5 呼びかける存在
水平線の彼方に、夕日が沈もうとしていた。
ネナダ湿地帯を望む草地には、数人の人々が集まっている。湿地帯を管理する管理事務所の所員が三人と、《ザ・ワンド》の編成師リユラ、詠唱師ルスラン、そして構築師ザナトだ。
ルスランは赤い裏地の黒マント、その下の服も黒に赤のアクセントが入った詠唱師の制服。ザナトも白シャツと黒のベストにズボンで、枯れた草の色の中に彼らの姿は浮かび上がって見えていた。
リユラは、真っ先に到着したルスランと呪文譜を見ながら打ち合わせをしていたのだが、後からザナトがやってきたのを見て少々驚いた。
「ザナト! お久しぶりです。えっ、自腹で来たんですか?」
「仕事だ。ズルフィヤ湖沼地帯から来た」
「へ?」
「湖沼地帯に行くのを仕事扱いにしてもらったんだ。キーテスを二十日頃にネナダ湿地帯に到着させたい、そうすれば詠唱の成果がすぐにわかるから、っつってルスランの上司を説得した。で、転移譜でズルフィヤに行ってちょっと、な」
「キーテスを、湖沼地帯から追い立てたってことですか?」
「まあ、ぶっちゃけそういうこと」
渡り鳥キーテスは、繁殖地に知らない人間が入ってくると不安になるらしい。ザナトが湖沼地帯をうろうろするうちに、出立の準備を始めた。おそらく本来は、もう数日は後になる予定だったに違いない。
「出発を確かめてから、俺もズルフィヤを出発してこっちに来た。もちろん、仕事だから転移譜でな」
まったくもう、とリユラはちょっと呆れ顔になったが、すぐに空を気にして「そっか、もうこっちに向かってるんだ」と目を輝かた。
そんなリユラは、一ヶ月近く野営をしていた割にこざっぱりしている。
「つーか、さっぱりしすぎだろ。お前、デコの紋様はどうしたんだ」
ザナトに言われたリユラは、額に触れながら照れ笑いを浮かべる。
「今日だけはナシです。今朝、町でお風呂に入って来ちゃいました」
その額にも、腕にも、いつも染料で描いている紋様はない。髪は下ろし、服装もゆったりした私服で、首回りの開いた生成のワンピース姿だ。少し幼く見える。
「今回の呪文譜は、渡り鳥たちを導くために大きく大きく展開します。せっかく潔斎したし、身体を覆ったり締めつけたりしたりするものもなるべく少なくして、精霊と触れ合いながら完成させようと思って」
一日くらいは、長老も怒らないと思うし……と、何やらぶつぶつ言っているリユラである。
ザナトは「そういうものか」と唸った。リユラが向きを変えた拍子に、襟ぐりから背中の紋様がちらりと覗く。
「背中の紋様は落とさなかったなんだな」
「ああ、そっちは消えません」
(消えない? 本格的な入れ墨か?)
気になったザナトだが、まさか「よく見せろ」とも言えない。
「って待てよ、じゃあ、まだ呪文譜は完成してないのか?」
「はい」
リユラはうなずく。
「ルスランの詠唱と一緒に、完成させます」
「わくわくするな! よろしく、リユラ」
黒い表紙の呪文譜を片腕で抱えるように持ったルスランが、声を弾ませる。リユラは「はい! がんばりましょう!」とにこにこして、彼とハイタッチした。
そうこうしている間に完全に日は落ち、あたりは暗闇に包まれた。
岩の上にぽつんと置かれたランタンの明かりだけが、近くに集まった人々の顔を下から照らしている。
「光の精霊が最も好む条件だな。町から遠く、電気の明かりはなく」
ザナトがつぶやくと、リユラはランタンに手を伸ばす。
「これも、そろそろ消しますよ」
ふうっ、と、あたりは真っ暗になった。
ジジジジジ、と、まるでネジを巻くような音で虫が鳴いている。一陣の風が通り抜け、低木の枝をひゅうっと鳴らした。その風は湿原に向かい、草と水面を波頭のように光らせながら走り抜けていく。
風を光らせたのは、星灯りだ。
その場の全員が、自然に空を見上げた。
夜の闇に慣れた目に、星々がその姿を見せる。星屑は川のように流れ、ひときわ大きな星は空のあちらこちらで、思いがけないほど豊かな色彩を放っていた。赤い星、青い星、紫の星が空に遊ぶ。
「始めよう」
ルスランの声が、秋の冷たく澄んだ空気の中に、温度を持って広がった。
