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「君を愛することはない」と言った旦那様が、なぜか毎晩私の寝室の前で引き返していきます

掲載日:2026/11/03

「君を愛することはない」


嫁いだその夜、旦那様はそれだけ言って、寝室を出ていった。


扉が閉まる。

足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。


私は寝台の端に腰かけたまま、しばらく閉じた扉を見ていた。


不思議と、悲しくはなかった。

愛されないのには、慣れている。


◇


ハーヴェイ公爵家への縁談は、王命だった。


長く続いた領地争いを収めるために、公爵家とローランド伯爵家が縁を結ぶ。

伯爵家の娘を一人、公爵に嫁がせよ、と。


伯爵家の娘は、二人いる。

前妻の娘の私と、継母の娘のマリエッタだ。


ハーヴェイ公爵の噂は、王都の誰もが知っていた。

戦場で顔に傷を負った、黒衣の公爵。

笑ったところを見た者はいない。使用人が三日で逃げ出す。

そんな噂だ。


縁談が届いた夜、私は継母の部屋の前で、たまたまその声を聞いた。


「マリエッタを、あんな化け物のところへやれるものですか」

「では、どちらを」

「決まっているでしょう。リディアよ。あの子なら、どうなっても構わないもの」


私は、声を立てずに、屋根裏の自分の部屋へ戻った。


驚きはしなかった。

継母がそう考えることは、分かっていた。


父が再婚してから、私の部屋は二階から屋根裏へ移された。

食事は、皆が済ませた後の台所で。

新しいドレスは、マリエッタのお下がりを詰め直したもの。


それが当たり前になって、もう何年も経っていた。


父が亡くなって三年。

伯爵家の使用人は、みな継母が連れてきた人たちだった。

私に「おはよう」と言う人も、「おやすみ」と言う人も、あの家にはいなかった。


最後に「おやすみ」と言ってくれたのは、母だ。

五つの冬に、母は病で亡くなった。


母は毎晩、私の額に口づけをして、こう言った。


「おやすみ、リディア。いい夢を」


あれから、十三年が経つ。


公爵家へ発つ朝、迎えの馬車が伯爵家の門の前に着いた。

荷物は、鞄が一つだけだった。


見送りに出てきたのは、継母一人だった。

継母は、私ではなく、御者に向かって言った。


「道中で何があっても、引き返さなくて結構よ。どうなっても構わない子だから」


御者は、何も答えなかった。

ただ、私の鞄を受け取る手が、ひどく丁寧だった。


◇


婚礼は、公爵家の小さな礼拝堂で、ひっそりと行われた。


初めて会った旦那様――エドガー・ハーヴェイ公爵は、噂よりもずっと背が高かった。

頬の傷は、思っていたより古いものだった。

ただ、灰色の目が、一度も私のほうを見なかった。


誓いの言葉も、指輪の交換も、旦那様はほとんど声を出さずに済ませた。

私の指に指輪をはめるとき、黒い手袋の指先が、かすかに震えていた。


寒いのだろうか、と私は思った。


その夜、寝室に入ってきた旦那様は、扉の前に立ったまま、こちらに近づかなかった。

長い沈黙のあとで、あの一言を言った。


◇


結婚して最初の朝。

寝室の扉を開けると、足元に何かが置いてあった。


きちんと畳まれた、厚い毛布だった。


「あら、奥様。それは旦那様のお部屋の毛布ですよ」


廊下を通りかかった侍女のベスが、目を丸くした。


「旦那様の?」

「はい。北の領地から取り寄せた、羊の毛の一番いいやつです。……旦那様、ゆうべは何をおかけになって寝たんでしょう」


ベスは首をひねりながら、毛布を部屋の中へ運んでくれた。


私は、わけが分からなかった。

「愛することはない」と言った人が、どうして毛布を。


その朝の食堂で、旦那様は一言も話さなかった。

