Wood
涙が止まらなかった。ぼたぼたと床の上に落ちていく。
店員はただそれを見ていた。そして店員は優しく微笑んだ。そうして、私の頭にゆっくりと手を乗せた。すると、私の落ちていった涙が、滴の形を成し、床にコロンと転がった。
私はびっくりして、思わず泣くのをやめた。
店員は相変わらず微笑んでいて、私の頭を撫でてくれる。
笑いかけられて、私はまた顔をくしゃくしゃにする。
ああ、私は、本当は――
――これから起こる奇跡を、この時の私は知る余地もなかった。
ただ毎日のように、空を眺める、そんな時間だけが私の唯一の無になれる時間だった。色々考えたり、奇跡を信じることをもうやめていた。
そう、今日も最初はそうだった。
「うあー寒い」
玄関を開けると私は掌をさすった。昨日雨が降ったせいで気温がぐっと下がっている。
久しぶりに見た青い空を見て目を細めた。
ハロウィンが終わったのがつい一か月前。そして、もうクリスマスの時期だ。十二月だ。師走だ。それが終われば大晦日に正月。そして節分。冬もあっという間。
そろそろダウンコートが欲しくなってきたこの頃だ。私は手袋とマフラーを買いに街へ出ようとしていた。毎年、マフラーと手袋は新調する。特に意味はない。ただその方が気分が盛り上がるからだ。と言っても、たいてい余計な物も買ってしまう。女の買い物なんてそんなもんでしょう?
誰に言い訳するわけでもなく、一人で自己完結させると、私はエレベーターのボタンを押す。このマンションにはこの一台しかエレベーターがついておらず、度々待たされる。だが今日は案外すんなりと上がってきてくれて、私を一階へと下ろしてくれた。いい子だ。
エレベーターを降りると、携帯を手に取る。いわゆるガラケーと呼ばれている旧式の携帯だ。スマートフォンのゲームやアプリといった物には殆ど興味がない。メールと電話とインターネット検索さえできれば私には充分だ。だからと言って、デジタル物が弱いわけじゃない。これでもパソコン関連の企業で働いてる。まだぺーぺーだけど。
私はメールを確認した。スマホ持ちの友達からは、メールでの連絡が面倒だから早く変えてくれと急かされているが、まだまだ現役の携帯を捨てるなんて私にはできない。
『ごめん! 三十分ほど遅れる!』
それだけ書いてあったメールだった。なんてこった。これなら読むのを後回しにしないで家で読んでゆっくり出れば良かったわ。だけどもう外に出てしまっている。この距離だけど、戻るのも面倒くさい。
仕方ないから、一人で買い物始めてよう。
では、どこに行こう?
少々立ち止まって、腕を組む。友達のオススメのお店があるからと、ついていく予定だった。何も決めてない。確か待ち合わせの近くにこじんまりした雑貨屋があった気がする。そこに行くか。
私は行き先を決めると、マンションの横にある自転車置き場へ向かい、自分の赤い自転車を取り出す。こう見えて自転車にはこだわりがあって、一応これでもロードバイクに乗っている。そのためにバッグは持たず、リュックサックだし、スカートではなくパンツを履いている。ちょっとした私のこだわりだ。
自転車に跨る(またがる)と、目的地へとペダルを踏み込む。颯爽と駆け抜けていく街並み。あちこちでクリスマスの準備が始まっていた。ケーキ屋さんはクリスマスケーキの予約に、雑貨屋はクリスマスグッズ、カラオケ屋の前を通ると冬のテーマソングとも言えるような音楽が鳴っている。
ちょっと浮かれたこの感じは嫌いじゃない。クリスマスはなんと言っても一年の中で最も華やかなイベントだ。と、私はそう思ってる。
ここから目的地までは自転車で十分ほどだ。クリスマスムードの街を横切り、私はあっという間に目的地にたどり着いた。
やはり友達は着いている気配はない。私は、ため息を吐いて、キョロキョロと辺りを見回す。確か、この辺りに気になる雑貨屋が……。
私はそこから見え、曲がり角に佇む、『wood』と木の看板に書かれた店を発見した。あったあった。あそこだ。自転車にチェーンロックをかけて、今にも木の匂いがしてきそうな店の窓から店内を軽く覗く。人はいない。
気まずいかな?
