聖女の資質 #とは
異世界召喚 聖女召喚 異世界VS異世界 マイルドプランタジネット
「我が義妹を無断で拐したのはお前たちか?」
先日使われた聖女召喚の魔法陣が独りでに輝いて、現れたのは白銀の鎧をまとった偉丈夫だった。太陽の光を絹糸にしたような美しく鮮やかな金髪に、ピジョンブラッドルビーのような深い紅色の瞳。整った顔に朗らかな笑みを浮かべているが、その声に温かみはない。
「…お前は何者だ」
おざなりに配置されていた木っ端兵士如きでは話にならない相手だということをその存在感のみでわからされながらも、警備兵が問いかける。自分たちは何か物凄く拙いことをしてしまったのではないか、と肌感覚からひしひしと感じ取っていた。更に言えば、彼が現れたことで魔法陣の輝きが消失したわけではない。まだ何も、始まっていないし、終わっていないのだ。
「ああ。異世界だから俺の顔と紋を見ても俺が誰なのかわからないのか。…うん。では名乗ろう」
男は朗々とあたりに声を響かせる。
「私は金鱗双角王国が第三王子、リカルド!我が弟の妻にして義妹、知恵の泉の当主リナリアを奪還することが我が目的である!無傷で返せばよし。返還を拒む、或いは不当な扱いを行っていたとわかったならば、私は己の全力をもってお前たちを蹂躙し、それに報いることとしよう!!」
声を張り上げているという様子でもないのに、その声は部屋の中だけでなく建物全体、いやその外までも届いていた。ビリビリと扉や窓などの板材が震える。そして、声を聞きつけて城内が騒がしくなった。まあ当然だろう。それは事実上の宣戦布告に近かったのだから。
「単騎で国に喧嘩を売ろうなどと、豪気を通り越して蛮勇が過ぎるだろう。それとも我らを愚弄しているのか?」
「いや?そもそも、リナリアを素直に返してくれるのであればそれで終わりだ。態々我が軍、我が同志たちを呼び寄せる必要もない。言うなれば、私は使者として此処に立っているのだからな。…確かに不躾極まりない呼びつけ方ではあるが、何か事情があったのかもしれない、とあの子であれば言うだろうし。問答無用で攻め滅ぼすことは止めておくことにしたんだ」
響きこそ朗らかだが、男の言葉に彼らに対する親しみの色はない。ある意味で当然のことではあった。異世界にまで迎えに来るほど大切な家族を、突然連れ攫われて怒りがないわけがないのだから。
しかし彼らは彼らで、はいそうですかと召喚された聖女を返せない理由があった。というよりそもそも、聖女を召喚した目的をまだ果たせていなかった。
この世界における聖女とは荒ぶるドラゴンを鎮めるために捧げられる清らかな乙女である。どんなに凶暴凶悪なドラゴンが怒り狂い暴れていたとしても、本当に力ある聖女であればそれを鎮め、ドラゴンの力を民への恵みに変えることができる…と言われている。もっとも、力を民への恵みへ変えるというのは伝承伝説の話であって、確かな記録に残る範囲ではドラゴンに暴れるのを止めさせる留まりなのだが。
そんなことをこの男に言えば「我が義妹を生贄にするつもりで連れ去ったのか?」と激高させるのは目に見えている。何しろ召喚した側がこれってつまり生贄ってことだよなって思いながらやっているので弁明のしようがない。その上で召喚された聖女に、立ち会った王子たちが揃って惚れてしまってしっちゃかめっちゃかになっていた。
元よりこの場に自分の権限で何らかの許可を出したり交渉したりできる身分の人間はいない。念のために置かれていた見張りの兵士に過ぎないのだから当然のことではある。しかし、この男にそんな理屈が通用するのかは怪しいところである。口では平和的な解決を望んでいるようなことを言っているが、本心では開戦を望んでいることが、油断ない立ち姿と立派な甲冑、明らかに飾りではない長剣からわかる。戦の準備が万端に整っている。
なにより、姿はお互い人間同士に見えるのに、この男の視線は彼らを己の同族とはみなしていない。この男は恐らく彼らを斬り捨てることに些かの痛痒も躊躇も感じないだろう。
