春の影 2
ご覧いただき、ありがとうございます。
本職のかたわら、ぼちぼち書きためていた作品です。これから少しずつ、書き足していきます。
また、個人サイトFeel the Blue (http://feeltheblue.com/)には、作品の設定などを載せています。ご興味がございましたら、ご覧ください。
少しでも多くの皆様に楽しんでいただけると幸いです。
※少しずつ直しながら書き進めているので、言葉遣いや固有名詞が変わることがあります。
ユウマは中庭を横切る渡り廊下に出ると、そこをを足早に通り過ぎ、急いで学舎に戻った。遠くに聞こえていた学生たちの声が間近になり、教室や講堂に急ぐ学生が、次々と目の前を通り過ぎていった。
ユウマはその流れに逆行するように歩き出すと、今朝、食堂まで案内をした男がいる部屋に向かった。
「スティンプ先生」
ユウマは男がいる部屋に着くと開け放たれたドアの側から名前を呼んだ。その声を聞いて、部屋の中央にいた男が顔を上げた。手には湯気の立つカップを持っている。
「おお、ユウマ君。どこに行っていたんだね。もうすぐ朝の講義が始まるよ」
スティンプはコップを手近の机に置くと、大股で近づいてきた。
スティンプはこの学校の雇われ教師であった。部屋には他にも数人の雇われ教師がいて、部屋の中央にある鉄製のストーブを囲んでいた。ストーブの中では石炭が赤々と燃え、部屋は食堂よりも暖かかい。スティンプがユウマの名を呼ぶと、他の教師も視線を移し、興味深げにその姿を見つめ始めた。
「支度は済んだかね?」
ユウマはそれに答えず、真剣な眼差しをスティンプに向けた。
「あの、スティンプ先生。ハイデ・アーミッシュという学生がどこにいるか知っていますか?」
「ハイデ・アーミッシュ?だれだね、それは?」
スティンプはわざとらしく目を見開いてユウマを見返した。
「平民の学生で…黒くて髪の短い女の子です。さっき、食堂で会ったんです」
「さあて、そういう学生はたくさんいるからねえ」
スティンプはユウマの顔を見ずに白髪まじりの髪をかきむしった。そして、ユウマの肩に手を置くと、廊下に体を向けさせた。
「後で授業で会えるかも知れないよ。それより、早く大講堂に行かなければ。今日はピトレー大司教も講義をご観覧されるんだろう。“白い羽根”の研究発表もあるし、遅れたら大変だよ。さあ、大講堂まで案内しよう」
スティンプはにっこり微笑むとそのまま廊下を歩き出した。ユウマはスティンプから身を引いて、立ち止まった。
「あのう…」
「どうしたね」
「あの、僕、本を持ってくるのを忘れました」
「本?」
スティンプがわけがわからないという顔で見ると、ユウマは手を広げて見せた。右腕に毛織りのマントがたたんで引っかけているだけで、他には何も持っていなかった。
「僕、本を取りに戻ります」
「今から?それじゃあ、間に合わないよ。私のを貸すから、取りあえず大講堂に急ごう」
ユウマはスティンプを見たまま、動かなかった。
「あの、筆記用具も忘れて…」
「貸すよ」
そう言うと、スティンプは眉間にしわを寄せた。
「新入生が忘れ物をするのはよくあることだ。今はそんなことを気にするんじゃない。それより、早く講義に遅れずに出る習慣を身につけないとね」
スティンプが教師たちがいる部屋に戻ろうとすると、ユウマはスティンプから体を引き離し後ずさった。
「すみません、先生。僕、自分のを取ってきます。すぐに戻ります」
ユウマはきびすを返した。
「おいおい」
スティンプはあわてて引き留めようとしたが、ユウマの身のこなしは意外に身軽で、あっという間に走り去ってしまった。スティンプは追うこともなく、彼の背中を見ているだけだった。
「変わった子だな。あれが噂の新入生かい?“教皇の切り札”とか言う?」
一人廊下に残されたスティンプに、部屋の中から一人の男の教師が声をかけた。
「ああ。人と一緒の生活に慣れていないんだろうな。信じられるか?あの年まで、一歩も家から出たことがないっていう話しだぜ」
スティンプは肩をすくめて、部屋に戻るとストーブの側に寄り、体を温め始めた。
「平民の子が珍しいな。親は何を思って育ててたんだ?どこかの王侯貴族の真似でもしていたのかね?」
「さあね」
素っ気なく言うと、スティンプは再び湯気の立つ茶を飲み始めた。
すると部屋の奥から、三十才くらいの別の若い男の教師がスティンプに声をかけた。
「スティンプ先生、あの子、行かせていいんですか?」
スティンプが若い男の教師を見た。
若い男の教師は髪を短く切り、きれいにアイロンがかけられたシャツの上に、毛糸のベストを着ていた。
だれもいなくなった廊下と壁の時計を交互に見ている。
「あの子、ピトレー大司教が来る講義に出なきゃならないんですよね?もう時間もないし、追いかけて大講堂に連れて行った方がいいんじゃないですか?」
スティンプは口元をゆがめて答えた。
「講義に出なきゃならないのに、本も筆記用具も持って来ないんだぜ。十五にもなって、手取り足取り世話が必要でもあるまいし」
スティンプがそう言うと、若い男の教師は心配そうな顔で言った。
「でも、こういう場所が初めてなら仕方ありませんよ。授業の受け方をきちんと教えないと。平民には学校に行ったことがない子も多いし、もしかしたら、字が読めなかったのかも知れません」
それを聞くと、スティンプは大げさにため息をつき、肩を落とした。
「どうして俺が、そんな平民の子どものお守りをしなきゃならないんだ。俺はこう見えても貴族なんだ。没落したとはいえ、身分は上だ。平民の子どものお守りをするいわれはないぜ」
「でも…、あの子、例の銃騎士になるって約束されて入学してきた子どもですよね?だったらなおさら、ピトレー大司教が来る講義には出ないといけないんじゃないですか?」
そう言って若い男の教師が食い下がると、スティンプは見るからに不機嫌な表情になり、音を立ててコップを机に置いた。
「それがどうしたって言うんだ?銃騎士がいったい、なんだって言うんだ?」
スティンプは腕組みをして続けた。
「あいつらがいったい、何の役に立っているって言うんだ。墜天使どもが地面から湧いてきて、もう二百年も経つんだ。二百年だぜ?なのに、あの銃騎士とやらは、二百年も墜天使どもを追い駆け回して、墜天使をこの世に送り出した“墜天の果実”を始末できないでいる。その間、俺たちは、ずっと墜天使どもの襲撃とやつらが持ってくる疫病に怯えながら暮らしているんだ。あの墜天使どものせいで、いくつもの街や村が消えているんだ。イセルリッジだって墜天使どもの前に陥落寸前だ。なのに銃騎士のやっていることといったら、二百年前をなにも変わっちゃいない。何一つだ。それとも、あの平民の子どもが世界を救うとでも言うのか?」
スティンプはそこまで一気に言うと、コップを取り上げ中の茶を飲み干した。若い男の教師は目を落として言った。
「先生、お気持ちはよくわかりますが、今は、彼を講義に連れて行かないと。いくら何でもかわいそうですよ」
それを聞くと、スティンプは若い男をにらんで言った。
「じゃあ、お前があいつの面倒を看ろ。マキアフェーベ司祭には俺から言っておく。ファレットが志願して、“教皇の切り札”の世話をすることになったとな」
ファレットと呼ばれた若い男の教師はびっくりしてスティンプを見返し、小さく肩を落とした。