左の頬から顎にかけて、古い傷が走っている。

黒い上着に、黒い手袋。噂どおりの姿だった。


ただ、焼きたてのパンの籠が運ばれてくると、旦那様は一番柔らかそうな一つを取って、黙って私の皿に載せた。


「……ありがとうございます」

「ああ」


それだけだった。


◇


その夜のことだ。


寝台に入って、灯りを消して、しばらくした頃。

廊下の向こうから、足音が近づいてきた。


規則正しい、重い足音。

それが、私の部屋の扉の前で、ぴたりと止まった。


私は、息を詰めた。


ノックの音は、しなかった。

扉の向こうで、誰かが立っている気配だけがある。


長い、長い沈黙。


やがて、足音は、来た方へと戻っていった。


私は、暗闇の中で目を開けたまま、しばらく動けなかった。


伯爵家の屋根裏で、夜中に扉の前で足音が止まるのは、継母が鍵をかけに来るときだけだった。

外から、かちりと錠が下りる音。

それが、あの家の「おやすみ」の代わりだった。


この扉からは、錠の音はしなかった。


翌朝、扉の前には、小さな硝子の瓶が置いてあった。

中身は、琥珀色の蜂蜜だった。


「奥様、昨日の夕食のとき、少し咳をしていらしたでしょう」


ベスが、瓶を光にかざしながら言った。


「旦那様、ご覧になってたんですねえ」


その日の昼食のあと、私は勇気を出して、旦那様の書斎の扉を叩いた。


「毛布と、蜂蜜を、ありがとうございました」


旦那様は、書類から顔も上げなかった。


「何のことだ」

「扉の前に、置いてくださいましたよね」

「知らない」

「旦那様の毛布だと、ベスが」

「……屋敷の毛布は、全部、私の毛布だ」


それは、そうかもしれない。

けれど、ペンを握る旦那様の手は、さっきから同じ単語を三回書き直していた。


私は、それ以上は何も言わずに、書斎を出た。

扉を閉める直前、ペン先が紙を破る音が聞こえた。


◇


三日目の朝は、小さな燭台だった。


私には、夜は灯りを早く消す癖がある。

伯爵家の屋根裏では、蝋燭は一晩に半分しか使わせてもらえなかったからだ。


公爵家に来てからも、その癖は抜けていなかった。

誰にも言ったことはないのに。


その夜、私は初めて、燭台の灯りをつけたまま眠った。

小さな火が、天井に丸い光を揺らしていた。

暗くない夜は、こんなに静かなのだと知った。


四日目の朝は、乾かしたラベンダーの束。

枕元に置くと、よく眠れるのだと、ベスが教えてくれた。


五日目の朝は、薄い詩集。

一枚だけ、細い栞が挟んであった。

開くと、子どもを寝かしつける母親の詩だった。


私は、その頁を何度も読んだ。

旦那様は、私の母のことなど、知らないはずなのに。


六日目の朝は、毛糸の室内履き。

寸法を測られた覚えはないのに、足にぴったりだった。

後でベスに聞いたら、婚礼の日の靴の寸法を、旦那様が仕立て屋に問い合わせていたらしい。


七日目の朝、私は侍女長のマーゴさんに、思い切って聞いてみた。


「あの……旦那様は、毎晩、私の部屋の前にいらしているのでしょうか」


マーゴさんは、白髪交じりの眉を上げた。

それから、ふうっと長い息を吐いた。


「奥様。正直に申し上げてよろしいですか」

「はい」

「旦那様は毎晩、奥様のお部屋の前で、四半刻ほど立っておられます」

「四半刻……」

「右手を上げて、扉を叩こうとなさって。下ろして。また上げて、また下ろして」


マーゴさんは、真顔で右手を上げ下げしてみせた。


「それを四半刻、繰り返されて、最後に贈り物を置いてお戻りになります。家令のトマスさんなど、廊下の角で毎晩数えております。昨夜は十七回でした」


私は、言葉を失った。


「……どうして、ですか。旦那様は、私を愛することはないと」

「ええ。存じております」


マーゴさんの目が、少しだけ細くなった。


