マルマラ沖海戦-⑩
ユピタルヌス歴322年。10の月、13日深夜。中央大陸北部パンジール地方一帯に於ける、全ての通信機に悲壮な叫び声が響き渡った。
「なんだ、この通信は!?」
溢れ出る苛立ちを隠さずに、サラディナ・マスーラ司令がHQ(本部)付きのレーダー室を訪れた。
『うわあああ、皆…皆死んじまっただ! 早く救援を送ってほしいだ! じゃないとオラの大好きなノラ・シアンさんも死んじまうだ!』
大音量で泣き叫ぶ声は、味方の士気を下げ、動揺を誘っている。
ジッと黙って聞いていたフィデル・マスーラ参謀が扇子越しに通信を切るよう、伝えた。
「し、しかし……」
通信士が申し訳無さそうに参謀の方へと振り向いた。
「こ、この通信は強制コネクトで全軍にオープンチャンネルになっています。こちらから何かすることは出来ないんです。向こうの通信機が壊れない限り……!」
「す、すると。この放送が途切れた時……」
サラディナ司令の喉が鳴った。そう、放送が途切れた時……それは部隊の全滅を意味する。
ただ、それはこの作戦の失敗も意味する。
『ベシ先任曹長はいつも飲んだくれてて、いつも人の頭を殴ってばっかだったけど、オラ達を助けるために敵部隊に特攻して果ててしまっただ!』
「ええい、この本部の電源を切れ!」
突如、扇子を投げ捨ててフィデル参謀が立ち上がった。いつもの鷹揚な姿勢はどこへやら、あからさまに眉間に皺を寄せている。
「し、しかしそうすると、全軍への指示や状況確認が取れなくなってしまいますが…!?」
「いいから切るんだ!」
声を荒げたフィデルをサラーフ司令が抱きかかえて止める。
「ど、どうしたんだフィデル!? 君らしくないぞ!」
「……なんで」
「え?」
「……なんだってあの声は人の心を揺さぶるんだ! 情けなくって惨めたらしくって、それでも聞き逃したくなくなる…そういう声だ! だから!」
一拍置いて、サラーフ司令は生まれて初めてフィデルの怒鳴り声を聞いた。
「我が軍がアレを聴いたら、やる気を失くすか暴走するに違いない! だから止めるんだ!」
『ビル上等兵は勇猛果敢に敵艦に肉薄してただ…でも敵の集中砲火を浴びて、爆散してしまっただ…嗚呼、敵の砲撃がこっちにも集中してるだ! 弾ももう無いですだ! 助けて…助けて下さい!』
フィデルの読み通り、暴走している老人が一人いた。
マルマラ海の大海賊、ドン・ボルゾックだ。
「うおおおお、ノラ・シアンがピンチだ! 野郎共、助けに行くぞぉぉぉ!」
「ダメですぜ、親分。今はうちらだって敵艦と交戦中なんだ! 助けに行くほど手の内は割けませんぜ!」
文字通り、全身で怒れる猛牛を押し留めるはドン・ボルゾック艦隊の副長デイル。
ドン・ボルゾック艦隊は、敵の主力艦が抜けて後方に取り残されていた、鈍重な輸送艦を中心とした敵艦隊を強襲していた。敵艦を構成するのはクロフツ級強襲揚陸艦やケイン級輸送艦ばかりで、攻撃力のある艦は殆ど居ない。皆、ノラ・シアンの属するタブシャン(うさぎ)隊を追っかけていなくなってしまったのだ。
だから入れ食い状態。たかが十数隻のドン・ボルゾック艦隊がアレよアレよと、次々に拿捕していく。そんな時に例の通信が聞こえてきたのだ。
「馬鹿野郎デイル、馬鹿野郎! 海の男が義理を欠いてどうするんだ!」
なんで「馬鹿野郎」を二回言ったのか…デイルはぼんやりと頭の片隅で突っ込んでいた。ただ現実は逼迫している。
「親分が居ないと統率が取れやせん! ノラの餓鬼一人と、俺達…どっちが大切なんですか!!」
『ドルト一等兵は物知りで静かな性格の人で、戦争が嫌だっただ。でも家族の為、敵に勇敢に突っ込んで行って散ってしまっただ…子供にプレゼントを渡すのが楽しみだったのに…誰か…誰か助けてくれろ!』
「うおおお、死ぬなノラ! オレが、オレが今から助けに行くぞ!」
「親分、さっさと此処を制圧するんです。そうすりゃ助けに行けますから!」
「くっそおおおお、ちきしょおおお!」
抑えながらデイル副長は、信じられないものを見て、自分の目を疑った。
号泣して身を震わせているのだ…悪魔と恐れられた、マルマラ海の覇者が。こりゃ、一大事だ。
