「君を愛することはない」と言った旦那様が、なぜか毎晩私の寝室の前で引き返していきます
「君を愛することはない」
嫁いだその夜、旦那様はそれだけ言って、寝室を出ていった。
扉が閉まる。
足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
私は寝台の端に腰かけたまま、しばらく閉じた扉を見ていた。
不思議と、悲しくはなかった。
愛されないのには、慣れている。
◇
ハーヴェイ公爵家への縁談は、王命だった。
長く続いた領地争いを収めるために、公爵家とローランド伯爵家が縁を結ぶ。
伯爵家の娘を一人、公爵に嫁がせよ、と。
伯爵家の娘は、二人いる。
前妻の娘の私と、継母の娘のマリエッタだ。
ハーヴェイ公爵の噂は、王都の誰もが知っていた。
戦場で顔に傷を負った、黒衣の公爵。
笑ったところを見た者はいない。使用人が三日で逃げ出す。
そんな噂だ。
縁談が届いた夜、私は継母の部屋の前で、たまたまその声を聞いた。
「マリエッタを、あんな化け物のところへやれるものですか」
「では、どちらを」
「決まっているでしょう。リディアよ。あの子なら、どうなっても構わないもの」
私は、声を立てずに、屋根裏の自分の部屋へ戻った。
驚きはしなかった。
継母がそう考えることは、分かっていた。
父が再婚してから、私の部屋は二階から屋根裏へ移された。
食事は、皆が済ませた後の台所で。
新しいドレスは、マリエッタのお下がりを詰め直したもの。
それが当たり前になって、もう何年も経っていた。
父が亡くなって三年。
伯爵家の使用人は、みな継母が連れてきた人たちだった。
私に「おはよう」と言う人も、「おやすみ」と言う人も、あの家にはいなかった。
最後に「おやすみ」と言ってくれたのは、母だ。
五つの冬に、母は病で亡くなった。
母は毎晩、私の額に口づけをして、こう言った。
「おやすみ、リディア。いい夢を」
あれから、十三年が経つ。
公爵家へ発つ朝、迎えの馬車が伯爵家の門の前に着いた。
荷物は、鞄が一つだけだった。
見送りに出てきたのは、継母一人だった。
継母は、私ではなく、御者に向かって言った。
「道中で何があっても、引き返さなくて結構よ。どうなっても構わない子だから」
御者は、何も答えなかった。
ただ、私の鞄を受け取る手が、ひどく丁寧だった。
◇
婚礼は、公爵家の小さな礼拝堂で、ひっそりと行われた。
初めて会った旦那様――エドガー・ハーヴェイ公爵は、噂よりもずっと背が高かった。
頬の傷は、思っていたより古いものだった。
ただ、灰色の目が、一度も私のほうを見なかった。
誓いの言葉も、指輪の交換も、旦那様はほとんど声を出さずに済ませた。
私の指に指輪をはめるとき、黒い手袋の指先が、かすかに震えていた。
寒いのだろうか、と私は思った。
その夜、寝室に入ってきた旦那様は、扉の前に立ったまま、こちらに近づかなかった。
長い沈黙のあとで、あの一言を言った。
◇
結婚して最初の朝。
寝室の扉を開けると、足元に何かが置いてあった。
きちんと畳まれた、厚い毛布だった。
「あら、奥様。それは旦那様のお部屋の毛布ですよ」
廊下を通りかかった侍女のベスが、目を丸くした。
「旦那様の?」
「はい。北の領地から取り寄せた、羊の毛の一番いいやつです。……旦那様、ゆうべは何をおかけになって寝たんでしょう」
ベスは首をひねりながら、毛布を部屋の中へ運んでくれた。
私は、わけが分からなかった。
「愛することはない」と言った人が、どうして毛布を。
その朝の食堂で、旦那様は一言も話さなかった。
左の頬から顎にかけて、古い傷が走っている。
黒い上着に、黒い手袋。噂どおりの姿だった。