「さて、リナリアは何処にいる?交渉が必要ないというなら、こちらも容赦なく攻め滅ぼさせてもらうだけだが」
男がそう言った時、丁度近衛兵を引き連れた第二王子がガチャガチャやってきた。
「お前が聖女の親族か?」
「聖女?リナリアが?…。いや、我らの思う聖女とあちらの思う聖女が別物であるだけかもしれないな。お前たちの言う聖女とはどのような娘のことを言うんだ?」
「聖女がどのような存在か?そんなものは言うまでもないだろう。美しく清らかな乙女、ドラゴンを鎮められる娘だ」
「成程。であるなら、リナリアはそれに当てはまらない!!何故なら彼女は我が弟の妻、既に二人の子を産んだ母親だからだ!!…まあ、夫婦で愛し合ったからといってその身が穢れることはないだろうが、処女ではない」
「…は?」
「先程から何度も言っているだろう。リナリアは我が弟の妻。既婚の貴婦人だ。我が弟とは昔から相思相愛のおしどり夫婦だぞ。あの子が美しく愛らしく清廉な娘であることは否定しないがなぁ」
「だっ…騙したのかあの女?!」
取り乱す第二王子に男は明らかに気分を害した顔をした。警備兵は周囲の温度が、すっと下がったかのような心地がした。
「騙したもなにも、そちらが勝手に勘違いして彼女を拐したのだろう。責任転嫁は見苦しいぞ」
「あんな無垢で男を知らなさそうな顔で子持ちの人妻?!信じられない…故郷に愛する人がいるとはそういえば言っていたが…」
「…まさかお前、リナリアに無理矢理迫ったのか?」
「ひっ…ふ、触れてもいないとも!清らかな乙女でなくなれば聖女の役目を果たせなくなるからな…っ」
表情を消した男に剣を突き付けられて第二王子は後ずさる。近衛兵は慌てて男に手にした武器を向けようとしたが、目に見えない何かに阻まれて剣も槍も折れ砕けた。よく見れば男は魔法陣が光っているのとはまた別に、周囲に淡い金色の光を纏っているようだった。
男は交渉の必要はないと見做したのか、二振り目の剣(実戦用ではない儀式剣に見える)を床に突き立てた。
「私は此処に開戦を宣言する。…ノエル!門を開け、彼らにリナリアや我らへの敬意はなく、些かの罪の意識や謝罪の意思すら存在しないようだ!」
男が吼えると共に魔法陣に灯っていた光が爆発するように広がった。その場にいた者たちには確認できなかったが、その光は城のある王都全体を一瞬で包み込み、大地に高度な魔法紋を刻みこんだ。
次の瞬間、数多の魔法陣が王都の各地に現れ、同一の紋章を身に着けた騎士の軍勢が転送されてくる。男の傍にも十人ほどの武装した騎士が姿を現した。
「我が軍勢!我が同志たちよ!!存分に殺し、奪え!!この地は滅ぼすべき我らが敵の国である!!!思うままに戦い、望みのものを得るがいい!この金竜王家第三王子リカルドが許す!侵攻せよ!!」
男の声が響き渡ると同時、軍勢は鬨の声を上げて侵攻を開始した。
老若男女の区別なく、男は自分に向かってくるものどころか目についたもの全てを斬り殺しながら城内を巡った。攫われた義妹を探すためである。そして奥まった宮の、外から出入りを制限された部屋の中で目的の相手を見つけた。銀の鎧も金の髪も斬り殺してきた人間の血で赤く汚れ、戦の昂揚で目をギラギラさせている男を見て、その娘はおっとりと笑う。
「まあ、リカルド義兄さま。迎えにきてくださったのですか?」
その柔らかな声で、男は殺気を消しパッと心からの朗らかな笑みを浮かべる。
「リナリア!無事だったか?お前を攫ったものたちはこの義兄が殺してきてやったぞ!!」
「ええ、私に怪我などはありません。ノエルさまは…一緒ではないのですね」
「本当はノエルも来たがっていたのだがな。万一を考えて後方支援…この世界と我らの世界を繋ぐ門の作成と維持に専念してもらった。お前を奪還しても帰れなくなったら困るだろう?」
「そうですね。そのような大魔法を過たず使える方は、王国においてはノエルさまと、宮廷魔術師長くらいでしょうか。一人二人転送するだけならまだしも、軍勢ともなれば半端な魔力では魔力切れで倒れますからね」
