音楽と甘い序曲と
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この世界は決して娯楽が多いとは言えない。
やはりテレビメディアの力と、ネット社会の幅広い楽しみ、というのは失ってからわかるものであった。
でも、この世界に来て、とても満喫しているものがある。
音楽の生演奏だ。
管弦楽器はほぼ同じものがある。現代的なピアノはまだ流石に無く、弦を引っかいて音を出すハープシコードと、弦を叩いて音を出すフォルテピアノがあった。正直歓喜した。
時間があるときには、演奏家の人々を屋敷に招いた。前世では音楽好きであったから、この自宅で生演奏が聴くことができる贅沢にはとても感動した。
ある演奏家が、フォルテピアノで、シラソラド、レドシドミ、ファミレミシラソラシラソラド~、とオリエントの入り口あたりの行進曲を弾いたときは、とても驚いた。元の世界のクラシック音楽を、また聴けるなんて! と僕は本当に喜んだ。
リズや、コーンローズ公爵が訪ねてくる際にはほぼ毎回楽団を呼んでいた。おおいに喜んでくれたのは、コーンローズ公爵ではあったが。リズは明るく開放的な曲は好んだが、短調の重厚な曲に対しては、なんだか趣味ではありません、と言ったりする。
さて、今回のリズの訪問である。リズの好みに合うように、ヴァイオリン二挺、ヴィオラ、チェロの弦楽四重奏の予定である。明るく華やかなものをお願いしてある。
リズと一緒に音楽を聴くときは、一人掛けの椅子に隣同士に座っていた。
今日もいつもの指定席に座ろうかな、とリズと手をつないだまま椅子に向かおうと思うと、リズに手を引かれた。
どうしたんだろう、と思ってリズを見ると、ただ佇んだまま。少しだけ首を傾げてみると、リズが瞳だけを動かして、二人掛けの椅子を見た。まじかー。
壁沿いにしか置いていない、座るとは思わなかったから。部屋の中央に近いところの二人掛けの椅子へと歩きなおす。今度は手を引かれることも無かった。
僕たちの様子を見て、使用人の皆さんが目配せをしている。家政婦長に、ごめんね、といった目を向けると、任せておきなさい、とでもいうような頼もしい目を見せられた。
そして、椅子に座る。つないだ手が真ん中に置かれる。あれっ、と思った。二人掛けの椅子だから、肩を寄せ合うように座ると思うじゃない。寄せ合おうにも、その手はつながれたままで、自由にならない。離して肩を寄せたいのだけれども、リズが手を離してくれなかった。微妙な距離感がもどかしい。でもリズの照れくささかな、と思うといじらしい。
そんなこんなでリズとは手をつないだまま、演奏を聴くことになる。
春、と題された四重奏曲と言われた。
はじまりは、穏やかな春の息吹を感じさせる主題。まだ、まどろみの残る春をそのテンポから感じさせられる。全体的にスラーが効いた旋律は、初春の暖かさは決して吹き消えるものではなく、生命の力強さと同じように、確かな温もりが地面の下からじんわりと湧き上がってくるようである、といっているかのよう。そして最後はスタッカートを効かせて軽快に閉じており、いたずらな春の訪れも思い起こさせる。
第二楽章はメヌエットではじまった。三拍子でゆったりとしたリズムはまさに優雅である。思い浮かべるのは花の萌芽か。途中短調に転調し、寒さが戻ってきた中に佇む花芽を曲の中に見る。けれども、暖かさは舞い戻り、芽が綻ぶのを楽しみに待つのだ。
続いたのは穏やかな曲調。低音のチェロがしっかりと曲を支える中、高音のヴァイオリンが華やかに歌う様は、生き物たちが眠りから目覚めたかのよう。その歌うようなヴァイオリンは鳥のさえずりか、それとも春そのものの鳴き声のようでもある。春の再誕である。
最後は春の喜びそのもの。心地よいリズムに弾ける弦楽器の音は、まさに歓喜の歌。カノン風に旋律が歌うと、聴く者の気分を徐々に高揚させ、そして小気味良い八連符は、心を一気に勢いづかせる。それを二度繰り返した後は、五度上げて同じモチーフで終わりをまとめた。
拍手をしようとして、ちょっと困った。手を握られたままであった。
リズも僕が拍手しようとしたことに気付き、すこしばつの悪い顔をして、手を離す。良い曲であったね、とリズに尋ねると、リズはすぐに喜んだ表情を見せてくれる。