ただ、焼きたてのパンの籠が運ばれてくると、旦那様は一番柔らかそうな一つを取って、黙って私の皿に載せた。
「……ありがとうございます」
「ああ」
それだけだった。
◇
その夜のことだ。
寝台に入って、灯りを消して、しばらくした頃。
廊下の向こうから、足音が近づいてきた。
規則正しい、重い足音。
それが、私の部屋の扉の前で、ぴたりと止まった。
私は、息を詰めた。
ノックの音は、しなかった。
扉の向こうで、誰かが立っている気配だけがある。
長い、長い沈黙。
やがて、足音は、来た方へと戻っていった。
私は、暗闇の中で目を開けたまま、しばらく動けなかった。
伯爵家の屋根裏で、夜中に扉の前で足音が止まるのは、継母が鍵をかけに来るときだけだった。
外から、かちりと錠が下りる音。
それが、あの家の「おやすみ」の代わりだった。
この扉からは、錠の音はしなかった。
翌朝、扉の前には、小さな硝子の瓶が置いてあった。
中身は、琥珀色の蜂蜜だった。
「奥様、昨日の夕食のとき、少し咳をしていらしたでしょう」
ベスが、瓶を光にかざしながら言った。
「旦那様、ご覧になってたんですねえ」
その日の昼食のあと、私は勇気を出して、旦那様の書斎の扉を叩いた。
「毛布と、蜂蜜を、ありがとうございました」
旦那様は、書類から顔も上げなかった。
「何のことだ」
「扉の前に、置いてくださいましたよね」
「知らない」
「旦那様の毛布だと、ベスが」
「……屋敷の毛布は、全部、私の毛布だ」
それは、そうかもしれない。
けれど、ペンを握る旦那様の手は、さっきから同じ単語を三回書き直していた。
私は、それ以上は何も言わずに、書斎を出た。
扉を閉める直前、ペン先が紙を破る音が聞こえた。
◇
三日目の朝は、小さな燭台だった。
私には、夜は灯りを早く消す癖がある。
伯爵家の屋根裏では、蝋燭は一晩に半分しか使わせてもらえなかったからだ。
公爵家に来てからも、その癖は抜けていなかった。
誰にも言ったことはないのに。
その夜、私は初めて、燭台の灯りをつけたまま眠った。
小さな火が、天井に丸い光を揺らしていた。
暗くない夜は、こんなに静かなのだと知った。
四日目の朝は、乾かしたラベンダーの束。
枕元に置くと、よく眠れるのだと、ベスが教えてくれた。
五日目の朝は、薄い詩集。
一枚だけ、細い栞が挟んであった。
開くと、子どもを寝かしつける母親の詩だった。
私は、その頁を何度も読んだ。
旦那様は、私の母のことなど、知らないはずなのに。
六日目の朝は、毛糸の室内履き。
寸法を測られた覚えはないのに、足にぴったりだった。
後でベスに聞いたら、婚礼の日の靴の寸法を、旦那様が仕立て屋に問い合わせていたらしい。
七日目の朝、私は侍女長のマーゴさんに、思い切って聞いてみた。
「あの……旦那様は、毎晩、私の部屋の前にいらしているのでしょうか」
マーゴさんは、白髪交じりの眉を上げた。
それから、ふうっと長い息を吐いた。
「奥様。正直に申し上げてよろしいですか」
「はい」
「旦那様は毎晩、奥様のお部屋の前で、四半刻ほど立っておられます」
「四半刻……」
「右手を上げて、扉を叩こうとなさって。下ろして。また上げて、また下ろして」
マーゴさんは、真顔で右手を上げ下げしてみせた。
「それを四半刻、繰り返されて、最後に贈り物を置いてお戻りになります。家令のトマスさんなど、廊下の角で毎晩数えております。昨夜は十七回でした」
私は、言葉を失った。
「……どうして、ですか。旦那様は、私を愛することはないと」
「ええ。存じております」
マーゴさんの目が、少しだけ細くなった。
「旦那様は、言葉の選び方が、たいそうお下手なのです」
◇