そんなことが一瞬過るも他にしたいこともないので、思い切って取っ手に手をかける。
扉を開けると、暖かい空気が辺りを包んだ。木の板が店内に貼り巡らされており、所々に木々が鉢植えごと立っていた。案の定、店内は木の匂いが充満していた。というか、恐らくアロマだ、これは。
レジには、人がいなかった。まさか店員不在?
これはラッキーと思った。小じんまりした店だから余計だ。常に監視のように見られているのは非常にいずらいものだ。買いたい物も買えなくなる。そんな経験誰かしらあるよね?
自問自答しながら、棚に乗っている小物を手に取ったりしながら眺めていく。どれも木々をメインに扱っているものだった。中には、表紙や裏表紙がヒノキでできた日記帳なんかもあって、物珍しく思えた。
日記帳か……久しく書いてない。というか、書くのをやめたのだけども。
そこにはアロマも売っていた。やはり、というか木に関係する匂いばかりだったが。
ここの店員はどれだけ木が好きなんだ、と思わず一人でくすりと笑ってしまう。
「あ、これかわいい」
木でできたネックレスだった。
アジアンテイストなのかな?
そう思って手に取る。ブーメランのような形に切り抜かれた木は、しなやかで、なのに強かった。不思議なもので、ここの店の物は全部生命力を強く感じる。
ネックレスは、少し変わっていた。肝心の、『見せる』部分がないのだ。ぽっかりと穴が開いている。
どこかにあるのかな? と周りを見回すがそれらしいものは見当たらない。私は不思議になって首を傾げていた。
「いらっしゃいませ」
びくりとして肩を揺らした。顔をあげて横を見ると、レジの所に店員さんがいつの間にか立っていたのだ。
穴が開いたネックレスを持っている私は少々焦った。私がやったわけじゃないと、言い訳しようと思った……矢先だ。
「安心してください。それ最初から何もついてないネックレスなんです」
店員は私の心を読んだかのように放ち、微笑んだ。
「ほえ?」
思わずアホな声をあげる。
「何もついてないんですか?」
「ええ。お客様の好みに合わせてお付けしてるんです」
「でもそれにしてはサンプルがないですね」
言われ、辺りを見回すが、やはりそれらしいものは見当たらない。
くすくすと店員は笑った。
何かおかしなこと言ったかな?
「いえ、すみません。あまりに純粋な方だとお見受けしたので」
「はあ……」
私のどこが、と言いそうになったがやめといた。悪い気はしてない。
だがそれにしても、このネックレス。ちょっと、いや、かなり気になる。
「好みって言いましたよね? 結構高いんですか?」
そう、値札がついてないのだ。
店員は首を横に振ると、「いいえ」とだけ放つ。
「お客様の好み……とは言いましたが、誰にでも売れる物でもないんです。その木の温もりをわかっていただける方と、あとはその穴にはめるものを持ってこれる方のみなんです。それさえ満たしていただければ無料ですよ」
「無料?」
何か怪しくないか?
眉間に皺を寄せる。欲しい気もしたけど、これは怪しい。私は棚にそれを戻すと、作り笑いをして、店を後にしようとした。だけど、その後の店員の一言で私は固まってしまう。
「お客様は何に怯えているのです?」
何事かと思った。私はこの人にそんな態度少しでも見せただろうか?
扉の取っ手から手を離すと、ゆっくりと振り返る。
「怯えてなんかいませんよ」
「そうですか? ならば何故木々達が私に語りかけてくるのでしょう。お客様が怯えていると」
こいつ、病気なんじゃないか、と思った。だけど、足が動かなかった。
大丈夫。この人はきっと適当に言ってるだけだ。きっとそうだ。
そう自分に言い聞かせる。
「木の声が聞こえるんですか?」
私は少し嫌みたらしく聞いてみた。だが、店員は嫌な顔せず相変わらず笑って、「ええ」とだけ返してくる。
「今はなんて言ってるんですか?」
「お客様の元気がないと、言ってますね。精神的にも肉体的にも、元気がないと」
どきり、と胸が鳴ったかと思った。
ふうと息を吐いて、一度周りを見回してみる。店内が歪んで見える。さっきまではなんともなかったのに。
「お客様にも聞こえるのではないですか?」
「そんな馬鹿な……」
私は言いかけてハッとした。何か声が耳の奥で響いたのだ。
『元気出して』
「きゃっ!」
私は自分の耳元を遮った。だがそれでも声は響いてくる。
『無茶をいうな。彼女は病気なんだぞ』
『そういうときだからこそ、元気をだしてほしいんじゃないか』
な、なにこれ?