『アッアッアッ…今、イキ一等兵の艇が爆発四散してしまっただ! あああ…イキ上等兵はこの戦争が終わったら結婚を申し込みたいって言ってた女の人がいた筈なのに…!』
通信が響き渡っているのは何も、パンジールウルケー軍だけではない。ヴ帝国艦隊も強制的に聞く羽目になっていた。
「なんなんだ、この通信は! これも敵の作戦なのか!」
苛立ちを隠せないのは、いつもより困り八の字眉毛をもっと困らせているガルーダ中将。
「中将殿、後続のマーガレット艦隊より、敵の急襲を告げる報告が為されてます! あんな小さい敵の羽虫…放っておいて、マーガレット艦隊を救援しに戻りましょう!」
副官で如何にも上品な執事の佇まいをした、ウォルター中佐が些か色を為して、注進申し上げる。
「馬鹿者、コレは私の初戦なのだ! 獅子は兎を狩るにも全力で行うとある……それをあんなゴミクズ共に主力艦を挫かれておめおめと引き下がれるか! いいか、我々はヴ帝国艦隊ではない…ヴ帝国“無敵”艦隊なのだぞ!」
血走った眼を剥いて、ウォルターを一喝するガルーダ。
「しかし…そうは申しましても、地味にパンジール領からの対空砲撃が我等の戦力を削っております。損害率は30%を超えております。深追いは禁物ですぞ!」
「くふぅ…オノレ…我が栄光のエラリィ・クイーン級中核艦隊を小馬鹿にするなぞ、以ての外! もう敵も残るところ数えるまでも無いほどだ。全部血祭りにあげてから直ぐに戻れば良い!」
…これ以上は何を言っても無駄か。己の引き際を感じて、ウォルターは引き下がった。
『デカ伍長はいつも大胆不敵で、頭の回転の速いお人だっただ! でも、敵を阻塞気球帯に引き込んだ後、撃墜されただ! 皆良い奴じゃなかったけど…だからといってこんな戦争で死んでイイ訳ねえだ! 何で偉い人は戦争をしてしまうんだ? 早く…なんで誰も助けに来てくれねえんだ、助けて…助けて!』
「マーガレット艦隊が救援信号を発してます。恐れながら私めに後詰の艦隊を指揮させて下さい。“ハウンド”の異名を以て、敵艦を駆逐する事を約束します!」
恭しく傅く金髪の好青年…だが声は急いている。そう、ヴ帝国一の電撃戦の名手、オニール・アジーン准将だ。
「うむ、オニール。では……」
「お待ちください、陛下」
エミリオⅢ世の了承を下そうとするのを、二つの声が押し留めた。
一人は言わずと知れたパウエル長官。もう一人は先の大戦の最大功績者、カニンガム元帥である。
カニンガムこそ、貴族軍閥派の首領であり、ガルーダの後見役でもある。
そのカニンガム元帥が、パウエル長官を片眼鏡越しに睨んで牽制する。
「貴公が先に言った通り、軍師“ソーズリュック”の罠がまだ続いているとしたら?」
何も言えずに押し黙ったパウエル長官の懸念は、オニールも一抹の不安として抱えてはいる。
「ですが、長官。パンジール・ウルケーの国力を俯瞰して見ても、これ以上の戦力を持っているとは思えません」
「黙らっしゃい! 若造が!」
突然の一喝に首を竦める。オニール。くそぅ…こういう反応してしまう辺り、まだまだ若造と言われても言い返す事が出来ないと、やや自己嫌悪になる。
「貴様はガルーダ中将の名誉を汚すつもりか。それとも手柄を横取りしたいという浅ましさか!」
「いえ、そんなつもりは……」
「オニール准将。貴公の気持ちも十分分かるが、マーガレット少将も凡庸ではない。何とか切り抜けると信じよう」
「ハッ」
「それに味方の先遣部隊は1500隻を超える。敵が幾ら奇襲を掛けたとしても、せいぜい数十隻。彼我の差はあまりに大きい。マーガレット艦隊も救援も一時的な混乱によるものだろう」
果たして、そうだろうか? モヤモヤとした渦が心を覆っていく……が、自分に許された立場では、コレが精一杯か。黙ってスゴスゴと引き下がってしまう事に、唇を噛むオニール准将。
「……しかし、この敵の一斉通信は何を意味しておるのだろうか」
皇帝がぼそりと呟いた。
『ああああ…ウチュ上等兵がやられちまっただ! どんな戦でも必ず生きて帰るって言ってたウチュさんも死んでしまっただ! もう、オラ達の機体しか残ってないだ! ノラさんの気力ももう限界ですだ…誰か、誰か助けてくれろ!』
通信は未だ続いている。