その日一日、私は考えた。
扉の前に立つ人のことを。
毛布を置いて、自分は何をかけて眠ったのか分からない人のことを。
愛されないのには、慣れている。
でも、これは、私の知っている「愛されない」とは、何かが違った。
夕食の席で、私は旦那様を盗み見た。
旦那様は、黙々とスープを飲んでいた。
私の視線に気づくと、ほんの一瞬だけ目を上げて、すぐに伏せた。
耳の先が、少し赤かった。
期待するのは、怖かった。
期待しなければ、がっかりすることもない。
十三年かけて、私はそうやって自分を守ってきた。
でも、扉の前に置かれた六つの贈り物は、どれも、私が一度も口に出さなかったことへの答えだった。
咳。暗い部屋。冷たい床。眠れない夜。
この人は、私を見ている。
婚礼の日、一度もこちらを見なかった目で。
今夜、扉を開けてみよう。
そう決めた。
◇
灯りを消して、寝台に入った。
眠ったふりをして、耳を澄ませた。
月が窓の端から端へ、半分ほど動いた頃。
足音が、来た。
規則正しい、重い足音。
扉の前で、止まる。
私は、毛布をそっとはいで、寝台を降りた。
室内履きを履いた。旦那様が置いていってくれた、毛糸の室内履きだ。
床が冷たくない。
扉の前に立つ。
向こう側に、人の気配がある。
衣擦れの音がした。きっと今、右手を上げたのだ。
私は、取っ手を握った。
そして、扉を開けた。
旦那様が、そこにいた。
右手を、ノックの形のまま宙に浮かせて。
左手には、銀の盆を持って。
盆の上には、湯気の立つ杯が一つ載っていた。
甘い匂いがした。蜂蜜を溶かした、温かい牛乳の匂いだ。
私たちは、しばらく、そのまま見つめ合った。
先に口を開いたのは、旦那様だった。
「……冷める前に、渡そうと思った」
「毎晩、ですか」
「毎晩、冷めた」
旦那様は、困ったように視線を落とした。
「冷めたものを置いていくわけにはいかない。だから、毎晩、自分で飲んだ」
私は、思わず笑ってしまった。
笑ったら、なぜか、目の奥が熱くなった。
「……では、今夜は、私がいただいてもいいですか」
「ああ」
旦那様は、盆ごと差し出した。
杯を両手で受け取ると、指先がじんわりと温かくなった。
ひと口飲む。
甘くて、熱くて、喉の奥まで柔らかくなる。
「おいしいです」
「そうか」
旦那様の肩から、ほんの少し、力が抜けたのが分かった。
◇
「最初の夜のことだ」
扉の枠にもたれて、旦那様は低い声で言った。
「王命の結婚だ。君は、望んでここへ来たのではない。この顔のことも、噂のことも、知っているだろう」
「……はい」
「だから、言いたかった。君に、何も求めない。何も強いない。怯えなくていい、と」
旦那様は、ゆっくりと息を吐いた。
「それが、口から出たら、ああなった」
私は、杯を持ったまま、ぽかんとした。
「『君を愛することはない』が、『怯えなくていい』だったのですか」
「……そのつもりだった」
「全然、違います」
「分かっている」
旦那様は、片手で顔を覆った。
「言ってすぐに、違うと分かった。その夜のうちに、取り消しに戻った。扉の前で、何と言えばいいか分からなくなった。毛布を置いて帰った」
「次の夜も」
「次の夜もだ」
廊下の角で、誰かが小さく咳払いをした。
たぶん、家令のトマスさんだ。今夜も数えていたのだろう。
「……旦那様」
「何だ」
「私、怯えてなんか、いませんでした」
旦那様が、目を上げた。
「お顔の傷も、噂も、知っていました。でも、婚礼のとき、指輪をはめてくださる手が震えていたので」
私は、少し考えてから続けた。
「この方は、寒いのかしら、と思っていました」
旦那様は、しばらく黙っていた。
それから、ほとんど聞き取れないくらいの声で言った。
