小鳥たちの食卓 1
ご覧いただいて、ありがとうございます。
本職のかたわら、ぼちぼち書きためていた作品です。これから少しずつ、書き足していきます。
また、個人サイトFeel the Blue (http://feeltheblue.com/)には、作品の設定などを載せています。ご興味がございましたら、ご覧ください。
少しでも多くの皆様に楽しんでいただけると幸いです。
その日の朝はポーセリアの春には珍しく、空気が冷えこみ、くもっていた。
エルウィンは目が覚めると手早くミサの身支度を整え、久しぶりに上掛けを羽織った。同居人を起こさないよう静かに部屋を出ると、聖堂に向かった。廊下にはミサの支度の当番に当たっている学生たちが数人行き来しているだけで、人気はなくがらんとしていた。
エルウィンは聖堂に着くと中に入らず、聖堂の脇にある鐘楼に続く階段を小走りに駆け上がった。そして、鐘楼の一番上の手前にある、小さな踊り場で足を止めた。
踊り場の窓からはポーセリアの街を見渡すことができた。街は新緑で明るく飾られ、冷たい空気の中にも心地よい明るさが漂っていた。ポーセリアを流れるシルー川の上には霧が立ちこめ、雲間から注ぐ弱い朝日を白く浮き上がらせていた。
「エルウィン」
振り返ると、踊り場の暗がりの中に、背の高い青年が立っていた。エルウィンと同じ巻いた金髪だけが浮かんで見え、浅黒い肌と神に仕える者を示す黒衣は暗がりに溶け込んでいた。
「兄さん、お久しぶりです」
青年はエルウィンに優しく微笑んだ。青年の笑顔には人の心を温かくされる深い慈愛があった。
「エルウィン、久し振りだな」
「はい」
青年に微笑みかけられると、エルウィンはいつもだれかに守られている安らぎを感じるとともに、軽い緊張を感じずにはいられなかった。
兄と会う時に感じる緊張。それは、出自であるラグランジェ家において、自分が唯一の嫡子であることと、母の異母兄に対する仕打ちからくるものであった。母はエルウィンより十二才も年上である異母兄を常にエルウィンの下座に置き、青年のことを兄と呼ぶことを許さなかった。しかし、青年はそうした境遇に反して、何も言わず、いつも優しくエルウィンに微笑みかけた。その微笑みは家訓を背負うエルウィンを慰め、力づけるものであった。いえるウィンは母の目がない場所では、心のままに青年を兄と呼んでいた。
「ついにこの日が来たな」
すっと青年の顔から笑みが消え、緊張した面もちになった。
「はい」
エルウィンもわずかに表情を強ばらせた。
「この時、アクルクスにエルウィンがいてくれて良かったと、父上がおっしゃっていた」
エルウィンは青年を見つめて小さく頷いた。
「彼は三日前に、近郊のオラントル教会に到着している。ヘリッセ侯爵夫人が身の回りの支度を整えに行ったらしい。教授筋の話によると、ここでは平民寮に住むことになるそうだ」
「やはり、そうですか。どこのクラン入るか聞いていますか」
青年は思案気な顔をして、小さく首を振った。
「何も。クランは入学してから決めると聞いている。彼はマインセム王国出身の平民として入学する。教皇庁は彼の出自を全て伏せることに同意したようだ」
「全て伏せる…」
鐘楼の踊り場に沈黙が流れた。小鳥のさえずりが外で響き、朝日は強い光に変わっていった。
青年は懐からきれいにたたまれ、封がされた手紙を取り出すとエルウィンに手渡した。
「父上からの手紙だ。まずはこれを読んで考えてみるといい」
青年はエルウィンの目を見て、表情をあらためた。
「とにかく、彼と親密になることだ。お前は彼と年が近いし、ラグランジェ家という立派な貴族の血筋も持っている。交流を深める相手としては遜色ないだろう。他の奴らに先を越されるな。常に彼の側にいて、信頼を勝ち取り、動向を知らせてくれ。それが父上が望むことの全てだ」
「はい」