「旦那様は、言葉の選び方が、たいそうお下手なのです」


◇


その日一日、私は考えた。


扉の前に立つ人のことを。

毛布を置いて、自分は何をかけて眠ったのか分からない人のことを。


愛されないのには、慣れている。

でも、これは、私の知っている「愛されない」とは、何かが違った。


夕食の席で、私は旦那様を盗み見た。


旦那様は、黙々とスープを飲んでいた。

私の視線に気づくと、ほんの一瞬だけ目を上げて、すぐに伏せた。


耳の先が、少し赤かった。


期待するのは、怖かった。

期待しなければ、がっかりすることもない。

十三年かけて、私はそうやって自分を守ってきた。


でも、扉の前に置かれた六つの贈り物は、どれも、私が一度も口に出さなかったことへの答えだった。

咳。暗い部屋。冷たい床。眠れない夜。


この人は、私を見ている。

婚礼の日、一度もこちらを見なかった目で。


今夜、扉を開けてみよう。


そう決めた。


◇


灯りを消して、寝台に入った。

眠ったふりをして、耳を澄ませた。


月が窓の端から端へ、半分ほど動いた頃。


足音が、来た。


規則正しい、重い足音。

扉の前で、止まる。


私は、毛布をそっとはいで、寝台を降りた。

室内履きを履いた。旦那様が置いていってくれた、毛糸の室内履きだ。


床が冷たくない。


扉の前に立つ。

向こう側に、人の気配がある。

衣擦れの音がした。きっと今、右手を上げたのだ。


私は、取っ手を握った。


そして、扉を開けた。


旦那様が、そこにいた。


右手を、ノックの形のまま宙に浮かせて。

左手には、銀の盆を持って。


盆の上には、湯気の立つ杯が一つ載っていた。

甘い匂いがした。蜂蜜を溶かした、温かい牛乳の匂いだ。


私たちは、しばらく、そのまま見つめ合った。


先に口を開いたのは、旦那様だった。


「……冷める前に、渡そうと思った」

「毎晩、ですか」

「毎晩、冷めた」


旦那様は、困ったように視線を落とした。


「冷めたものを置いていくわけにはいかない。だから、毎晩、自分で飲んだ」


私は、思わず笑ってしまった。

笑ったら、なぜか、目の奥が熱くなった。


「……では、今夜は、私がいただいてもいいですか」

「ああ」


旦那様は、盆ごと差し出した。

杯を両手で受け取ると、指先がじんわりと温かくなった。


ひと口飲む。

甘くて、熱くて、喉の奥まで柔らかくなる。


「おいしいです」

「そうか」


旦那様の肩から、ほんの少し、力が抜けたのが分かった。


◇


「最初の夜のことだ」


扉の枠にもたれて、旦那様は低い声で言った。


「王命の結婚だ。君は、望んでここへ来たのではない。この顔のことも、噂のことも、知っているだろう」

「……はい」

「だから、言いたかった。君に、何も求めない。何も強いない。怯えなくていい、と」


旦那様は、ゆっくりと息を吐いた。


「それが、口から出たら、ああなった」


私は、杯を持ったまま、ぽかんとした。


「『君を愛することはない』が、『怯えなくていい』だったのですか」

「……そのつもりだった」

「全然、違います」

「分かっている」


旦那様は、片手で顔を覆った。


「言ってすぐに、違うと分かった。その夜のうちに、取り消しに戻った。扉の前で、何と言えばいいか分からなくなった。毛布を置いて帰った」

「次の夜も」

「次の夜もだ」


廊下の角で、誰かが小さく咳払いをした。

たぶん、家令のトマスさんだ。今夜も数えていたのだろう。


「……旦那様」

「何だ」

「私、怯えてなんか、いませんでした」


旦那様が、目を上げた。


「お顔の傷も、噂も、知っていました。でも、婚礼のとき、指輪をはめてくださる手が震えていたので」


私は、少し考えてから続けた。


「この方は、寒いのかしら、と思っていました」


