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多摩川の桜

作者: 小林 米



 昔、ある所に一人の青年がいました。

 青年は、もう生きているのがとても嫌になっていて、ある日、畑でちょうちょを追いかけているときに、ふと「死のう」と思い立ちました。

 そこで、家に帰り、倉庫の中から亡くなった祖父が庭の雑草を始末する為に使っていた草刈り鎌を引っ張りだしてきて、それを首にかけたのですが、いざとなるとどうしてもこの世にある未練の事を考えずにはいられませんでした。

「どうせ、死ぬのなら冴子にアタックしてから死のうか?」

 冴子というのは、青年が住んでいた家から少し離れた所にある宝くじ売り場の女性の事で、青年は父親のお使いで宝くじを買いにいったときに一目惚れしていたのです。ですが、話しかけようとした事はおろか、デートにも誘いきれていませんでした。青年にとっては、見ているだけでも満足だったのです。

 アタックするとはいっても、どういった風にやればいいのだろうか?

 青年は悩みました。

 これまで二十年間生きてきて、意中の相手に対して、一度も、アタックなどという大それた事をした事がなかったのです。

「手紙を書こうか?しかし、女性というのはこういった意気地のなさが大嫌いなのだと、まえに週刊誌で見たことがあるぞ。強引さが大切なのだ。よし、最後の最後だ。いっそ、手を引っ張って強引に連れ回してやる」

 思うが早いか、青年は鉛玉のようにひゅうひゅう飛んでいって、宝くじ売り場の前までやってきました。とても興奮していました。果たして自分にやれるだろうか?

 宝くじ売り場には、裏口がありましたので、そこへ回り、ノックをしました。

「だあれ?前へ回ってくださいな」

 女性の声です。冴子の声でした。

「おれだ。あけろ」

 青年はまるで、気が狂ったようにドアをノックし続けました。もう、ほんとうに信じられないぐらいの早さで戸を叩くものですから、冴子の方はすっかりおびえてしまい、是が非でも空けるものですか、きっと強盗に違いない、それ!

 警報ボタンを押したのです。 

 駆けつけてきた警備のものは、筋肉もりもりの大男です。大学時代は、フットボールで鍛えていたのでしょう。宝くじ売り場の裏口で、しきりに腕を前後させている青年を見つけると、空飛ぶ絨毯にでも乗っているかのように素早く、飛びついていきました。

 恐らくですが、この警備員は、きっとこの後の賞状を期待していたのでしょう。恐ろしい強盗を捕まえたとなると、給料も跳ね上がるかもしれません。もしかすると、この記事を見たアメリカ大統領からオファーがきて、すべての警備員の頂点であるシークレットサービスに任命される事もあるかもしれない。そういった妄想で頭がいっぱいだったのでしょう。それで、狙いが狂ったのです。

 飛びついてきた警備員は、青年のすぐそばのニレの木にぶつかって気を失ってしまいました。その拍子で倒れた木が、なんと、宝くじ売り場の裏口の扉を叩き割ったのです。

 青年の心臓はどきどきしていました。

 扉がかち割られ、あこがれの冴子が驚きの表情で青年を見ています。

 何か言わないといけません。

「やあ」と青年は言いました。

 冴子の方からは返事はありません。冴子は宝くじ売り場が個室であるという事をいい事に、彼氏を机の下に隠していたのです。その彼氏は、といえば、机の下で冴子のスカートの中へと、犬のように顔を押し込んでいて、外の騒動にまったく気がつく気配がありません。はんはんと息をならして、もぞもぞと一人で興奮していたのです。

 なぜ、こんな簡単な事に気がつかなかったんだろう、青年は思いました。冴子ほどの魅力満点な女性に、恋人がいないはずがありません。冴子に恋してからというもの、青年は冴子と一緒に畑を散歩する妄想に明け暮れていました。そのせいで、自分の都合のいいように現実を作り替えていたのです。青年の妄想の中では、冴子は病気の母親の代わりに、一生懸命宝くじ売り場で働くひたむきな少女だったのです。

「閉めて。お願い」というのが、冴子が発した最初の言葉でした。あんまりです。悲しいです。

 青年は、帰り道、歩道橋を歩いていました。下を多摩川が流れています。

「水は絶えず流れている。冴子への思いをこの川に流して、果たしてたどり着く場所はどこになるのだろうか?下水道へと流れていけばいいさ。この世にやり残した最後の出来事が、あんな、あばずれをデートに誘い込む事だったんだな」

 そう思うと青年は死のう、とまた思いました。もう思い残す事なんかないさ。

 その時、青年の携帯電話がなりました。

 「母」からです。

 いい忘れていましたが、青年の母はリウマチの症状が悪化していて、布団で寝たきりでした。

 青年は電話を川に投げ入れました。まだ契約期間が残っている事を少し、思っても見ましたが、投げたものはもうどうにもなりません。

「また帰りにゼリーを買ってこい、牛乳が飲みたい、シュークリームが食べたい、などと言い出すんだろう。おれは死ぬんだ。おさらば」

 そうして、青年も川に流れていきました。

 春になると、そこは、きれいな桜が咲く通りです。

 

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― 新着の感想 ―
[一言] 斬新的で印象的でした。続き、見たいです。 楽しみにしています。 ちょくちょく見に来たいと思います。
2012/04/10 20:59 退会済み
管理
[一言] なんでかな、笑っちゃうお話です ぼくはすきです
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