開かれた呪文譜が、ぼうっと四角く光る。ルスランの杖先が譜面でポンと弾んだ瞬間、光をまとった黒い線が螺旋を描きながら夜空に駆け上がった。線は絡み合ったり離れたりしながら、大きな円を形作る。
「でかい」
ザナトは口の中でつぶやいた。人間の視界いっぱいまで、呪文譜は広がっていく。
光る線を文字や記号が追いかけていき、線の上に収まるのと同時に円が閉じた。
その瞬間、ルスランの詠唱が始まった。
『キツェニナダの地で、我、ルスランは精霊たちに呼びかけるものである。キーテスが翼を休める地の精霊たちよ、目覚めよ、唱和せよ、標となれ』
ネナダの古い地名が、その地に棲む精霊たちを揺り起こす。あたりの空気が濃くなる。
「目覚めよ、の呪文は、変だったかな」
ザナトの隣にいたリユラが囁いた。
「もう、とっくに目覚めてた。いつも感じていました」
「お前がここで色々やってたからじゃないか?」
「そうかも」
ふふ、と笑い、そしてリユラはザナトから離れて静かにルスランに近づく。ルスランはちらりとリユラを見て、さらに詠唱を続けた。
『北風よ、草と水の匂いを抱いて、翼を迎えに空を駆けよ』
草の色が呪文譜の線に乗り、湿地に棲む魚たちの幻影が水滴を光らせて飛び跳ねた。様々な風景を、呪文譜が鳥たちに見せるのだ。彼らの故郷がどこなのかを知らしめるために。
ルスランの隣に立ったリユラが、ピーラに杖を軽く当ててから、腕をまっすぐ上に伸ばして天を指した。呪文記録から呼び出された呪文が、ピーラを飛び出して天に昇っていく。
その動きに煽られるように、詠唱の声が高まった。深く遠く、夜空に響く。
『翼よ、秋の星座の灯火を追え』
まるで流星群のように、いくつもの光が空から尾を引いて降ってきた。
管理事務所の所員たちが息を呑む。光の精霊だ。
光はまっすぐリユラに落ち、彼女の杖先に飛び込んで火花を散らした。ぐっ、と踏ん張ったリユラは一度大きく杖を回すと、空に展開した呪文譜の所々を、次々に指した。今度は杖から光がいくつも飛び出し、呪文譜の上に、ぽっ、ぽっぽっ、と灯りが点る。
あっ、と、管理事務所の所長が声を上げた。
「『恋人の爪座』!」
それは、イルダリア創世神話にまつわる星座だった。神に愛されて天に昇った人間の娘が、タブーを犯して天界を追放される。彼女が落とされまいとして空に残した爪痕――北の空に、この季節になると浮かぶ星座だ。
「キーテスは夜間に渡りを行う……だから、星座を道標にする呪文譜を作ったのね」
所長がつぶやく。
リユラは呪文譜の仕上げに、空の星座を写し取ったのだ。星々の最も明るい新月の夜を選んで。
空に浮かぶ秋の星座よりも、より強く明るく、呪文譜の星座は鳥たちを導く。沖合の島が狂わせる感覚から、両手を広げて包み込むように、海の上を行く鳥たちを守る。
ルスランの詠唱が余韻を残して終わり、空気に溶けた。
呪文が始まる前の空気が戻ってきた頃――
まるで夜空に光が射すように、コォ、コォッ、と澄んだ声が聞こえた。
所員たちが真っ先にその声に気づく。
「キーテスだ!」
羽ばたきの音は少しずつ大きくなり、増えていき、やがて空からザアッと舞い降りてきた。
「わっ」
「ひゃあっ」
勢いあまったのか、鳥の群は湿地帯ではなく呪文譜や詠唱師に突っ込んでしまった。周囲の人々は皆、巻き込まれてしまう。
「ちょ、お前らの着陸場はここじゃねぇ! あっちだ!」
ザナトはあわててその場を逃げ出し、ルスランは顔に突っ込まれてひっくり返り、リユラは悲鳴を上げつつもケラケラと笑い出した。
「素敵に調和しましたね!」
所長たち関係者が、笑いながら拍手した。
次々と飛来したキーテスたちは、やがて落ち着いて湿地帯で身体を休め始めた。集まっていた人々はここで夜明かしする準備をしてきていたため、リユラたちをねぎらってからそれぞれのテントに引き取る。
ザナトとルスラン、そしてリユラは、荒野の大岩の上に腰かけて温めた酒を飲んでいた。
「キーテスの羽がいっぱい。これ、何かに使えるかな」
リユラは指先で羽をくるくると回し、空を見上げた。
空には大きく、呪文譜が輝いている。到着していないキーテスの群がまだいると思われるため、数日はこのままだ。呪文譜の上の『恋人の爪座』も、美しくきらめいていた。
