩飲み明かしているのはあの頃のまんまだけれど

 ――あの頃みたいに明け方の天使はもういない


 きっとあの日、彼が唄いそびれたのはこの歌なのだろう。俺もまた明け方の天使を彷徨い求めて毎晩飲み明かしている。今、たまらなく彼に会いたい。

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