私は首をぶんぶんと振る。
私までおかしくなった?!
助けを求めるように店員に駆け寄る。
「何か、聞こえるんです」
「だからそれが木々の声ですよ」
「それじゃあ、この会話、貴方にも聞こえているんですか?」
「勿論です」
まさか、そんなはずが……。
「病気なんですか?」
店員の顔が曇ったのがわかった。
私はまた固まる。
本当なんだ。聞こえてるんだ。
なんだか怖くなってしまった。この状況も異常だし、なんで今ここで嫌な事を思い出さないといけないんだ、と。
「関係、ないです」
「そうですか……。でも私にも何かできることがあるかもしれませんよ?」
その言葉にいらっとした。私は無言でバンっとレジの机を叩く。
何が、できるって?
私の何がわかるって?
店員は表情も変えずに、私をじっと見つめてくる。
机の上に置いた手を握りしめた。
「癌よ……」
私はぼそりと呟いた。わかってくれるの? そんなの無理でしょう? この言葉を聞いて、何人の人が言葉を失って、励まそうとしたのか。それがどれだけ私の心を引き裂くのか。所詮他人事なの。
「そうですか……」
そう、そして私を励ますか、同情してくるの。人ごとだから。
「なら、治せるかもしれませんね」
顔をあげた。カッとなった。
何を言ってるの? こいつは医者でもなんでもないくせに。何を言ってるの。
「勝手な事言わないで!」
「本気ですよ」
「どうするつもりなのよ! 子宮頚癌よ? 子宮を全部摘出しても、助かるかわからないって、言われたのよ? 貴方なんかに何ができるの?」
「できますよ。だって、私はサンタクロースですので」
店員はにっこりと笑った。
目の前がくらっとした。何を言っているの。
サンタならサンタらしく、雪国で準備でもしてなさいよ。嘘ばかりつかないで。私をこれ以上辛い気持ちにさせないで。
「望むものを、望む形で提供する。それがサンタの使命です」
「だったら……」
だったら、私を助けてよ。助けられない癖に。私は死んじゃうだけなのに。
「お客様の望むものはなんですか?」
「決まってるでしょ! そんなの!」
怒鳴ったら、感情が爆発した。自分の抑制したい気持ちとは裏腹に、ぼたぼたと目から涙がこぼれていく。
「決まってるでしょ……そんなもの……」
「永遠の命ですか?」
「違うっ。そんなんじゃない」
そんなんじゃないの。私は、ただ――
店員は何も言わずに、そして微笑んで、私の頭に手を乗せた。そうしてゆっくりと撫でていく。店員の手は暖かかった。
「木々が……木々の妖精は言ってました。お客様は子供のように純粋な方だと」
そう放つと、辺りが一瞬だけ、光に包まれた。眩しかった。太陽のような光だ。
「な、に……」
まだ止まらない涙が床の上に落ちていく。すると、それは滴の形を成した。ころころと床の上を転がっていく。
驚いて私は、一瞬だけ涙が引っ込んだ気がした。
「これ……」
床に転がったものを拾い上げて、店員に見せる。それはきらきらと光っていた。
「お客様の願い、です」
「願い……?」
店員はにっこりと笑いかけてくる。
「お客様の願い、確かに聞きとりました」
店員は腕を広げた。するとそこに、小さな光が集まっていく。
「これは木々の生命力です。集まると、不思議な事がおきるんですよ」
そう言ってウインクをしてくる。
店員の胸元にどんどんと光が集まっていく。それはどんどん、どんどん大きく膨らんでいく。私は目を離せなくなっていた。暖かい。こんな暖かい光、いつぶりだろう。
それから、幾分か大きくなった暖かい光は、私の落とした滴へと入っていった。
さっきまで透明だった滴はエメラルドグリーンへと色を変える。
「さあ、出来上がりです。これをあのネックレスにはめてみてください」
私は、涙を拭って、言われた通りに先程手に取っていた木のネックレスを棚から取り出す。滴はぴたりとはまると、まるで最初からはめてあったかのように、全く外れなくなった。