旦那様は、しばらく黙っていた。

それから、ほとんど聞き取れないくらいの声で言った。


「……寒くはなかった」

「では、どうして」

「緊張していた」


旦那様は、頬の傷に指先で触れた。


「礼拝堂で、君の顔を見なかったのも、わざとだ。この顔を近くで見たら、君が泣くと思った」

「泣きません」

「今は、分かる」


旦那様は、ほんの少しだけ、口の端を緩めた。

笑ったのだと気づくまでに、少し時間がかかった。


使用人が三日で逃げ出すという噂の公爵は、笑うと、目尻に小さな皺ができる人だった。


廊下の角で、また誰かが咳払いをした。


私は、杯の中の牛乳を見下ろした。


毛布。蜂蜜。燭台。ラベンダー。詩集。室内履き。

それから、毎晩冷めてしまった、温かい牛乳。


扉一枚向こうで、この人は七晩も、言葉を探していたのだ。


「旦那様」

「何だ」

「一つ、お願いしてもいいですか」


旦那様が、まっすぐにこちらを見た。


「何でも言え」

「……おやすみ、と言ってください」


旦那様は、虚を突かれた顔をした。


「それだけか」

「それだけです」


声が震えないように、杯を握る手に力を込めた。


「母が亡くなってから、十三年。誰にも、言ってもらったことがないんです」


廊下の燭台の火が、小さく揺れた。


旦那様は、しばらく何も言わなかった。

灰色の目が、まっすぐに私を見ていた。


それから、一歩だけ、扉の内側へ入ってきた。


大きな手が、私の前髪をそっとかき分けた。

黒い手袋は、もう外されていた。指先が、少しだけ冷たかった。


額に、やわらかいものが触れた。


ほんの一瞬だった。

母と同じ場所だった。


「おやすみ、リディア」


低い声が、すぐ近くでした。


「いい夢を」


杯が、手の中で揺れた。

こぼれないように、旦那様の手が、私の手ごと杯を支えた。


十三年。

屋根裏の暗い部屋で、私は毎晩、誰にも何も言われずに目を閉じてきた。

言ってほしいと思うことさえ、いつの間にか忘れていた。


ぽろぽろと、涙が落ちた。

止めようとしても、止まらなかった。


「……すまない。嫌だったか」

「いいえ」


私は、首を振った。


「いいえ。……もう一度、言ってください」

「おやすみ、リディア」

「もう一度」

「おやすみ。……明日も言う。明後日も。毎晩、言う」


旦那様は、困ったような、ひどく優しい顔で、私の涙を親指で拭った。


「だから、取り消させてくれ。最初の夜の言葉を」

「今夜から、ですか」

「違う」


旦那様は、首を横に振った。


「最初の夜から、取り消す」


私は、泣きながら頷いた。

何度も頷いた。


廊下の角で、今度ははっきりと、鼻をすする音がした。


◇


翌朝、食堂に入ると、旦那様がもう席についていた。


私が椅子に座ると、旦那様は、パンの籠に手を伸ばしかけて、止まった。

それから、咳払いを一つした。


「……おはよう、リディア」


ぎこちない声だった。

まるで、初めて口にする外国の言葉みたいに。


「おはようございます、旦那様」


給仕をしていたベスが、盆を持ったまま固まった。

料理長のダニエルさんが、厨房の扉の隙間からこちらをのぞいていた。


食事のあと、廊下で家令のトマスさんとすれ違った。

トマスさんは、背筋を伸ばして、真面目な顔で報告した。


「奥様。昨夜のノックの回数は、ゼロ回でございました」

「ゼロ回?」

「はい。扉が、内側から開きましたので」


トマスさんは、そこで初めて、口の端をほんの少しだけ上げた。


「七晩分の記録は、旦那様のお許しを得て、破棄いたしました」


◇


それから半月ほどして、継母とマリエッタが公爵家を訪ねてきた。


「まあ、リディア。思ったより元気そうね」


継母は、応接間の調度を値踏みするように見回した。

