ヴ帝国電撃訪問(前編)⑪
白いサッシュを無造作に脱ぎ捨てて、宮殿の窓から見える見事な夜景を眺めながら、皇帝・エミリオ3世は「むぅ……」と低く唸った。
相手は8歳の小娘。侮るつもりは無かったが、所詮シンボリックヒロインだと思っていたのは事実だった。
だが、迎賓館に入ってきたのは彼女一人で、お付きの者など居なかった。この時点で、エミリオの頭の後ろにチリチリと焦げる音が聞こえていた。
驚いたのは、席に着く否や、数々のデータ書類を引っ張り出してきて、挨拶もそこそこにいきなりプレゼンを始めた点である。
ヴ帝国側としては今日はレセプションで、明日以降会議を煮詰めていこうかと云う腹積もりであったのに、初手から出鼻を挫かれた事になる。
しかも提案の内容としては、ヴ帝国が欲しかった提案が全部盛り込まれていたのだ。
帝国…ひいては皇帝の責務とは。
戦争の責任であると言って過言ではない。戦争を始める責務。そして終わらせる責務だ。
先のマルマラ海沖に於ける敗戦は、誰がなんと擁護しようが、皇帝の責任に他ならない。そしてその兵士を慰労して鼓舞するのも、皇帝がやる必要である。
兵を疎かにし、使い捨ての駒扱いする国や王は荒廃の一途をたどるのが必定。
だからこそ王は自国の捕虜を何よりも優先して救出せねばならぬ。それは再侵攻か交渉かの違いはあれども。
その交渉にはもちろん、金品の補償が出てくる。だが、これをパンジール・ウルケーの幼き王女は否定した。
「陛下、我々が望むべきは取引ではありません……友好なのですよ」
そういってほほ笑む顔は、明らかに無垢な少女のそれではなく、海千山千の老獪な政治家の顔つきだった。
鹵獲艦の返還と捕虜交換(※とは言っても、ヴ帝国にパンジール等北部同盟の捕虜は殆んど居らず)、これをほぼ無償でやってくれるというのだ。そして見返りは和平条約。こっち側にとってあまりに都合が良すぎる。
いかな帝国とはいえ、人気商売である。敗戦以降、秘密裏に行ったセミ=パラチンスク要塞の軍事援助も裏目に出て損害を出し、しかもマスコミにリークされて、今や支持率は地に落ちてしまった。戦債が国庫を逼迫し、厭戦気分が帝国中に蔓延している。社会主義者達の地下組織が暗躍し、クーデター……なんて不穏な話も耳にしている。
今ここで捕虜返還が成されれば、エミリオの支持率も上がるし、美談にも仕立てられる。人材の確保はどこの国でも急務である。
だからこそ――
エミリオ3世は逡巡した。この提案、この幼き王女にとっての旨味は何だ?
というより、パンジール・ウルケーにとっての利点がある筈なのだ。それを見極めずして犬の様に尻尾を振っては、イニシアチブを彼等に奪われる。
“友好を築きたいから?”―ふざけた話だ。あの稀代の軍師サラディナ「ソーズリュック」が居るパンジールだぞ。そんな歯の浮くような話、信じられない。
“捕虜の為の経費が嵩む”―尤もらしい話だが、今までだって維持出来てたではないか。それに言いたくはないが……捕虜を皆殺しにしてしまえば敵の(※この場合、我が国だが…)生産力や兵力は著しく落ちる。維持費も掛らず経済的だと思う。が、そうでもないらしい。
“アトゥンの火との両面作戦は回避したい”―ふむ、そういう事も有るだろう。尤もこちらとて今は、侵攻作戦を行えるほどのペイロードが無い。何故なら…マルマラ海戦で一番損害が出たのは輸送艦だからだ。それにこう言っちゃなんだが、パンジール・ウルケーが今までやってきた作戦の殆どは、ウチから奪取した燃料や兵器が賄ってきたんだからな!
「…皇帝。我々の提案は実に単純明快で好条件だ。なのに王が決断を下せぬというのは、後々汚点を残しまするぞ?」
机に両手で頬杖を付いた王女が、ニタニタといやらしく笑った。
「む…しかし、独断即決というのはあり得ぬ話だ。閣僚と相談し、明日改めて……」
「エミリオ3世。私が聞きたい言葉は“イエス”オア“ノー”だけだ!」
この少女のどこからそんな声が出るのか、というくらいの大音量が皇帝の鼓膜を揺さぶった。
「キ、キングオブキングス……!」
エミリオ3世は呻きながら、彼女の後ろに扇子で口を隠しながら見下ろす、不愉快な男の幻影が確かに見えた気がした。
「……“イ、イエス”だ……!」
―こうして、電撃訪問と、電撃講和条約が締結されたのであった。
「エミリオ様。提案がございます」
迎賓館内、紙の束と共に取り残され、項垂れた皇帝の後ろに、大きな人影が近寄って来て耳打ちした。
実力者グループ筆頭の静かなる巨人、コリン・A・パウエル長官だった。
帝国軍には二つのグループが存在する。実力主義のたたき上げグループと、閨閥派だ。初代ヴ帝国の頃からの股肱の臣の系譜、それが閨閥を為してヴ帝国のコレステロールとなっている。
そのためカンフル剤として3世の肝いりの元、実力者を積極登用したのだが、これがとにかく閨閥と仲が悪く、お互いに足の引っ張り合いをするのがエミリオ3世の頭痛の種だった。
黒人だが知的なメガネ、そしてスーツの上から「ロード」を意味するサーコートを着こなした彼は、実力派の中でも穏健派で、両陣営の仲裁に欠かせぬ、帝国の心臓部である。
「エミリオ様。パンジール・ウルケーにこれ以上有用な人材を飼わせておくのは危険です。先ほど確認した所、マルマラ海戦の英雄も居ました。コレは千載一遇のチャンスですぞ!」
どういう意味か分からず、キョトンとする皇帝。いや、分かってはいたがシラを切ったという方が近いか。
「ヴ帝国の将来の為、彼の者らを亡き者にしてしまいましょう。表裏卑怯と罵られようと、ココで逃しては帝国にとって禍根を残しますぞ!」
背骨に電撃が走り、今までの事もあって思い切り馬鹿面を晒す皇帝。
「いや…幾らなんでも…それは……あまりに!」
こういう大胆な提案をしそうなのは、寧ろ閨閥派だというイメージだったので、パウエル長官からの提案だという事に動揺してしまう。
「陛下大丈夫です。スクエア・ガーデンで取り殺してしまっては流石に醜聞が立ちます。なので、帰りのリットン辺境伯領にて………」
エミリオ3世とて無能ではない。それどころか果断な王として定評がある。パウエル長官は本当にヴ帝国の事を案じての提案なのだという事はヒシヒシと理解出来た。
先ほどのライラ王女の剣幕、戦争に強い英雄、そして稀代の天才軍師、更に不敗の女王すら居る。敵のカードを消耗させねば、今は良くてもこれから先、どうなるのか分からないのだ。
「…なるほど……しかし絶対に我等の仕業とはバレぬ様に。幾重にも保険を掛けておくのだぞ」
「ハッ!」
低く発生し、首を垂れたまま後ろに下がるパウエル長官。
外で猫が鳴いている。
その声にすら、神経を尖らせている事にエミリオ3世は気付き、自嘲した。
「……慣れぬ事はするもんじゃないな」
「鴻門の会」がモチーフです。
パウエル長官のモデルは、パウエル長官ですw