「……寒くはなかった」
「では、どうして」
「緊張していた」
旦那様は、頬の傷に指先で触れた。
「礼拝堂で、君の顔を見なかったのも、わざとだ。この顔を近くで見たら、君が泣くと思った」
「泣きません」
「今は、分かる」
旦那様は、ほんの少しだけ、口の端を緩めた。
笑ったのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
使用人が三日で逃げ出すという噂の公爵は、笑うと、目尻に小さな皺ができる人だった。
廊下の角で、また誰かが咳払いをした。
私は、杯の中の牛乳を見下ろした。
毛布。蜂蜜。燭台。ラベンダー。詩集。室内履き。
それから、毎晩冷めてしまった、温かい牛乳。
扉一枚向こうで、この人は七晩も、言葉を探していたのだ。
「旦那様」
「何だ」
「一つ、お願いしてもいいですか」
旦那様が、まっすぐにこちらを見た。
「何でも言え」
「……おやすみ、と言ってください」
旦那様は、虚を突かれた顔をした。
「それだけか」
「それだけです」
声が震えないように、杯を握る手に力を込めた。
「母が亡くなってから、十三年。誰にも、言ってもらったことがないんです」
廊下の燭台の火が、小さく揺れた。
旦那様は、しばらく何も言わなかった。
灰色の目が、まっすぐに私を見ていた。
それから、一歩だけ、扉の内側へ入ってきた。
大きな手が、私の前髪をそっとかき分けた。
黒い手袋は、もう外されていた。指先が、少しだけ冷たかった。
額に、やわらかいものが触れた。
ほんの一瞬だった。
母と同じ場所だった。
「おやすみ、リディア」
低い声が、すぐ近くでした。
「いい夢を」
杯が、手の中で揺れた。
こぼれないように、旦那様の手が、私の手ごと杯を支えた。
十三年。
屋根裏の暗い部屋で、私は毎晩、誰にも何も言われずに目を閉じてきた。
言ってほしいと思うことさえ、いつの間にか忘れていた。
ぽろぽろと、涙が落ちた。
止めようとしても、止まらなかった。
「……すまない。嫌だったか」
「いいえ」
私は、首を振った。
「いいえ。……もう一度、言ってください」
「おやすみ、リディア」
「もう一度」
「おやすみ。……明日も言う。明後日も。毎晩、言う」
旦那様は、困ったような、ひどく優しい顔で、私の涙を親指で拭った。
「だから、取り消させてくれ。最初の夜の言葉を」
「今夜から、ですか」
「違う」
旦那様は、首を横に振った。
「最初の夜から、取り消す」
私は、泣きながら頷いた。
何度も頷いた。
廊下の角で、今度ははっきりと、鼻をすする音がした。
◇
翌朝、食堂に入ると、旦那様がもう席についていた。
私が椅子に座ると、旦那様は、パンの籠に手を伸ばしかけて、止まった。
それから、咳払いを一つした。
「……おはよう、リディア」
ぎこちない声だった。
まるで、初めて口にする外国の言葉みたいに。
「おはようございます、旦那様」
給仕をしていたベスが、盆を持ったまま固まった。
料理長のダニエルさんが、厨房の扉の隙間からこちらをのぞいていた。
食事のあと、廊下で家令のトマスさんとすれ違った。
トマスさんは、背筋を伸ばして、真面目な顔で報告した。
「奥様。昨夜のノックの回数は、ゼロ回でございました」
「ゼロ回?」
「はい。扉が、内側から開きましたので」
トマスさんは、そこで初めて、口の端をほんの少しだけ上げた。
「七晩分の記録は、旦那様のお許しを得て、破棄いたしました」
◇
それから半月ほどして、継母とマリエッタが公爵家を訪ねてきた。
「まあ、リディア。思ったより元気そうね」
継母は、応接間の調度を値踏みするように見回した。