ほうと溜息をつく彼女に、男は眉尻を下げる。
「本当に、ノエルも来たがっていたというか、お前を攫った輩にカンカンだったんだぞ?召喚の残り香から逆探知して、すぐ奪還を求めるんでなく、態々俺たちにこの蛮族どもを滅してくれと頼みに来たくらいだからな」
「あらまあ。…久しぶりに夫婦で揃って夜会に参加できるはずでしたものね…」
彼女は召喚された時、丁度夫と共に王城での舞踏会に参加するための身支度を終えたところだった。躯をあまり締め付けないエンパイアラインのドレスに夫とペアの装飾品を合わせた、上品な貴婦人スタイルである。夫婦で並べば睦まじいカップルに見えただろうが、生憎連れてこられたのは彼女一人だったため、麗しく高貴な女性であるとしかわからなかったらしい。
「私が不甲斐ないばかりに、皆さまにご迷惑をおかけしました」
「リナリアが気にすることはない。悪いのは無断でお前を拐したこの国の蛮族どもだからな!それに、考えようによっては、これもいい機会だ。ゴッドフリードにはそろそろガス抜きというか、好き勝手するための新たな領地が必要だったからな。この国をくれてやれば、暫くは"俺が王になる!"と本国で癇癪を起すこともないだろう。そうだ、ついでに父上にもこちらの世界の侵略戦争を唆して送り出しておけば、兄上が本国で王太子として実績を積める機会になるんじゃないか?父上にはそろそろ己の老いというものを実感してもらわないと困るしな」
「確かに、ヴィルグリム様は侵略戦争に乗り気になるかもしれませんし、その間にアルフレートさまは次代の王としての存在感を家臣に見せられるかもしれませんが、兵站はともかく兵隊は無限ではありませんから、ヴィルグリム様が異界の地で斃れる危険もあります。後方支援もきちんと手配しませんと」
「父上のことだからご自分でどうにかされると思うがな。寧ろ俺たちに御膳立てされなければダメだというならそれこそ潔く引退してもらいたいところだ」
男の実の父たる現王はそれこそ末っ子が二児の父になるくらいの年なので。
「ヴィルグリム様は老いてなお矍鑠としていらっしゃいますからね…」
「父上は俺や兄上をまだ後を継がせるには幼い子供だと思っていらっしゃる」
「その点に関してはリカルドお義兄さまもノエルさまを未だに子供扱いしていらっしゃいますから、あまり他人のことは言えないと思いますが」
ちなみに次兄と四兄はそこまででもない。兄弟ではこの三兄だけである。まあ末弟と10近く年が離れているとはいえ、ちゃんと毎年誕生祝をしていたし、成人祝いも自分で贈ってたはずなのだが。
「…いや。一応わかっているんだ。ノエルもとうに成人して、立派に独り立ちしてリナリアと結婚して姪っ子と甥っ子が生まれて父親になっていることは、事実として理解している。だが、俺にとってはいつまでたっても可愛い弟でな?」
「私に仰られても…」
男に同行していた騎士の一人が男に、そろそろ彼女を元の世界にエスコートするべきではないかと声をかけた。
「それもそうだな…。そういえば、ノエルが夜会のために衣装を新調したと言っていたが、そのドレスか?あまり見ない型だな」
「いえ。流石に着替えていますよ。これは此処に用意されていた服です。着の身着のままでいられませんし、折角のドレスを台無しにしたくありませんでしたし…」
「…ノエルのことだから、お前を拐して数時間程度のところに繋いだかと思ったが」
「そうですね…此処に連れてこられて五日…いえ、七日ほどになるでしょうか。時間感覚が狂わされていなければ、になりますが」
「……。うん!あちらで開戦と門の準備のために一月かかったことを思えば誤差だな!」
「お義兄さまたちの到着が遅れても、別の形で私に与えられた国滅ぼしの予言が成就していただけでしょうから、お気になさらず」
彼女は幼い頃に先代当主から、いずれ国を滅ぼすことになるという予言を授けられていた。