「これ……」
「首につけてみてください」
店員はにこりと微笑む。私は言われるがまま、首にかけてみた。
すると、不思議な気持ちになった。今まで心を凍らせていたものが、溶けていくような感覚に襲われた。こんな穏やかな気持ちになったのはいつぶりだろう。
そう思ったのも束の間だった。体の奥底が熱くなり、目頭へと集まってきた。
なんでだろう。穏やかなのに。こんなに涙が溢れてくるんだろう。
さっきよりも、ずっと顔をくしゃくしゃにして、泣いた。声に出して泣いた。久しぶりだった。
涙は相変わらずころんころんと床に落ちては滴を成していった。
それを見て、店員は私の頭を撫でてきた。
「私……」
泣きながら、鼻をすすりながら、私は必死に言葉を紡ごうとした。
「私……私は、まだ生きたいんです。永遠の命なんていらない。でもせめて、もう少し、私は……生きたいっ」
だって、私はまだ若いんだもの。だって、私はまだ恋愛もよく知らないんだもの。だって、私にはまだ大切な家族がいるんだもの。だって……だって……。
「大丈夫。信じて。私と、木々達を」
「優奈! 優奈ったら!」
ハッと気付くと、私は涙を流しながら、待ち合わせ場所に立っていた。周りからじろじろと見られているのがわかると、急いで涙を拭う。
顔を覗き込んできているのは私の親友だった。いつの間に、私はここに?
「もうびっくりさせないでよ。着いたら優奈ったらずっと泣いてるんだもの」
時計を見ると、ちょうど待ち合わせの時間だった。
「三十分遅れてくるはずじゃ……」
「何言ってんのよ。時間通り来たじゃない」
急いでメールを確認してみると、そこには何もそんな内容のものは届いてなかった。私は混乱する頭を二度三度振ってみる。
「それより、そのネックレス、どうしたの? 綺麗ね」
「え?」
指を指されて気付く。首には、あのネックレスがかかっていた。
「どこで買ったの?」
「えっと……あそこの雑貨屋……」
指をさして示そうとするも、そこには『店舗募集』の張り紙があってある空き店舗があるだけだ。私はますます混乱しそうになった。
夢? でもこのネックレスは……。
「本当どうしたの? 優奈ったら」
「……ごめん。今日の約束、また今度でもいい?」
この時既に、胸の高鳴りが耳にまで届きそうになっていた。
親友に向き直ると、手を合わせて頭を下げる。
「え? なんで?」
「ちょっと確かめたい事ができたの。ごめん、この埋め合わせは必ずする」
私は赤い自転車に跨り、「優奈―!」と呼びとめる親友の声を後ろに聞きながら、急いで行きつけの病院へと向かった。
まさか! まさか!
名前を呼ばれ、診察室へと入っていく。それから、もう一度だけ癌の診察をしてほしいと懇願した。
「驚いた……。癌が全てなくなっている……」
医師は唖然とした様子で口を広げていた。「奇跡だ」とそう呟いている。
何をしたんだ、とそればかり尋ねられるが、それは私にも正直わからないことだった。
あの店の説明をしようにも、もうその店もなく、店員もいないのだ。
ネックレスに手を当てる。ハッとした。エメラルドグリーンだった石が、モスグリーンへと変化していたのだ。わずかな違いだが、確実に濁っている。
「石が……」
「石?」
「いえ、なんでもないです」
医師が首を傾げるのを横目に、私は窓から外を臨む。すると、白いものがちらちらと降ってくるのがわかった。
「雪だ」
私は呟いた。そこにいた医師も看護師も視線を外に移す。
「十二月頭に振るなんて、珍しいですね」
看護師がそう笑って言った。
「きっとサンタさんが降らせたんですよ」
その言葉に不思議なそうな顔をする医師と看護師。私は一人くすりと笑った。来年も、私はまた冬を迎えることができるんだ。ただそれだけで、私は嬉しくなった。
生きたい。もっと、毎日を生きていきたい。
そっと、モスグリーンになった石に触った。
生きよう。精一杯、今を生きていこう。かけがいのない命を――