「船を導く灯台みたい」
輝く星座を見上げながら、リユラが小さくため息をついた。ザナトはカップから一口飲んで、答える。
「船を漕いでるやつはここにもいるけどな」
ルスランが、こっくりこっくりと頭を揺らしていた。リユラはくすくすと笑い、彼の手からカップが落ちないようにそっと引き取る。
「テントに寝かせて来る」
ザナトはルスランの腕を引き、肩に引っ張り上げるようにして、うなり声を上げるルスランを自分たちのテントまで連れて行った。
寝具の上に彼を転がし、毛布をかけてからテントを出る。岩のところまで戻り、リユラの隣に腰掛けた。
「今日の呪文譜も、見事だった」
ザナトは素直な気持ちで、彼女の編成を褒めた。リユラは笑顔で答える。
そしてザナトは考え込んだ。
「もしかして、始祖語は文字だけじゃなくて、光とか他の要素がないとうまく伝わらない、とか? だとすると、それを補う道具が必要かも……」
ふと気づくと、リユラまでウトウトしている。
「リユラ、お前ももう寝ろ。お疲れさん」
「……へい」
リユラはザナトに手を引かれるまま、岩から立ち上がった。ザナトはルスランと同様に肩に引っ張り上げ、彼女のテントに向かう。
リユラを放り込んで毛布をかけ、テントを出たザナトは、
「俺も寝るか」
とつぶやいてルスランと同じテントに向かったのだが――
――テントに這い込もうとしたその時、背後で気配が動いた。
振り向くと、たった今テントに入れたリユラが、また這いだしてきている。
彼女は茫洋とした表情で、あたりを不思議そうに見回すと、ふらりと立ち上がった。
「……誰? 呼んだ?」
(寝ぼけてんのか)
ザナトは軽くため息をついて立ち上がる。
「誰も呼んでない。ほら、戻……」
その時、彼の背中に寒気が走った。
(この感覚は)
ハッとしてあたりを見回す。
夏にメダラ山で感じた、あの気配が、テントの周りを取り巻いていた。
精霊が、少しずつ集まってきている。リユラを、見つめている。メダラ山の時よりも、気配はより明確な意志を持って、リユラを自分の世界に引きずり込もうとしている。
リユラが、足を踏み出した。湿地帯の方へ。
とっさに、ザナトは背後からリユラに腕を伸ばした。胸の中に引き込み、耳元で囁く。
「俺だ。俺がリユラを呼んだだけだ」
「……ザナト?」
「そうだ。ほら、寝るぞ」
「うん……」
リユラがふわりと、ザナトに身体を預ける。
「ねぇ……ザナト……」
「何だ」
「私……あっちに行きたくないの……」
焦点の合わない目をしたリユラは、眉を潜めた。
「行きたくないのに……」
ザナトはもう一度、さっ、とあたりを見回した。
そして、リユラを引きずるようにしてテントに入り込むと、置かれていた敷布でリユラをくるんだ。片手で杖を取り出し、簡単な呪文を詠唱する。
『汝の求めるものは、ここにはない』
姿を隠す呪文だ。
リユラとザナトを取り巻く気配は、探している対象を見失ったようだ。ゆっくりと、テントの周りを気配がうごめくのがわかる。
やがて、気配は静かに消えていった。
「……はー……」
緊張を緩めたザナトは、こっそりと、しかし長く息をついた。そして、腕の中にあるリユラの顔をのぞき込む。
リユラはザナトの服をしっかりつかんだまま、寝息をたてていた。
「お前……一体、何なんだ」
ザナトはため息混じりにつぶやいた。
「ザナト! ちょっとザナト!」
翌朝、ぐいぐいと引っ張られてザナトが目を覚ますと、先に起きたルスランが彼をテントの外に引っ張り出しているところだった。
「ちょ、何でリユラのテントで一緒に寝てんの!?」
「別に何もしてない……いいじゃねぇか、俺たちは専属なんだし」
あくび混じりにザナトが言うと、
「それはセクハラ!」
とルスランは噛みつく。
ザナトはテントの方を振り向いた。ゆっくりと身体を起こしたリユラが、軽く目をこすっている。
今日、《ザ・ワンド》に帰還して書類を出せば、ザナトとリユラは専属のつながりができるのだ。
そしてそれはもしかしたら、リユラの謎にもう一歩近づくきっかけになるのかもしれない――と、ザナトは思うのだった。
【CASE・3 終】