なお金竜王国の当代には国を亡ぼす可能性があるという予言を与えられた者は十人以上いる。その筆頭が老王であるため、他国を滅ぼすという意味だと解釈されてスルーされている。
「ああ。晴れてノエルとお前の予言が成就したな」
「それこそ良いのか悪いのか…先代も頭を抱えていたことでしょう」
「そうしようという意志があれば国など簡単に滅びる。知恵の泉の予言はどうあっても成就するものというわけではない、とはお前も承知していたと思うが」
「予言を告げなかった場合に一番そうなる可能性が高い事象であると同時に、解釈の余地というものもありますからね。先代が何を感じとっていたかは…もはやわかりません」
知恵の泉の予言は最悪を避けるために告げられるものである。まあ言うまでもなく、王国を滅ぼす可能性もあったのだろう。今のところそれは避けられているというだけで。
「まあ、それは良いだろう。帰ろう、リナリア。ノエルが待っている」
「…私ももう幼い子供ではないのですが」
己を抱きかかえようとする男に彼女は眉根を寄せる。男は少し困ったような顔をする。
「ノエルの開いた門を通すのに、こうする必要があってな?この世界のやつが無断であちらに渡ってこないようにする必要があるからでもあるんだが」
「…少々はしたないですが、仕方ありませんね…でも、その前にリカルドお義兄さまは返り血を拭っていただけますか?血の染みは落としにくいので」
「おお。そういえばそうだな。少し待ってくれ」
男は適当な布で目についた返り血を拭った。その間に彼女は必要な荷物をまとめた。主に此処に来た時身に着けていたものである。この地で新しく入手して持ち帰りたいものがあるわけではないので。
「ああ、そういえば私が此処に連れてこられた理由ですけど」
「ああ、聖女がどうとか言っていた奴か。気になるのか?」
「私に解決できることではありますから。私でなくとも解決できることでもありますが。…この地を征服するのであれば、ついでに解決しておきますか?」
ドラゴンを鎮められる聖女が必要だというくらいだから、厄介なドラゴンが国内にでも棲んでいるのだろう。どれほどの力を持ったドラゴンであるかにもよるが、まあ一兵卒にどうにかできる相手ではあるまい。
「ふむ…確かにいずれ対処する必要があるのであれば、それも手だな。すぐ終わるのか?」
「実際に見てみないことには、どれくらいかかるものかは…。でも恐らく、接触することが一番労力のいることですよ。あなたより厄介な竜はそういません」
「なら寄り道していくか。何処に連れていけばいい?」
「この城の北にある森です」
男が抱えて走った方が速いからと、男は彼女を抱えて北の森へ向かった。植生は多少異なるものの、故郷の森と大差のない広葉樹林だ。時々彼女に行くべき方向を尋ねて指さしてもらい、森の中を進んでいくと、石で組まれた舞台のようなものがあった。そこに赤い竜が寝そべり目を閉じている。
竜は男たちを感知して目を開く。高温の炎のような紫みを帯びた青い瞳が彼らを捉えると、竜は人の形をとった。長い赤髪の偉丈夫である。
「新しい花嫁か?」
「は?」
「いいえ。私には既に愛する夫と子供たちがいますから、あなたに嫁ぐことはできません」
「それは残念だ」
彼らに接近しようとする竜に男は険しい顔で睨みつける。竜は喉の奥でくつくつと笑った。
「悋気の強い夫だな、娘。だが、肝の据わっているのはそれのお陰か」
「いえ、この方は私の夫ではなく義兄です。夫の兄」
「…。付き合う相手は考えた方が良いぞ」
「ふふ。お義兄さまは私にとっても夫にとっても、大切な愛する家族ですわ」
「そうか…」
彼女は男に抱えられたまま竜の頭を撫でる。竜は眉尻を下げながら目を細めた。
「…既に面影も朧だが、お前の手は遠い昔に喪ったものを思い出させる。…ゆかりのものではないだろうにな」
「世は移ろいゆくものです。ありふれたものなら、似たようなものが再び生まれることもまたあるでしょう」
「お前は己がありふれたものだと?」