マリエッタは、私のドレスをじっと見ていた。公爵家の仕立て屋が、私のために縫ってくれたドレスだ。


「噂ほど恐ろしい方ではないのでしょう?」


継母は、扇で口元を隠して言った。


「でしたら、ねえ、閣下。王命のお相手は『伯爵家の娘』でございましたわね。本来なら、王命にふさわしいのは、華やかなマリエッタのほうでして。今からでも――」

「お断りします」


旦那様の声は、低く、短かった。


「伯爵家から嫁いできたのは、リディアです。私の妻は、リディアだけです」

「ですが、どうせ閣下は、この子を愛してなどいらっしゃらないのでしょう? 冷酷な方だと、王都では評判ですもの」


継母は、自分の言葉に満足したように微笑んだ。


旦那様は、少しも表情を変えなかった。


「確かに、最初の夜、妻に『愛することはない』と言いました」


継母とマリエッタが、顔を見合わせた。


「その言葉なら、取り消しました」

「と、取り消し……?」

「最初の夜にさかのぼって、取り消し済みです」


マリエッタが、ぽかんと口を開けた。


旦那様は、静かに続けた。


「もう一つ。妻が伯爵家を発った朝、あなたは御者に『どうなっても構わない子だから』とおっしゃったそうですね」


継母の顔から、すうっと血の気が引いた。


「あの馬車は、我が家が迎えに出したものです。御者は口の堅い男ですが、あの言葉だけは、どうしても腹に据えかねたと」


応接間が、しんと静まり返った。


「どうなっても構わない娘を寄越したのは、あなた方です」


旦那様は、私の肩にそっと手を置いた。


「ですから私は、彼女を、どうにかなってしまうほど大事にするつもりです。お引き取りください」


継母が、すがるように私を見た。


「リディア、あなたからも何とか言ってちょうだい。家族でしょう」


私は、膝の上で手を重ねた。

足元には、毛糸の室内履きではなく、公爵家で仕立ててもらった新しい靴があった。


「お継母様。私は、どうにもなりませんでした」


継母が、目を瞬いた。


「毎晩、温かい牛乳をいただいて、毎晩、おやすみと言っていただいています。……それだけです」


それ以上、言うことはなかった。


継母とマリエッタは、紅茶にも手をつけずに帰っていった。


後で聞いた話では、その日のことは、なぜか王都の茶会にまで広まったらしい。

「王命の花嫁に、要らない方の娘を差し出した伯爵家」。

マリエッタの縁談は、その冬、三つ続けて流れたという。


私は、何もしていない。

継母に、手紙も書かなかった。


書きたいことが、もう何もなかったから。


◇


今夜も、私は燭台に火を灯す。

ラベンダーの束は、新しいものに替えた。

詩集は、栞の頁が少しだけ癖になって、開くといつもそこで止まる。


今夜も、足音が来る。


規則正しい、重い足音。

ただ、それはもう、扉の前では止まらない。


扉が開く。

旦那様が、銀の盆を持って入ってくる。

杯からは、蜂蜜の匂いの湯気が立っている。


「冷める前に来た」

「はい。ちょうど、温かいです」


私が牛乳を飲む間、旦那様は寝台の横の椅子に座って、私が飲み終わるのを待っている。

空になった杯を受け取ると、旦那様は立ち上がって、私の前髪をかき分ける。


額に、やわらかいものが触れる。


「おやすみ、リディア。いい夢を」

「おやすみなさい、エドガー様」


旦那様は、扉の前で一度だけ振り返る。

何か言いたそうにして、結局、いつも同じことを言う。


「明日も来る」

「はい。お待ちしています」


扉が閉まる。

足音が、遠ざかっていく。


前とは違う。

今は、明日の夜もこの足音が来ると、私は知っている。


扉の前で引き返していた人は、もういない。


(了)


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