エルウィンは短く返事を返し、少しばかり深く息を吸い込んだ。朝を空気はまだ冷たく、胸の不安が洗われた。
青年が表情を柔らげ、窓に寄って遠方を指さした。
「エルウィン、見えるか。レストヴァリに向かう巡礼者の列だ」
青年が示した先に、煙が立ち上り、朝日にきらめく物が見えた。
「タルフェーニからの巡礼者ですか」
エルウィンは額に手をかざして、青年が指を差した方を眺めた。
「そうだ。タルフェーニの農民には去年も大した実りがなかったが、信仰心の篤さを称えられ、今年も教皇庁から巡礼の賄いを賜ることができた」
十数人の巡礼者が思い思いに群をなし、朝食の煙がけぶっていた。隊列には馬もいて、豪奢な飾りを朝に光らせている馬車もあった。すでにポーセリアの商人が巡礼の旅に必要な食料を売るために、物売りの天幕を張っていた。その様子に、貧しさの陰は見えなかった。
「きっと、水に沈んだ聖地の美しさに驚くでしょうね」
「そうだな。巡礼者たちはすっかり、いつもの貧しい暮らしを忘れて、舞い上がっている。あの島から来るカラスどもから彼らをどうやって守るか…。こちらは道中、気を抜くことができないのだがね。あの気楽さは本当にうらやましいよ」
苦笑して軽くため息をつくと、青年はベルトに挟んだ手袋を再び手にはめた。
「兄さんも大変ですね。ずっと研究所にいられれば楽なのに」
エルウィンが笑顔で言った。
「これも仕事の内さ。どこかの賢者様のように、いつも秘密の塔にこもりきって下界のことを知ろうとしない、と皮肉を言われるよりましということさ」
青年が肩が小さく揺らして笑った。兄の心が透けて見え、エルウィンも気持ちが軽くなった。
「そういえば、兄さんが巡礼者の護衛でここに来ると言ったら、女の子たちが目を輝かせていましたよ。“聖母のごとく麗しきブロニスラウ様のお姿を一瞬でも目にしたい”って」
青年は今度こそ滑稽なものを見聞きしたという様子で、声を立てて笑った。
「教皇庁の足下も変わったものだな。彼女たちに伝えてくれ。巡礼の帰りには必ず立ち寄り、異国の菓子を取りそろえて参ると。そして、麗しき神と天使について語りましょう、と」
「はい」
エルウィンは屈託なく笑い返した。
青年がエルウィンの肩をつかんだ。
「では、後のことは頼んだ。何かあったらヘリッセ侯爵に相談してくれ」
エルウィンは力強く頷いた。
青年もエルウィンにうなずき返すと、身を翻し、塔の薄暗がりの中に消えていった。
エルウィンはもう一度窓の外に目を向けた。朝霧はきれいに消えて、空は青みを増し、青みが増し、朝日が新緑が映える街に降り注いでいた。
エルウィンは朝日が入り始めた窓辺に寄り、父からの手紙を開き素早く目を渡らせた。手紙にはいつもの通り、エルウィンを気遣う言葉と、領地で起こった様々な出来事がつづられていた。
そして、手紙の最後もいつもと同じく、父の作った物語で締められていた。
『お前の小さい頃を思い出し、また物語を作ってみた。今度、感想を聞かせておくれ。
むかしむかし、森の奥の鳥かごに宝石のような美しい小鳥が住んでいた。
小鳥は夜毎、美しい声でさえずり、森を訪れる人々の密かな楽しみになっていた。
時が流れて、小鳥は卵を一つ産み死んだ。
やがて卵から宝石のような美しい小鳥が生まれた。
小鳥は夜毎、美しい声でさえずり、森を訪れる人々の密かな楽しみになった。
時が流れて、小鳥は卵を一つ産み、そして死んだ。
やがて卵から宝石のような小鳥が生まれ、夜毎、美しい声でさえずるようになった。
森を訪れる人々は再び、密かに小鳥を慈しんだ。
ある日、精霊が小鳥のさえずりに誘われて森に迷い込んだ。
精霊は小鳥が生まれてから一度も鳥かごから出たことがないことを知ると、青い空を飛ばせてやろうと考えた。
精霊が鳥かごの鍵を開こうとした途端、時が止まった。
鳥かごの中に卵の殻はなかった。』
エルウィンは鐘楼に残っていた朝の冷たい空気にかすかに身震いし、そっと手紙を懐にしまった。