「私は凡庸な人間ですよ。当主として必要な水準は満たしていますが、己一人で何かを変えられるような力は持っていませんから」
「お前が助けを求めれば喜んで力を貸すものは幾らでもいるがな」
「ええ、私は周囲の方と巡り合わせに恵まれています」
彼女はにこやかにそう、男に返したあと、すっと竜を見る。閑かな森の奥の泉水のような、深い碧色の瞳が、竜を映して淡く光を帯びる。
「滅すのに飽いたのなら、魂の求める相手を探すと良いでしょう。心臓を預ければ、あなたは穏やかにいけます。疾く死にたいのであれば金竜に挑むと良いでしょう。何代かかっても確実に仕留めてくれます」
「…それは予言か?」
「ええ。それが知恵の泉の役割の一つですから」
「そうか。…どちらを選ぶか、暫し考えさせてもらうとしよう」
竜は再び赤い竜の形に戻って元のように寝そべって目を閉じた。男は城に戻るため来た道を逆に辿り始める。
竜から十分離れてその姿が見えなくなったところで呆れたような声で彼女に言う。
「万一の始末をしれっと俺たちに押し付けたな?」
「でも、お好きでしょう?ドラゴン討伐」
「実際やるとなったら心躍らん金竜はいないだろうがな…」
「駄目でしたか?」
「いや、お前の判断は正しい。しかしな。ああしてお前に頭を撫でてもらっていたのが妬ましい」
「流石にそういう甘え方は私ではなくお義姉さまにしてくださいまし」
王都から転移して二人は本来の世界に戻ってきた。男が彼女を床に降ろすと、待ちかねた様子で青年が走ってきて彼女を抱きしめた。
「リナリア!!礼儀のなっていない蛮族どもに不快な思いはさせられなかったか?守護魔法が砕けた気配はなかったから怪我無いはずだが」
「私は無事ですわ、ノエルさま。ノエルさまこそ、私がいない間、不摂生をされていたのではありませんか。万全を保ってこそ最善を尽くせるものですよ」
ぽんぽんと彼女が青年の背をはたいてみても、青年は腕の力を緩めようとはしない。
「君が攫われて万全を保てるわけがないだろう、俺が!」
「あらまあ」
「あらまあじゃないぞ。君がいなきゃ俺は生きていけないんだからな」
「あなたも二児の父なんですから、子供たちに責任をもってくださいまし」
「嫌だ」
「ノエルさま」
「リナリアがいない世界に意味なんかない」
「駄々っ子のようなことを言わないでくださいまし、ノエルさま。またお兄様方に笑われましてよ?」
「それはお前が攫われた後に兄上に泣きついた時点で、この末っ子は兄がいないと何もできないんだな~って目で見られているから今更なんだ。俺は番いがいないと何もできない男として生きる」
「お留守番くらいは良い子でしてくださいまし。私がノエルさまのいないところで死んだりするわけがないじゃありませんか。守護魔法をこんなに手厚くかけておいて」
彼女は青年の頭を、髪を梳くようにして撫でる。食事や睡眠を疎かにしていたのか、やや顔色が悪い。
「不測の事態に絶対があるわけがない。俺の知らぬ場所で俺の知らぬ人間やら人外やらがリナリアに近づくんだぞ。横恋慕してちょっかいをかける輩がいないわけがない。か弱いリナリアに無理矢理迫るような輩がいる可能性だって…!」
「まあ、うふふ。私、ノエルさま一筋でしてよ。年若い小娘みたいに震えながらされるがままに貪られたりはしませんわ」
ころころと笑う彼女に青年は絶望的な顔をした。
「いなかったって言わない…リナリアに手を出そうとする野郎がいたんだ…リナリアは可愛いから当然だけど…」
「私を気に入って口説いてきたわけではなく、美しく従順そうな女なら誰でも良かっただけですわ。論外です」
「まあ大体殺したしな」
「兄上は会話に入ってこようとしないでください」
青年に睨まれて男は両手を上げて降参のポーズをした。彼女が口元を隠して苦笑する。
「ノエルさま、私、お腹が空きましたから、一緒に何か食べに行きましょう。確か、王都には美味しいパンケーキを出すカフェがあるのでしょう?」
「ああ。リナリアが望むなら今すぐ行こう。すぐ馬車を用意させる」
「では、リカルドお義兄さま、また落ち着いた後に」