マリエッタは、私のドレスをじっと見ていた。公爵家の仕立て屋が、私のために縫ってくれたドレスだ。
「噂ほど恐ろしい方ではないのでしょう?」
継母は、扇で口元を隠して言った。
「でしたら、ねえ、閣下。王命のお相手は『伯爵家の娘』でございましたわね。本来なら、王命にふさわしいのは、華やかなマリエッタのほうでして。今からでも――」
「お断りします」
旦那様の声は、低く、短かった。
「伯爵家から嫁いできたのは、リディアです。私の妻は、リディアだけです」
「ですが、どうせ閣下は、この子を愛してなどいらっしゃらないのでしょう? 冷酷な方だと、王都では評判ですもの」
継母は、自分の言葉に満足したように微笑んだ。
旦那様は、少しも表情を変えなかった。
「確かに、最初の夜、妻に『愛することはない』と言いました」
継母とマリエッタが、顔を見合わせた。
「その言葉なら、取り消しました」
「と、取り消し……?」
「最初の夜にさかのぼって、取り消し済みです」
マリエッタが、ぽかんと口を開けた。
旦那様は、静かに続けた。
「もう一つ。妻が伯爵家を発った朝、あなたは御者に『どうなっても構わない子だから』とおっしゃったそうですね」
継母の顔から、すうっと血の気が引いた。
「あの馬車は、我が家が迎えに出したものです。御者は口の堅い男ですが、あの言葉だけは、どうしても腹に据えかねたと」
応接間が、しんと静まり返った。
「どうなっても構わない娘を寄越したのは、あなた方です」
旦那様は、私の肩にそっと手を置いた。
「ですから私は、彼女を、どうにかなってしまうほど大事にするつもりです。お引き取りください」
継母が、すがるように私を見た。
「リディア、あなたからも何とか言ってちょうだい。家族でしょう」
私は、膝の上で手を重ねた。
足元には、毛糸の室内履きではなく、公爵家で仕立ててもらった新しい靴があった。
「お継母様。私は、どうにもなりませんでした」
継母が、目を瞬いた。
「毎晩、温かい牛乳をいただいて、毎晩、おやすみと言っていただいています。……それだけです」
それ以上、言うことはなかった。
継母とマリエッタは、紅茶にも手をつけずに帰っていった。
後で聞いた話では、その日のことは、なぜか王都の茶会にまで広まったらしい。
「王命の花嫁に、要らない方の娘を差し出した伯爵家」。
マリエッタの縁談は、その冬、三つ続けて流れたという。
私は、何もしていない。
継母に、手紙も書かなかった。
書きたいことが、もう何もなかったから。
◇
今夜も、私は燭台に火を灯す。
ラベンダーの束は、新しいものに替えた。
詩集は、栞の頁が少しだけ癖になって、開くといつもそこで止まる。
今夜も、足音が来る。
規則正しい、重い足音。
ただ、それはもう、扉の前では止まらない。
扉が開く。
旦那様が、銀の盆を持って入ってくる。
杯からは、蜂蜜の匂いの湯気が立っている。
「冷める前に来た」
「はい。ちょうど、温かいです」
私が牛乳を飲む間、旦那様は寝台の横の椅子に座って、私が飲み終わるのを待っている。
空になった杯を受け取ると、旦那様は立ち上がって、私の前髪をかき分ける。
額に、やわらかいものが触れる。
「おやすみ、リディア。いい夢を」
「おやすみなさい、エドガー様」
旦那様は、扉の前で一度だけ振り返る。
何か言いたそうにして、結局、いつも同じことを言う。
「明日も来る」
「はい。お待ちしています」
扉が閉まる。
足音が、遠ざかっていく。
前とは違う。
今は、明日の夜もこの足音が来ると、私は知っている。
扉の前で引き返していた人は、もういない。
(了)
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