マルマラ沖海戦ー②
意気揚々と還って来たノラ・シアンを待っていたのは鉄拳だった。
「てめえ、そんな短期に階級上がりやがって……オレの地位を狙ってやがるな、クソ野郎!!」
ガマガエルの様な反吐の出る濁声、ベシ曹長から罵声を浴びていきなり殴られた。
1:コイツは酔っぱらってるから言い訳を聞く耳を持っていない。
2:酔いどれなのでそんなにパンチ力も無い。そして体力も続かない。
…瞬時にそれを把握して、悪罵を噛みしめる。唇の端を切ったかもしれないが、それを拭えば相手の攻撃心を増長させるのは、長い長い底辺生活で身に染みている。
「いいか、勘違いするなよ。てめえが急に二階級も特進したのは、偏に運とコネのせいだ。せいぜい、戦場でその運を使い果たさねえように気を付けな!?」
後ろでビル上等兵が今までに無い荒んだ目でこちらを哂いつつ呟く。
「戦場では後ろからの銃にも気を付けるんだな……」
ヤバい……出る杭は打たれるのは世の常とはいえ、自分が少々杭としてはみ出し過ぎた事に、ノラ・シアンは自覚した。
「す、すみません! じ、自分は図らずも特進してしまいましたが、まだ右も左も分からぬ若造です! お願いですから、見捨てないで下せえ!」
ガバリと平伏して涙と鼻水を垂れ流す。そして曹長殿の軍靴に縋って舐めんばかりの勢いでオイオイと泣き始めた。
「フン…卑賎民はこれだから!」
鼻を鳴らし、足を振り払いつつも満更でもない様子でガマガエルが喉を鳴らした。
「おい、キタネエ卑賎民。そういや、てめえにも後輩が出来たぞ。せいぜい可愛がってやんな」
ガマガエルに付いて去ろうとするビル一等兵が、吐き捨てる様に大切なセリフを残す。
暗闇からオズオズと黒い国民服を着た兵士が出ていたので、しまったと思った。
黒の国民服は卑賎民を表す。かくいうオレの服も黒だ。
(あ、マズい……泣き喚いた所を見られた。先輩に威厳とか全然示せないじゃないか)
そんな気まずい気持ちになって、慌てて涙を引っ込めつつ、慌てて立ち上がり体裁を整える。
「や、やあ。新人君。僕はノラ・シアンていうんだ。…とは言っても、君より数時間早く入隊しただけだけどね。ヨロシク」
手を差し伸べてもその黒い新人は怯えて声を出さない。
「無駄だよ、シアン上等兵。コイツは声が出ない」
脇でずっと無言で立っていたデカ伍長が代わりに応えた。
「コイツは最下層の卑賎民。“唖”だよ。喋れねえんだ。俺がさっき下水に居たのを捕まえてきたんだ」
…じゃあ本人が兵隊に入るという意思決定も無しに拉致してきたという事か!?
「おい、そんな目で見るんじゃねえよ。おめえは分かってねえが、もうこの国はもうダメだ。老若男女問わず、大なり小なりそう思っている」
オレの意思を汲み取ったデカ伍長が、一人語りをする。
「全国民玉砕だってね。軍の上層部はそう思っている。遅かれ早かれ皆死んじまう。だから、いっそどんな奴でも…例え、肉の盾としてでも使えと…そう思ってるのさ。お前が思うような人権は、この場所には既に存在しねえ!」
「…ッ銃は?」
「は?」
「彼は銃を持ってないじゃないですか。それも“どうせすぐ死ぬから”渡さないのですか?」
「いや。コイツは通信兵だ。通信が主任務だから銃は無い」
何を言ってるんだ。彼は喋る事が出来ないんだろう!?
喋る事の出来ない通信兵なんて、どんな冗談だ。
「お前も分かってるんだろう? この星には圧倒的に火薬が少ない。この星では火薬が採取できないので、全部地球からの輸入に頼ってるからだ」
「…だから、卑賎民は銃を持って戦う事すら出来ないのか!?」
「文句言うのなら、軍のお偉いさんだな。それと言っておくが、お前の持ってる銃は、オレの恩情で支給されたんだからな。感謝すれど、今みたいに文句言われるのは筋違いってもんだ?」
肩を竦めてヤレヤレという風情のデカ伍長。
なるほど…確かにデカ伍長の言い分も一理ある。いくら卑賎民が蔑まれているとはいえ、銃も支給できないというのは軍上層部の問題でもある。
「ならば、オレの銃を彼に支給しても文句はないな?」
ボルトアクションの古い小銃だが、持っているだけで心強かった。だが、何よりこの理不尽が我慢出来なかった。
「…おめえは良いのか?」
「俺にはこのナイフがある!」
母と旅を共にしている時から使い慣れた長ナイフ。とはいえ1オルタ(約15センチ)のものでは……どうせ死ぬというのならこっちの方が信頼が出来る。
「さあ、この銃を持っていきなよ……あ、君の名前は?」
もみあげが長い黒髪の少年は、涙目になって何度も頷き、銃を推し戴いた。
「コイツ……コイツの名前はドブロク。さっき、小隊長がそう名付けた」
面倒くさそうに首筋を掻きながら、デカ伍長が代わりに答える。
「…しかしノラ・シアン。おめえ、オレに対しては妙に態度がデカいな!」
「それは違うよ、デカ伍長殿。オレはアンタを信用してるんだ。アンタは軍の裏も表も知ってる。だけど……」
オレは諸国を渡り歩いた商人の息子だ。だから誰が実質的な決定権を持っているか直ぐに判断出来る。
この小隊はあのベシ先任曹長ではなく、デカ伍長で保っている。
だからこそ、この人は『アライメント』、つまり人事調整能力があるのだ。
現に無駄に怒鳴らず、殴ったりもしない。戦場で兵の数がモノをいうのを知ってるからだ。
「だけどアンタはズルい!」
「フッ……ノラ・シアン。良い観察眼だ。おめえは使えそうだ、俺が出世したら取り立ててやんよ。その代り、おめえが出世したら、俺を掬い取れ。良いな?」
初めて野趣溢れる顔つきをするデカ伍長。今までの澄ました顔はどこへやらだ。というか、この顔こそ本来の彼の顔なんだろう。
「デカ伍長。アンタ……言ってるほど、この国が終わるとかこの戦争で滅ぶと思ってないようだな?」
「当たり前じゃねえか…!」
ぐいと顔を近づけるデカ伍長。
「俺とお前が居るからだ!」