労をねぎらいつつ、しかし、どこかで聴いた曲だな、と思い返す。すぐに気付いた。アマデウスが交響曲の父に献呈した弦楽四重奏曲だ、これ。
その後も、流行の曲などを、と小品を奏でてくれた。次の機会には、別の弦楽四重奏曲を聴きたいと伝えると、あと五曲ほど同作者の名曲を得意としています、と言われた。コーンローズ公爵にも、腕の良いカルテットがおります、とリズに伝えてもらおう。
演奏家の人たちには、昼食を一緒にどうか? と誘ってみた。カルテットのリーダーらしき人が、恐れ多いです、とすごい勢いで頭を下げてまで断ってきたので、余計に押してみた。気になるじゃない。
カルテットのリーダー、ヴァーディ卿はミドルランド王国の男爵の次男坊で、家を継ぐ予定も無かったので、大陸に渡ってヴァイオリンを学んできたらしい。その際に、演奏の腕が良くて気があった三人とカルテットを結成したが、その三人は出身国もばらばら、身分もあやふや。
比較的、平民に寛容な王国の首都アストラガラスであるなら、一応貴族の子息であるヴァーディ卿の身分もあることであるし、演奏して食べていくには困らないだろう、と帰国してきたみたい。ただ、ヴァーディ卿にとってみたら運悪く、王子の僕に捕まったわけだ。
最低限のマナーしか身につけさせていないのです、というので、昼食は、サンドウィッチなどの軽食だよ、と伝えると、ヴァーディ卿は迷い始めた。もう一押しと思って、冷えたエールなんかも特別に出しちゃうよ、というとカルテットのメンバーの一人がとても乗り気になった。何故だ。ヴァーディ卿に聞くと、その彼は、ビールと音楽祭で有名な大陸の都市出身であるからです、とのことだ。アマデウスの出身地かな。
冷えたエールを飲ませた三人はとても陽気であった。ヴァーディ卿は常にハラハラしていたけど。
流石というべきか、彼らは歌もうまかった。それぞれの故郷の歌があれば歌って欲しい、と伝えると、喜んで歌ってくれて、それが皆見事であった。伴奏をヴァーディ卿がヴァイオリンを取り出して務めた。僕が勧めたエールも飲んでいたというのに。突然のことでも弾きこなしてしまうあたり、ヴァーディ卿は大陸各国の音楽をしっかりと吸収してきたみたいであった。
これほどまでに、音楽を楽しめる一日になるとは思わなかった。
そして、それはリズも同様であったみたい。
「おもしろい人たちでしたわ」
リズと僕は、それぞれの付き人もつけず、屋敷の侍女をのぞけば二人きりで紅茶を飲んでいる。今はそれぞれ一人掛けの椅子に座り、体を斜めに傾けて向かい合っている。
「異国の民族音楽を、聴くなんてことがあるなんて、思いもしませんでした」
くすり、とリズは微笑みをこぼす。
「お酒が入って余計に興が乗ったみたいだしね。ヴァーディ卿は気が気じゃなかったみたいだけれども、僕たちは楽しめた」
「あら、殿下は意地悪なお人ですね」
また、くすり、とリズは笑う。
「リズも楽しんでいたじゃないか」
何の気もなしに、そう言ったあと、リズのことを愛称で呼んだことに気づいた。あ、しまった、と思ってももう遅い。
そう思ったのだけれども。
「なら、私も殿下と同じで意地悪かもしれませんわ」
リズは顔を綻ばせてそう言った。
あれ、リズと呼ばれたことに気付かなかったのか、という思いと、リズがこのような物言いをするなんて、との驚きで、僕は、きょとん、としてしまう。
「どうかしたのですか?」
リズが首を傾げる。
「いや、エリザベス嬢が、そんな風にいうとは思わなくて、ちょっと驚いてね」
「そうですか? 私もヴァーディ卿の心労には気付いていましたが、異国の音楽への興味は止められませんでしたわ。四重奏でも、あんなに素敵な演奏をする人たちでしたから」
ああ、リズは言葉以上に楽しんでいたみたいで、心がはしゃいでいるみたい。
だから、僕が愛称で呼んだことに気づかなかったのかな。
さて、話は尽きないが、ずっと音楽ばかりを語っていては、今日の目的を達成できなくなる。紅茶が残り少なくなったところで、侍女に合図をする。目配せとともに。
侍女が、待っていました! と言わんばかりの目で返事をしてきた。ちょっと落ち着こうじゃないか。




