消えない記憶、なくならない味
私の母は、小さな食堂を経営していた。
もともと飲食店を立ち上げるのが夢だったらしく、父の伝手で商店街の一角に店を構えることができたらしい。
私を産んでからは育児との両立で大変だったらしいが、少ない従業員と楽しく経営していた。商店街というのもあって常連のお客さんが多く、毎日店内が賑やかだったことをよく覚えている。
小学生になった頃から積極的にお店を手伝い、小さなウェートレスとしてお客さんにも親しまれていた。母も私の働きに心の底から喜んでいた。
他の家族よりも得をしたと感じるのは、いつも美味しい夕食が食べられたことだろうか。余り物ではあったが、料理人である母の料理はどれも美味しかった。
特に気に入っていたのがカレーライス。中でも牛スジカレーだった。あまりメジャーではないが、うちの裏メニューとして店を支えてきた逸品だ。
トロトロになるまで煮込んだ牛スジは口の中に入れると途端にとろけ出し、しつこくない上質な脂がルーと絡み合い、絶妙な味わいのあるカレーだった。カレーの肉は何派かと聞かれれば、私は迷わず牛スジ派だと答える。
幼少期から食べていたそれは記憶によく残っていて、今でも大好物だ。
その料理は、もう二度と食べられなくなってしまった。
私が中学生になった夏。あまりに突然の不幸だった。母はあまり体が強くなかったが、それを感じさせないくらい明るく、毎日笑っていた。そんな人が厨房で突然倒れ、救急車で運ばれたときは、えも言われぬ絶望を感じ取っていた。
病院のベッドで冷たくなった母の手の感触を今でも覚えている。温かくて少し硬いあの手は、もう私の頭を撫でてくれない。あの明るい笑顔は、もう二度と見ることはできない。あの店のカレーを食べることは、もう二度と―――
拭いきることのできない悲しみに捕らわれ続け、私の性格は日に日に暗いものになっていった。休日もどこに出かけるでもなく、ただぼうっと過ごし、学校でも一人で過ごす時間のほうが長かった。
最後に笑ったときが思い出せないほど、私の感情は真っ暗な扉の奥へと塞ぎ込まれてしまった。
上京して大学二年生になった今もそれが変わることは無く、何を目指すわけでもなくただ陰鬱な日々を過ごしていた。
「冷蔵庫、空だ……何か食べに行こう」
一人暮らしの食生活とは不規則なもので、つくるよりも外食や中食がほとんどだ。
それに、今は料理などつくりたくない。一度だけ、あのカレーを再現しようとしたが結果はよくなかった。ル―ももう少し甘かったし、具がゴロゴロしていてまとまりがない。何より牛スジに味が浸みず、カレーの中で存在が確実に浮いていた。
あまりの違いに衝撃を受け、思わず涙を零したっけ。
比較的近いショッピングモールへ赴き、いくつかのお店が並ぶフードコートに立ち寄った。様々な料理の匂いが漂う中、ふと一つの店が目に止まる。
カレーをメインに置いているらしい。今日はカレーでいいかと思いつつ、メニューを眺める。
私は一度目を疑った。それは並ぶメニューの中に「牛スジカレー」があったからだった。全国的にもあまりメジャーではないし、飲食店のメニューに並ぶようなことは滅多にないはずだった。
あの味を思い出す。もしも、もしもこれがあの味だったならば―――いや、いっそ似ていなくてもいいとさえ思えた。
私は考える間もなく牛スジカレーを注文し、できたてのそれを自分の席に持ち帰り、スプーンですくって口に放り込んだ。
「……っ!」
同じだ。あのときとまったく同じといえば難しいが、確かに私の記憶にある味が舌の上で蘇った。
歯ごたえのあるにんじんとジャガイモ。トロトロに煮込まれた牛スジはルーとよくマッチし、互いの味を生かし合っている。ル―も辛過ぎず、またほどよく甘い。なにより、その料理は暖かかった。
ふと思い出す、食堂の雰囲気。常連さんたちの笑い声と、忙しなく動き回る従業員。そして、母の笑顔。
「もしかして、香里ちゃん? 香里ちゃんだよね?」
ふとかけられた声に振り返る。エプロンを巻いた 30 代くらいの男性は、人懐こい笑顔で接してきた。当の私には見覚えがなく、首を傾げていると、男性は続ける。
「顔は覚えてないかな? 学生時代に三嶋食堂でバイトをしてた従業員だよ。香里ちゃん、いつもお手伝いしてたからよく覚えてるよ」
それで思い出した。彼はお店が始まった頃からバイトをしていた従業員で、就職のときに辞めてしまった男性だ。いなくなったことに少し寂しさを感じたことを覚えている。
「あっあのときの……」
「よかった。もしかしてと思って思わず声をかけたけど、違ったらどうしようかと……」
そう言って苦笑いする彼は、どこか懐かしい雰囲気を感じた。そして理解する。この味は、間違いなく―――
「あの、このカレー」
「どうかな? 俺もこのカレーは大好きだったから、真似してみたんだ。味は違うと思うけど、俺なりに近づけられた気がするよ」
声が出なかった。決して悲しいわけではなく、ただただこの味に再び出逢えたことに、感動していた。もう出逢うことは無いと思っていた、母のカレー。
例えいなくなったとしても、こうして誰かがその味を覚え、また誰かに伝えていく。それはどこか、母がまだ生きているとさえ錯覚した。
感想を伝えたいのだが、上手く言葉に出せない。そしてそれは、目から流れ落ちる涙に変わった。
「そ、そんなに違かったかな?! えと、できるだけ再現してみたんだけど」
「いえ、いえ……すごく、美味しいです……」
それからカレーを食べきるまで、涙は流れ続けた。一口一口、味わう度に母との思い出が蘇ってくる。
どこかで忘れようとしていた記憶。失った感情、時間。すべてがこの一皿に込められていて、ひどく胸が締め付けられた。
母の残したこのカレーがある限り、私は一生忘れることはないだろう。
この想いを、忘れてはいけない。
完食してから間もなく、泣き止んだ私はしばし遠くを眺めていた。感傷に浸った後に、ようやく私にも、生きる希望があるのだと確信した。
「あの、もしよかったら、ここでバイトさせてくれませんか?」
これは一皿のカレーが紡いだ、ある親子の話である。