序章ー⑥
「断る!」
ビールの入ったジョッキが、逞しいその男の掌内で割れた。
その飛沫を浴びながら、それでもフィデル参謀は笑みを絶やさない。
近衛兵が色をなすが、扇子でそれを押し留める。自分の前に居るこの大男が一暴れしたら、返り討ちに遭うのは目に見えているだろう。
隻眼でアイパッチをした風貌。顔中に覆われた白髪の髭だけが、この男の経た歳を教えてくれる。
筋骨隆々……というレベルではない。肩の筋肉の張りだけでフィデルの頭3つ分はある。
腕は丸太の様に太く、2ℓは入るジョッキがおちょこの様に見えてくる。
端的に言えば、巌。この男がちょっとフィデルをデコピンしたら、たちどころに絶命してしまう自信がある。
そう、この男こそ、マルマラ海の覇者、大海賊=ドン・ボルゾックその人である。
「…我が軍に入って、提督となる事に何の不都合があるのです?」
「おめえ、馬鹿じゃねえのか? 沈没しかけている船に乗っかるオメデテエ奴がいるってえのか?」
新しいジョッキを口に運びながら、ボルゾックが胴間声を酒場に響かせた。辺りの客は全然気にしてない…という事は、配下だと認識した方が良い。
「ヴ帝国の最新鋭艦を望むだけ麾下に配備しよう。そして、公認の王立海賊として認めよう」
「だから。その最新鋭艦ってえのはどうやって手に入れるつもりだ?」
ビールが口髭から放たれる。間一髪、フィデルは扇子で防いだ。
「オレ等だって馬鹿じゃねえ。もうそろそろヴ帝国がココに攻めてくるのは知ってるんだ。そんな中、てめえ等に味方したって目を付けられるだけに決まってんじゃねえか」
「……分からないのですか?」
「…なにぃ?」
残った瞳に怒りが燃えつくのが見えた。
「ヴ帝国が、我々パンジールウルケーを滅ぼした後、次に攻撃されるのは…この地域の治安を乱す輩って事ですよ」
「……確証は無え」
「いいえ。リットン辺境伯領をご存知でしょうか、彼の地域は独立の気風が強かったが……」
「リットンの話くらい知ってらあ!」
イライラとした感じでボルゾックが机を叩いた。バッカリと机は割れ、皿と料理が飛び散る。ボルゾックの手にはちゃっかりジョッキ。自分の酒だけは死守した様だ。
「…おめえに手を貸せば、最新鋭艦が手に入るという確証はどこにある?」
釣れた……!
「我々は今回の出撃しているヴ帝国艦隊を半分拿捕します。そこから幾らでもお使いになったら良い」
「なんだそりゃ、夢物語か! そんな話には乗れねえな!」
「オカシイな……貴方はかつて、先代マスーラ王に力を貸した事があったでしょう?」
「ああ。社会主義国の連中が気に入らなかったからな。だが、今はおめえが気に入らねえ」
……やれやれ、交渉は決裂か。今、作戦の概要を説明する事は出来る。だが、此処に敵のスパイが居ないとは言い切れない。だからたとえ殺されても此処での説明は出来ない。
最悪、自分が此処で死んだとしても従弟のサラーフにだけは全容を説明している。だからヴ帝国に一太刀だけ浴びせる事は可能だと思う。最後に、マスーラ家の気概だけは見せてやろう。笑みが引きつらぬよう、深呼吸をする。
「バイバイ、夢想家よ」
そう言ってボルゾックの巨大な掌がフィデルの眼前に迫る。
「こんちゃ~っす、ボルゾックのおっちゃん。"どんな所に儲け話があるか分からない”ってウチの母ちゃんも言ってたし、話聞くだけでも聞いてみた方が良いんじゃない?」
頭蓋骨が軋む向こうで呑気な声がした。途端にグローブみたいな掌がパッと離れた。
「よう! ノラ・シアンじゃねえか!」
「そういやボルゾックのおっちゃん、うちの母ちゃんも来てる筈なんだけど会ったかい?」
「なに? あの婆ぁも来てるのか。ガハハ、元気しておったか!?」
今までの緊迫した雰囲気はどこへやら、死を覚悟していたフィデル参謀もキョトンとしている。
「…おっちゃん、オレ、パンジール軍に入ったんだ。もう『戦働き』で糧を得るのは嫌になったんだよ」
「なに、パンジールにだと!?」
ギョロリとフィデルを睨むボルゾック。埒外の事に首を思わず振るフィデル。
「……分かった。シアンが自分の意思で軍に入ったのなら、オレもとやかく言わねえ。オレに出来る事なら何でも協力してやるさ」
そして再度ギョロリとフィデルを睨みつつ、ボルゾックがシアンを指さした。
「オイ。おめえの話に俺が乗っかってやるのは、コイツのお蔭だ。コイツに感謝して階級の一つでも上げてやんな」
さっき上げたばっかなんだが……いや、それよりもフィデルの胸中に生まれて初めて、モヤモヤした気持ちが芽生えている事に本人が一番驚いていた。
コイツ……この貧相な青年。私でも説得出来なかった奴を説得した……カリスマ?
いやいや、運だけだろう。いや、だが……コイツが私の望む『戦争の英雄』なのか?
まさか、だってコイツ……卑賎民だぞ。
「おい、もやしっ子! コイツの階級を上げるのか上げねえのか?」
頭がグルグル回っているフィデルにボルゾックの顔が近づく。
「…あ、ああ。よかろう」
こうして、ノラ・シアンは一夜にして、二階級上がって上等兵となったのだった。