「ああ。兄上たちも心配しているから、また改めて二人で顔を見せにきてくれ」
二人きりの馬車の中で妻は夫に問いかける。
「人前で無能を演じる悪癖は止めていただけたと思っていたのですけれど」
「仕方ないだろう。この期に及んで俺にハニトラ仕掛けようなんて考える馬鹿がいるんだから。あと兄上のストッパーさせようとするやつ。俺は領地で家族と穏やかに暮らす方が性に合っているというのに」
「お兄様方のストッパーはお義姉さま達にお任せできると良いのですけれど、利かない場合もありますからね…」
「義姉上たちに叱られても止まらない時に俺に止められるわけがないだろう。俺の影響力を過大評価しすぎだ」
しかしまあ、彼が頼めば兄らが大体二つ返事で引き受けてくれるのも事実である。何を言っても絶対に、というわけではない。だが、相手が頭の回転が速くて行動の思い切りも良すぎるため、常人では追い付けない速度で突っ込んでいくタイプのバーサーカーであるため止める手段はあればあるだけいい、と家臣らに思われているところはある。逆に彼に何かあったと聞いた時に弾丸のように飛び出していったりもするが。
「リカルドお義兄さまにはよく効きますよ?飛び出していく時の勢いも一際ですが」
「それはお前を相手にした時でもそうだろう。知恵の泉ゆえの説得力もあるしな…」
この夫婦は幼い頃から肉親および近しい親戚などに可愛がられて育ってきた。およそ溺愛と言っても間違いではない。彼・彼女の安寧を侵し笑顔を曇らせるようなものがあれば、即座に叩き潰そうとするような身内に恵まれすぎている。しかも庇護者が高位権力者なので影響範囲がとても広い。必然、その処遇も挙動も国を左右することになる。まあ本人たちはそこまで大袈裟な扱いを受けることを望んでいないんだが。
ちなみにこの世界においては、この二人のような存在をファタールと呼んでいる。幼い頃にお互いが婚約者になったのも、何かあった時に助けを求められたりしなくても無断で動いていい立場の相手がファタールの危機に暴走するタイプだと拙いからである。最悪、国が亡びる。
「それこそ過大評価ですよ。私は誰かの知っていることしかわかりません。誰もわからないことは管轄外です」
「そんなこともわからない人間がいるから、知恵の泉は王族が保護することになっているんだろう。あと普通にお前は有能だからな」
「私は当主と言えど伯爵ですし」
「歴代が面倒事を嫌って昇爵を嫌がっているが故に、王族への拝謁を許される伯爵止まりになっている家系のな」
「私にはこれぐらいが分相応なのですもの」
「異論はないよ。より上の爵位を得たらこれまで以上に交遊を広げる必要もあるだろうしな」
青年が本当に嫌そうな顔をするので彼女は苦笑した。
悋気を起こしているで片付けるには、ここまでの交友関係で発生した人間関係のトラブルの量が多すぎて杞憂と流せない。二人が社交界から基本的に少し距離を置いているのは、そうしたトラブルをできるだけ避けるためでもある。まあ距離を置きすぎてもそれはそれでトラブルに繋がるので加減が難しいのだが。
二人とも他者から強烈に好意も悪意も抱かれがちなところがある。彼ら自身は大したことをした覚えのない相手にやたらと重い感情を向けられがちなので厄介だ。まあだからファタールなんて言われるのだが。
「…ふう。パンケーキをいただいたら、今回の後始末に取り組まねばなりませんね」
「子供たちも寂しがっているだろうしな…」
使用人たちに手厚く世話をされているはずではあるが、それはそれ。夜会に出るために預けてきただけで、領地で夫妻は子供たちを直接育てているという貴族には珍しい方針の家だ。普段は日常的に顔を合わせている相手が、突発的な事情で一月まともに顔を合わせることもできないでいるとなれば、寂しがらないはずがない。
「可能な限り早く片付けるしかありませんね」
「全くその通りだ」
ノエリナ夫婦は魔法で残り寿命を足して割ってるので外因で死ななければ同じ日に死ぬ




